一本150円で味わえる「街の重要文化財」
沖縄が米国から返還される前の1969年春尽、僕らは当時住んでいた「上福岡」から東武東上線を下り、「東松山」駅に降り立った。
駅の出口は現在の東口ひとつで、改札を抜けるとそこには大きな赤い鳥居がそびえ立っていた。小学生の子供にとっては異様と思える光景に怯えつつ、現在のボタン通りに入り、歩を進めた。町一番の商店街はざわざわと活気に溢れていだが、「デパートはないの?」と問いかけた僕に、親戚の叔母さんは「”まるたけ”ここは食のデパートよ!!」と言われ、すっかり出鼻を挫かれてしまったのが僕の辛い思い出だ。
「まるたけ」から更に30分程度歩いた松山町に新築の我が家があった。2階建てで、庭もあり、なかなか立派な佇まいだったが、周りに殆ど民家がない。当時、この一帯は「日本シルク」のお膝元だったから一面桑畑だったのだ。とはいえ、当時から現代まで家から歩いて10分程度のところに幼稚園と公立の小中高、ひいては市役所まであるのだから立派な住宅地と言っても過言ではなかろう。
地図イラスト 桑島幸男
デパートが遊び場だった街っ子ではあったが、田畑に囲まれた環境に溶け込むのはさほど難しくなかった。というのも東松山はアップダウンが少ないから自転車で駆れば遠くまで簡単に行けて実に楽しかった。
特に友達ができてからはその行動半径も飛躍的に広がった。なかでも思い出深いのは当時、下野本に「豊島製作所」というベアリングを扱う会社があり、そこが子供向けにローラースケートを作っていた。こじんまりだが、敷地内に子供が遊べるようにスケートのテストコースを開放してくれていたのだ。実はここは知る人ぞ知るスポットで夢中になって通った覚えがある。次第に季節は巡り、陽暮れが早くなり、辺りが薄暗くなると僕らのお腹は一斉に鳴りだす。とはいえ、小遣いは赤、黄、白のコインばかりだったから大した買い喰いはできないが、ときには赤い酢漬けイカを買って”木枯らし紋次郎”のように串をくわえ、猛ダッシュで家を目指した。
イラストchiaki morita
254の旧道をひた走り、「自動車機器」を横目に、駅の踏切を渡り、「箭弓さま」から「チ”-ゼル機器」を抜けて帰る途中、あちこちで赤提灯に陽が灯り、香ばしい匂いが鼻を容赦なく刺激した。ある日母親にその光景を尋ねると、「あ〜それ”やきとり”だがね、お兄ちゃん」と返事が返ってきた。オヤジが東京へ通うサラリーマンだったから、我が家はそれを土産に貰うこともなかった。未だに知らぬ”やきとり”の味を思い浮かべながら「松1小」で過ごした時間は過ぎて行った。
松1小の路地を挟んだ隣にある「松中」に進むと僕は音楽とファッションに夢中になった。ビートルズやフォーク、そしてソウルミュージックと音楽の幅は広がり、ファッションに関してもアイビーからコンチまで駆け巡った。すると当然、親から貰う小遣いだけで物欲を満たせるはずもなく、新聞配達のバイトをして小遣い稼ぎを始めた。当時朝刊に挟むチラシの帳合いをするバイトが日給制で、普段は300円〜500円だったが、チラシの量が増える週末は1000円貰える日もあった。この日ばかりは一緒にバイトしていた友達とともに貰ったバイト代を確と握りしめ、”やきとり”を頬張った。初めて戸を叩いたのは上沼の上にあった店。子供お断りと言われる店が多いなか、ここの親父さんは実に良くしてくれた。友達と二人でコーラを飲みつつ、やきとりを有に40本は平らげた。勿論まだまだ喰えたが、家に帰って本格的に飯も喰うし、予算もそれがギリギリだった。なんだかんだ週に一度は足を運んだ記憶がある。そう、ここで僕はようやく”やきとり”の味を五感に刻む事ができたのだ。
