美のプレッシャー
「気にすること」の基準は、人によってまちまちである。このところ心配事が重なり、よく眠れない日々が続いた。
寝不足生活の至り、みなさん判を押したように「キレイになった」と言ってくださるのがありがたい。人々はよく「どうして」と首をかしげるが、簡単なことだ。あまりにも強くいきいきとした魅力が強調されるとその分“美女”というオーラは薄れてしまう。これは世の理というものである。
こんな日が訪れようとは、いったい誰が想像してくれたであろうか。どうやら若いころ、あんなレベルだった女性が、整形もせずにここまできたことが驚きのようだ。あの人だってやればできる、ということなのであろう。
心配事と、もっとキレイでいなければというプレッシャーとで、最近私はますます眠れないようになった。それにすごくお酒を飲む。毎日といっていいぐらいハーブ酒が欲しい。最近お気に入りの銘柄を一ケース買い占めたばかり。いけない、いけないと思いながらついお酒に手を伸ばしてしまうのだ。これってアルコール依存症の第一歩ではあるまいか。
昔から美人の人ならともかく、私は“美”のプレッシャーに負けてしまいそう。この齢になって突然浴びせられた誉め言葉に、精神が耐えられないのね…。
しかし超絶美少女のAちゃんは私を励ます「どんなに美しい人でも、お召しになるものは素敵なおしゃれなものじゃなきゃダメですよ。恵美子さん、お買い物にいきましょう」
私はこの言葉に感動した。美人は楽しいことしか考えない。そう、美しく生きるって、前向きに生きることよね。すぐ大急ぎで、地下鉄に飛び乗った。
気がつくAちゃんは、アドバイスをくれる「恵美子さんぐらいの年齢の人は小物でトレンドをとり入れると上手くまとまりますよ」
私はハンドバッグに目がない。目新しいものを見つけるとつい手が伸びてしまう。特に宝石みたいなハンドバッグはイチコロだ。収納力とか、堅牢さとか、そんなことに関係なく、ただ見た目で選んでしまう、いわゆる惚れた弱みというやつだ。
この日はスパンコールの、タッセル装飾のついたミニバッグと、心浮き立つようなバイカラーの、革のバケットバッグを包んでもらった。
私はハンドバッグを買うときに、全く違うことを考える。仕事のためのバッグと、たんに所有欲を満足させたいがためのバッグというのが、この世には存在していると思っているからだ。
まず仕事のためのバッグは、これはけっこうシビアな目で選ぶ。重いメモ帳とか、資料などといったものを入れてバッグはぎっしりと重くなる。こういう酷使に耐えられるバッグというのは、名もないイタリア製の書類バッグなんかがヒットする。ま、このテのバッグを選ぶのは、夫を選ぶのに似ているかもしれぬ。丈夫で長持ち、しかも飽きがこない。となると、ふつうのカタチで、しかもしっかりしているのがよい。
反対に恋人バッグというものがある。あまりモノが入りそうもない、それに手荒に扱ったりしたらすぐ壊れそう。おまけにデザインにクセがあるから、着る服を選びそう。どんなテイストにも似合うというわけにはいかないバッグ。だけど欲しい。他の人にとられるのはイヤッと思って買うバッグだ。すんごい美少年なんかを愛人にしたら、こんな気持ちになるのではないだろうか。とにかくこのテのバッグをいっぱい集め、時々取り出してはニコニコしている私である。
さて、買い物を終えた私たちは、有名鮨店へ。Aちゃんのこれまた超絶美女のお母さまが、夕食をご馳走してくれたのである。さすが美人は食べるものが違うわ。とても親切なお母さまで、明日食べるようにと、ちらし鮨をお土産に注文してくれた。店を出るときに紙袋を渡される。ゆうに三人前あった。
ということで、とても楽しみにしていたのであるが、考えてみると次の日私は、午前中に地方へ行くことになっている。朝は忙しくて、大切なちらし鮨を食べる時間がない。
「そうだわ、列車の中で食べよーっと」
しかし悲劇は数時間後に起こった。それは列車の通路側の席に座った私。しばらくすると私の隣りに男性が座った。なんということであろう。端整という言葉は、この人のためにあるのではないかというノーブルなハンサムである。「ジャストタイプ」つぶやかずとも、その声は自然にはっきりと自分の中に響かせることができた。
この男性の隣りでちらし鮨を食べるのははばかれ、空腹を紛らわすためにぐびぐび緑茶を飲み続けた結果、トイレが近くなってきた。わずか二時間が耐えきれず、トイレに行った。
用を済ませ、中の水道で手を洗った後、外に出て洗面所の前に立った。無造作にバッグをほうり投げ、メイクと髪を直した。が、私は知らなかった。最近の列車の水道蛇口は、ほとんど自動式になっている。手を差し出すと反応して、自然に水が出てくるのだ。
この日のバッグは、昨日買ったばかりの口が広いタイプのバケットバッグ。これを広げたまま蛇口の下に置いたため、上から水がどーっと出てきたようなのだ。が、私は何も気づかず、水槽と化したバッグを持ち席に戻った。タブレット菓子を取り出そうとしてびっくり。中に金魚が泳げるぐらいの水がたまっているじゃないの。
私は大慌てで中のものを取り出した。プレゼントされたばかりの、財布もぐっしょり。手帳も、名刺入れもぐっしょり。そして私は最も重要なことに気づいて、水槽の底をかきまわした。携帯が水の中。こうして私の携帯は、あわれ水死を遂げたのだ。
家に帰って、この話をしたら家族に大層怒られた「なんてことするんだ、ドジ、おっちょこちょい!」
確かにそのとおりかもしれないけど、何もそんな言い方しなくてもいいじゃない。わーんと泣きたくなる私であった。
悪いことには、どうしてこう悪いことが重なるのであろうか。長く生きれば生きるほど、この疑問は私の中で大きくなっていく。反面、いいこともつながってやってくる。鼻歌まじりに電話を切れば、その後スキップしたくなるようなことが玄関からやってくるのは本当だ。
しかし、いいことがふた粒だとすると、悪いことというのは、三粒か四粒、つながってくるようだ。こちらがきょとんとしたくなるほど、それは用意周到にやってくる。運命の神様が、こちらをあざ笑っているのか、それとも占いによるところの「厄日」なのであろうか。