非常に残念な世界遺産ノートルダム大聖堂の焼失
西暦1345年といえば、日本では南北朝時代である。ノートルダム大聖堂ができたのは、ちょうど後醍醐天皇の死後、後村上天皇が南朝を継いで、政務をとっていたころのことである。 そのノートルダム寺院が火事で焼失した。 かなり衝撃的な内容である。4月15日午後6時50分(日本時間16日午前1時50分)ごろであったという、補修工事をしている足場のあたりから「ありえない出火」といっているが、その出火が広まり、そのまま燃えてしまったのである。 ヨーロッパの建築物は、基本的に石でできている。しかし、石材で屋根を作ると重たいので、城など以外は、石材ではなく屋根の部分はすべて木造になっているのである。その木造部分が完全に燃えてしまい、そして上からがれきが落ちてしまう。また、その熱でステンドグラスなどが解けてしまい、名物のバラ窓などは完全に破壊されてしまったのである。 日本で言えば、年代的には天竜寺や金閣寺(鹿苑寺金閣)が焼けたような感じである。しかし、多分心情的には彼らはパリの根源がノートルダム寺院であると考えていることから、ある意味で、東大寺とか姫路城とかが焼けてしまったかのような感覚になってしまうのではないか。ちなみに天竜寺は中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、文禄5年(1596年)慶長伏見地震にて倒壊。その後しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。 ある意味で、ノートルダム寺院はパリっ子がみんなで守りなおかつ、シテ島の真ん中にあることからちょうどお堀に囲まれたような形であったことから、第二次世界大戦のナチス後いつにも負けなかったにもかかわらず、今回燃えてしまったのである。 屋根3分の2、尖塔崩落=世界遺産のノートルダム大聖堂-鎮火に半日以上 【パリ時事】フランスのパリ中心部にある観光名所のノートルダム大聖堂で15日午後6時50分(日本時間16日午前1時50分)ごろ、大規模な火災が発生し、屋根の3分の2と尖塔(せんとう)が焼け落ちた。消防当局は16日午前(同夕)、「完全な鎮火」を宣言した。当局は出火原因の特定と修復に向けた被害状況の確認を急ぐ。 大聖堂は老朽化が進み、尖塔を中心に大規模な改修工事が行われていた。火元は屋根に組まれていた作業の足場付近とみられている。火災は瞬く間に広がり、木材が多く使われた高さ約90メートルの尖塔は約1時間で崩落した。 消防当局は約400人の隊員を動員し、大聖堂の外側と内側から消火活動に当たったが、完全に消し止めるまでに半日以上を要した。 一方、正面の2基の塔は焼失を免れたほか、大聖堂の柱やアーチなどの内部構造は無事だった。大聖堂の司祭は仏BFMテレビに対し、イエス・キリストが十字架に処される際にかぶっていたとされる「いばらの冠」などの重要な文化財は「消防隊員により無事に運び出された」と語った。 マクロン大統領は15日夜、「最悪の事態は免れた。われわれは大聖堂を再建する」と明言。世界中から寄付金を募ると訴えた。仏当局は聖堂内のステンドグラスや絵画などの被害状況を確認し、一刻も早い修復に着手する方針だ。 出火原因は「失火」の可能性が高いが、仏メディアによると、司法当局が既に現場作業員から聞き取りを行った。 大聖堂は1345年の完成以来、大きな火災に見舞われることなく、フランス革命や二つの大戦も生き延びた。1991年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録され、毎年約1300万人の観光客が訪れる。 【時事通信社】 2019年04月16日 17時55分 時事通信 https://news.nifty.com/article/world/worldall/12145-249396/ さて、実際に画像を見てしまうと残念というような言葉しか出ない。言葉を失うとはこのことであろう。 さて、ある意味で補修作業中の火事というのはまさによくある話だ。日本でも工事中などの火災は少なくない。特に「補修」というのは寺院などを閉鎖せず、そのまま一般の人々が使用できる状態にしながら、横で工事を行うので、当然に工事そのものに無理がかかる。そもそも工事用の電動工具などはすべて電圧なども高く、一般で使用するには危険なものばかりであるだけではなく、そのような電圧に耐えられる配電盤を持っているかどうかの問題などがあるのだ。片方で一般客に対して気を使わなければならないのに対して、一方で工事をしなければならない。そのうえで、終わってからの電圧の検査などをしなければならないのである。もちろん、火災の原因が度が決まったわけではないが、作業が終わっていたといえば、火の不始末かあるいは漏電しかない。 このように考えると、そもそも閉鎖しないで改修工事をするということ自体に非常に大きな問題があったのかもしれない。 さて、このような言い方をすれば冷たい言い方になるかもしれないが、原因を追究しても燃えてしまったものは元に戻るはずはない。そのために、ここで言えるのは、なんといっても燃えてしまったことに対するフランス国民の心のケアということであろう。これは、地震というように原因は違うものの、熊本城の再建と同じではないか。象徴的な建物というのは、まさに心のよりどころとなる。その心のよりどころとなった場所がなくなった時のショックはかなり大きなものになったということになるのである。 正面の2基の塔は焼失を免れたほか、大聖堂の柱やアーチなどの内部構造は無事だった。大聖堂の司祭は仏BFMテレビに対し、イエス・キリストが十字架に処される際にかぶっていたとされる「いばらの冠」などの重要な文化財は「消防隊員により無事に運び出された」と語った。<上記より抜粋> まさにそのものがあるのが、せめてもの慰めではないか。 私が生きているうちに、もう一度、見ることができるのであろうか。支援は惜しまないが、ここから別に教訓を得るべきことがあるのではないか。