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aya-kobayashi-manita 's 翻訳 Try It ! ~pupils with heart~

日動コンテンポラリー ~復活エッセイ④~

2019.04.20 11:05

(2000年前後の文章。出来たばかりの日動画廊コンテンポラリーアート部門である日動コンテンポラリーを訪れた際の感想文です。)



  日動コンテンポラリー “identity展”

  他人の眼に見つめられる自分、生活環境に合わせた役割を上手に演じ分ける自分、それが崩された時に露出する自分、或いは、世界地図上に乗せて見る自分の姿。その模索は今日の東京においてどのような意味をもたらすのか。そしてそのような活動に対する画廊の可能性とは。これらの問いを改めて日動コンテンポラリーは投げ掛けている様だった。

 日動コンテンポラリーは、78年の歴史を持つ日動画廊が新たにオープンさせた画廊スペースである。戦後東京の発展を常に力強く支え軽やかに先導もしてきた伝統と誇り、又、寛容性が、脈々と息づく銀座という街に寄り添う様に成長を遂げてきた日動画廊の現代写真、映像部門と言う事で、正に“都市の伝統が生み出す現在”を見据える新旧混在の画廊のように思える。立地も、インターナショナルアーケードという、一目でモダン都市の今昔に想いが馳せられる場が選ばれており、その意味でも今回の“Identity”展は、流動的な時代状況の混沌に巻き込まれつつもその中で自己を収拾し、保とうとする作家達に照準をあてた、意義深いテーマ性が感じられる。

 銀座駅から和光時計台を見上げつつ交差点を渡り、そのまままっすぐに進みながらマリオン映画館前に集まる人々を遠くに眺め、左折する。泰明小学校の壁沿いを足早に歩くと、高架線下に、日動コンテンポラリーの新天地、インターナショナルアーケードが見えて来る。ショッピングビルとオフィス街の匂いを身にまといつつ、その昭和のネオンを思い出させるライトの中に足を踏み入れると、一列に並ぶ骨董商品店に「失礼します」と、まるで歴史に受け入れてもらおうと接触を試みる若い新人のような気分になる。そして、その無言の挨拶回りの先、つきあたった位置に、目当ての画廊は静かに居を構えていた。入り口に展示された写真はあたかもそれまでの視覚の混乱を融和するかのように新鮮さと懐かしさが入り混じっている。展覧会タイトルは“Identity”。「“Identity”は、世界情勢など自己の外界の出来事との関連で受けとめられる。」と画廊のディレクター竹田氏が述べる様に、現代社会における個人の内面とそれを取り巻く環境、又、人間同士の接触と葛藤、そこから生じる平穏の一時の再現を試みているかのように思われる展覧会である。世界各国11名の写真家達各々の自己追求の術が、囲われた一つの狭い空間内で競い重なり合うのではなく、どちらかというと向き合う様に絶妙な距離を保ちつつ並んでいる。外界の日常生活を背に足を踏み入れ、アンティークが軒先に売られるある種迷宮めいた一本道を通りぬけたその行き止まりに出会う、吹き溜まりにも似た画廊である。日常と異空間がゆったりと交差し、不思議なぬかるみに一瞬まどろむが、高架線下のため時折耳に入る有楽町線の車輪音がふと現実に立ち返る機会を与える。そのような立地条件を有効に使用し、日動コンテンポラリーは静止している写真という時と、脈々と生き続ける現在を上手く融合させる。そして、勿論、アーティストという現代の大都市からは一歩身を引いて、世界という川辺に手をそっと差し入れながらもそれ以上のまじわりは踏み止まらなければならない人間達の、唯一の社会参加の手段であるアート作品、その社会関与をプロモートする美術産業、客、という不可思議な程に見えない様で頑丈な、しかし絵に描いた様に細くてもろくもある鎖の循環も、鮮やかにヴェールで覆い、画廊という舞台空間の演出効果として吸収しきっているかに見える。

 日常と芸術作品の世界、社会と自己の内面、生活と夢、時に昔日の想い出に発見する、新しい個性、日々繰り返される戦闘と逃避、アーティストとしての感情のはけ口と、理論による批評―この様な、現代美術を社会に迎合する上で重たい扉となる二律背反性を、矛盾と捕らえて投げ捨てるのではなく、スマートに乗り越え全てを混在させる事で一つにする、そして世間から距離を置くような、しかし近いような位置から静かに発光する日動コンテンポラリー。今後、どこまで、どのように何を見せてゆくのか。まだ始まったばかりである。