ときは1980年代。今や市内でも屈指の繁盛店となったやきとり屋のオヤジは中学2年の同級生であり、今も変わらぬ友人だ。僕らが20代の中頃、彼の親戚筋にあたる人が「氷川さま」の側で料理屋をはじめたから一緒に行かないかと誘いを受けた。訪れた店はとても立派で、外観は映画のセットのようだった。扉を開けると、板長は剣道の師範とかで、藍染の作務衣がキリリと似合う、時代劇に出でくる俳優のように格好が良かった。まずは酒を注文し、メニューを見て頼む品定めをはじめた。まだまだ人生修行が足りない僕らであったが、料理屋に行ったら、煮物、焼き物、揚げ物、蒸し物、お造りを順に注文するようにと聞かされてきたから大方の料理を決め、焼き物は何にする?と皆でメニューを覗きこんだ。するとそこに”やきとり”の品書きがあるではないか!!僕らは迷わず、やきとりを選んだ。すると親戚筋にあたる友人は、「やきとり・・・ここのは普通のやきとりじゃねえぞ。肉が鳥なんだ!!」と牽制してきた。一同「そうな〜ん鳥な〜ん、んじゃ他のにすんべえ!!」と声を揃えた。一般的には信じられないだろうが、ここではそれが常識なのだ。
東松山でいう”やきとり”は豚のカシラ肉をネギ間にし、ピリ辛の味噌だれをつけて食すもの。更にそれを備長炭で焼くのが完全無欠のレギュレーションだ。つまりその定義がひとつでも省かれていたら”やきとり”ではない。もちろんそれを焼きトンなどと呼ぶはずもないし、この街の住民は最初からそんなボキャブラリーを持ち合わせていない。因みに、東京ではこうした焼き物のことを臓もつ、略して「もつ焼き」と呼び、関西では赤身を採った後放る(捨てる)ものだから、「ホルモン焼き」と呼ぶのが全国的なコンセンサスといえるだろう。
現在僕の住まいは東京にあるが、80歳を過ぎた親父が今でも松山町にある実家で元気に暮らしている。月に一度は顔をだすようにしているが、このとき何よりも楽しみなのが、「蔵の湯」と”やきとり”だ。現在中学時代の友達が数名、加えて親戚が”やきとり”屋を営んでいる。また市内には50を越える”やきとり屋”が毎晩炭を入れているから今宵は何処の暖簾を潜るべきか迷ってしまう。というのも店によって肉のトリミング方法や、味噌だれの味に違いがあるからだ。因みに最近は肉が大きく、赤身の部分だけを刺して提供するのがトレンドだが、僕らが子供の頃は串の一番下や赤身とネギの間に脂身を挟んだものが多かったと思う。備長炭でしっかりと焼いた脂身は口溶けも柔らかで、ほんのり甘〜く、そして胃に膜を張ってくれる効果があるから酒飲みにとっては正に理想的だ。こうしたクラシックな”やきとり”を提供してくれる店も健在だし、友人が営む”やきとり”屋では脂身だけを刺した隠れメニューもある。またこの町の”やきとり”を語るうえで不可欠な味噌だれも滑らかなタッチのものから硬いディップ状のものまで様々で、味噌のなかに入れる隠し味にも違いがある。こうした店毎の違いを楽しめるのもこの町で”やきとり”を味わう醍醐味といえよう。
さてそんな僕も57歳になる。東松山に帰り、変わらない町の風景に触れると心も解放されて穏やかになるが、それに拍車をかけるのが子供の頃に一緒に遊んだ友人と先輩・後輩の存在。当時は綺麗にリーゼントが決まっていた先輩や友人も、今やその多くが、バーコードか落武者、あるいはお茶の水博士か電球のような容姿になっている。だから、”やきとり”屋の暖簾を潜っても腰をかけるまでその存在に気がつかないことが多い。
しかし、一度その存在に気づくと、軽く3〜40年前にワープして、実に心地いい時間が過ごせる。 昔から変わらない伝統の味に舌鼓を打ちつつ、懐かしい顔ぶれと昔話を愉しむ。”やきとり屋”は我が町ならではの大人の社交場であり、貴重な文化財なのである。
青柳 光則(文)
◆青柳光則(アオヤギミツノリ)プロフィール
1960年 東京・練馬区生まれ・埼玉県・東松山市出身 専門学校卒業後、
スタイル社「男子専科」編集部を経てフリーに。
スタイリスト、ファッションライターとして、
ファッション雑誌、広告、芸能&アーティストの衣装製作、
老舗百貨店のカタログなど幅広く手掛ける。
有限会社ハミッシュ主宰http:www.hamish.co.jp
近著に「男のお洒落道 虎の巻」 万来舎刊がある。