4月の会~いま、おとなにできること②~
今回のブログは難しいなあ。
なぜって一行も読み進められなかったのです。
8章冒頭のシュタイナーの言葉から「純粋思考とは何か?」を話している間に話は方々に飛び、気付いたら終了時刻になっていました…。
それだけこの「純粋思考」という言葉が、私を含め初めて聞く方にとって輪郭を捉えにくいということなのでしょう。
以下、今回課題となったシュタイナーの言葉。
“人間のなかには、この「生」と「死」を超えた何かがあるのです。それは地球上のほかの一切の生物には備わっていないものです。人間だけが誕生から死にいたるまで、生涯にわたってその何かを有しています。それが「純粋思考」というものです。この純粋思考は、外なる自然に由来するものではなく、人間自身のなかにります。そして、人間は、この純粋思考によって、自律した存在になるのです。この純粋思考によって、人間は死も、生も超えた存在になることができました。ですから、人間の自由について語るときは、人間のなかのこの自律性に目を向けなければなりません。それは感覚経験から独立した純粋思考であり、そこではつねに意志が一緒に働いているのです。“
上記の前半をまとめると、純粋思考とは、
◎生死という時間・空間的制限を超えたものである。
◎他の生き物(動物を含む)には備わっていないものである。
◎人間だけが生まれた時から死ぬ瞬間まで有している。
自然界のものは全て有限であり、生まれることは、いつか終わることとセットです。生死と循環のサイクルから逃れることはできません。あらゆる生き物はいつか死を迎えるし、身体だけでなく、思考も感情も同じものが永遠に続くことは無い。そのアイデアや感情は少しずつでも変化し、他のものに取って代わられます。その点で目に見える身体だけでなく、思考や感情も自然界に属すものです。
「純粋思考が生死を超えたものである」ということは、純粋思考は「自然に由来するもの」ではありません。自然に由来するものは全て有限ですから。
また、自然のものは全て受動的な側面を持っています。存在するあらゆるものがお互いに影響を与えあい、受けあっています。肉体は外から取り入れた食べ物でできています。自然環境が破壊され汚染されれば、私たちの肉体も汚れます。仏教の縁の概念です。
また、何を食べるか自分の意志で能動的に決めているようで、それを食べようと意思決定した根拠は必ず何か、外からの影響を受けています。これは完全なる自律ではありませんよね。100%自分でコントロールしたものではありません。常に他からのコントロールを受けています。ゆえに、冒頭シュタイナーの言葉中盤をまとめると、
◎純粋思考とは、自然界に属するものではない。
◎生まれた瞬間から、ただそれとして自律的に人のなかに在るものである。
◎この「純粋思考」に意識の照準を合わせることで、人は自律した存在になれる。=生死を超えた大きな視点に立つことができる。
ということなのかなあと思います。
シュタイナー教育は「自由への教育」と言われます。本当の自由とは何か?好き勝手に行動することでしょうか?自分の意志を貫き通すことでしょうか?
人間の自由について考えるとき、シュタイナーはこの純粋思考に目を向けなさいと言っています。前回も書いたように、あらゆる感覚経験(自分の個人的な経験。あるいはそれらの経験からくる物事の認知、識別の仕方)から離れて、純粋思考を働かせてみる。そのことが私の思考を、意識を、感覚を、言葉を自由にしてくれると言っています。
同時に、シュタイナーは一人一人の内なる想いを大切にするようにとも言っていました。これまで本書を通して何度も学んできたところです。一人一人に「こんな風に生きたい」「こんな人間になりたい」という個人的な想いがあります。他者から強制される「このように生きなさい」ではなく、自分の内なる光に従って生きていく。その姿勢も「自由である」とします。
しかし、それとは別に、その個人性を乗り超え「人類の思い」というものまで意識を拡大してみる。「私の人生」ではなく「私たち人類の人生」への意識の転換。こちらから見るのではなく、あちら側から地球全体を見下ろし、さぁどう生きようかと俯瞰するような視座の転換。そのような態度もまた、自由であると言えるのす。
そして、その視点に立つかどうかは意志の問題なのです。つまり前回も出てきた「思い切る」ということです。自分の中には人類の思いが息づいている。人間の代表として子どもの前に立つのだ。その覚悟と意志が、私たちを純粋思考へと向かわせてくれる。私たちを真の意味での成熟した「おとな」にする。そう言っているのだと思います。
今回はこんなことを確認しあって終了しました。
次回こそは読み進めるぞ。