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4月16日 山鹿市 → 菊池市[歴史公園 鞠智城]→ 和水町(32km)

2019.04.24 13:24


今日は、山鹿市と菊池市の境界付近にある「歴史公園 鞠智城(きくち)」を見学することに。


ここは、先日訪れた熊本博物館の展示で初めて知った場所である。



663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、唐や新羅からの攻撃を恐れ、九州や西日本の各地に山城を築いた。


ここ鞠智城は、そのうち最も南に位置する山城である。




初めに、資料館「温故創生館」(無料)を見学することに。




資料館の前には、こんな一風変わったモニュメントが。



資料館に入ると、まずは、鞠智城についての解説から。



1.  鞠智城について

今から1300年ほど前、朝鮮半島が高句麗・新羅・百済の三国により分割されていた時代、大和朝廷が支援していた百済は北方の新羅に攻められ、援軍を送った大和朝廷は、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗する。


唐や新羅の攻撃を恐れた大和朝廷は、侵攻に備え、九州や西日本の各地に山城を築く。


しかし、唐や新羅の侵攻はなかった。


その後、地方政府の役所や食糧の備蓄基地のような役割を持ち、建設から300年ほど、10世紀あたりまで使用されていたと考えられている。



2. 古代山城について


こうして築かれた山城を総称して「古代山城」といい、中でも『日本書紀』『続日本紀』などの歴史書に記載されている城を「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石式山城」という。


鞠智城については、『続日本紀』に記載があるため、「朝鮮式山城」に分類されている。




3. 文献に見る鞠智城


鞠智城が初めて文献に登場するのは、698年『続日本紀』。

「甲申、太宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智の三城を繕ひ治めしむ」との記載がある。


次に登場するのは、858年『文徳実録』。

「丙辰、肥後国言す、菊池城院の兵庫の鼓自ら鳴る」とあり、表記が変わっているという。




この説が正しければ、713年に「よい意味を持つ漢字」として、「菊池」が選ばれたということか。



4. 木製の出土品について


貯水池跡から、農工具、建築材、杭などの木工品に混ざり、木簡が出土している。


木簡には、「秦人忍□五斗」と墨で書かれており、これは米を収める際の荷札と考えられている。



この時代は、紙ではなく、木簡が主流だったようである。





資料館2階には、珍しいところで、「同田貫正国」という日本刀が展示されていた。



鞠智城からほど近い、菊池市稗方の同田貫という場所では、古くから鉄が豊富で、16世紀中頃より刀工の一群が活躍していた。


同田貫正国とは刀工の集団の名前でもあり、加藤清正のお抱え集団として「正」の字を賜っている。



ちなみに、同田貫といえば、テレビドラマ「子連れ狼」で、主人公・拝一刀が愛用していた刀。劇中では「胴太貫」とされている。


以下、「子連れ狼」を知らない人のために簡単に解説すると。。。


水鷗流の達人・拝一刀(萬屋錦之介)は、代々江戸幕府より「公儀介錯人」の役を仰せつかっていた。これは、通常の罪人ではない、武家諸法度に違反し切腹を命じられた大名を介錯する役目である。 この公儀介錯人の地位を巡って、彼と柳生一族は衝突していた。 

ある日、公儀介錯人の地位を狙う柳生一族は、拝の邸宅を襲撃し、彼の一族を皆殺しにしてしまう。さらには彼に謀反人の嫌疑をかけ、拝家は幕府によって取り潰されてしまう。

一刀の幼い一人息子・大五郎だけが生き残った。 

一刀は、この一連の非道が、柳生一族の真の支配者にして、幕府の裏家業を請け負う「裏柳生」の仕業だと見抜く。

すべてを失った彼には、もはや座して殺されるのを待つか、自ら復讐の鬼と化すか、その二つの道しか残されていなかった。 

彼は、まだやっとハイハイができるようになったばかりの息子・大五郎の目の前に、愛刀・胴太貫と毬を差し出し、道を選ばせる。萬屋錦之介の名セリフである。

「これが手鞠、これは拝家代々に伝わる胴太貫。よいな大五郎。手鞠と胴太貫、このいずれか一つを選ぶのだ。もし胴太貫を選ぶば、父と共に刺客の道を行く。拝一族の恨みを晴らし、柳生に受けた恥辱を濯ぐため士道を捨てて、まこと地獄の道に生きる鬼と化すのだ。その道は血と屍、殺戮と非情の刺客道となるであろう。(中略)
   しかし手鞠を選びたければそれでもよいのだぞ。いや、その方がおまえにとってはよいかもしれん。手鞠を選ばば母のいる遠い黄泉の国へ送ってやろう。そして母の元で安らかに眠るのだ。わかるな大五郎。手鞠、胴太貫、いずれを採るか。己の進むべき道を選ぶのだ。」

大五郎ははじめ、手毬の方に向かって這いずっていく。

そして、手毬に手が届くかどうか、というところでちょっと考え込むような素振りを見せ、身体の向きを変えると父の愛刀をつかむのである。

こうして一刀と大五郎の、刺客としての長い苦難の旅が始まったのであった。



展示された同田貫はレプリカであったが、思いもかけず大好きなテレビドラマを思い出させるゆかりの名刀を目にし、大満足のYであった。





資料館の見学を終えた一行は、菊池城跡地の公園散策に。


まず、目につくのが八角形の「鼓楼」と呼ばれる、特徴的な建物。



これは見張りや時を知らせるためのものだが、中国・朝鮮からの影響が大きく、日本にはほとんど見られない様式だ。





その他にも、米倉や兵舎、礎石、土塁などが残されているが、建物は全て新たに復元したもの。



当時の山城のスケールが体感できる、まさに大陸的な公園であった。