4月18日 上天草市[天草四郎ミュージアム・天草四郎公園]→ 天草市崎津(92km)
晴れ渡る青空に恵まれ、爽快な気分。
ここ道の駅「上天草サンパール」は、南国のリゾート風。
⭐️おすすめの道の駅認定⭐️ 道の駅「上天草サンパール」
駐車場内にあるオブジェは、この地の特産品ということらしい。
今日は、まず、道の駅真向かいにある「天草四郎ミュージアム」を見学。
これまた、なぜかリゾート地の結婚式メインの教会のような雰囲気。
庭先には、「愛する人のことを想いながら、神秘なる海に向ってこの鐘をたたいて見ませんか。潮風がきっとあなたの愛を運んでくれるでしょう。夫婦の愛は永遠に 恋人は結ばれ そうして新しい愛や友情が深まることを願って」と書かれた愛の鐘まである。
この鐘をついて、結婚式をあげたくなるカップルは多いに違いない。
さて、話は脇道にそれてしまったが、ミュージアムについて。
南蛮文化やキリスト教伝来当時の様子や、「島原・天草の乱(島原、天草一揆)」を、映画やジオラマなどで紹介している。
館内は、一部撮影禁止のところが多いが、ここは完全に撮影禁止。
一度目を通しただけで記憶に留めることは不可能なので、映像や資料として残しておいて、振り返ってみたいというタイプの人(我々のことか)には物足りない対応である。
さて、問題の天草四郎について。
天草四郎とは、一体どんな人物なのか。
彼について、現存している正式な資料も少なく、謎が多いため、伝説の域を越えないが、
その伝説の天草四郎像を追ってみたいと思う。
天草四郎。
1621年生まれ。
本名、益田四郎。諱は時貞。
キリシタン家庭の益田家、第一子。
洗礼名、ジェロニモ(のちフランシスコに改名)。
9歳から手習いをはじめ、長崎で学問を修め、神童と呼ばれる。
父・益田甚兵衛
小西行長に仕えた浪人武士。農民。
「島原・天草の乱」の首謀者の一人であると伝わる。
なぜ、天草四郎は総大将となったのか
四郎は十代半ばで総大将となり、島原・天草の民衆3万7千人を率いている。
武将でもない四郎が、どうやって頂点に登りつめたのか。
それには、 一揆軍の中心がキリシタンであり、そこで広まったお告げにある。
上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が、
「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言して日本をあとにしている。
残された信徒達は、以来、神父のいう神童の出現を待ちわびていた。
そこに現れた才色兼備な少年。それが四郎であった。
「四郎こそが予言にある天の使者に違いない」という噂が、島原・天草一帯に広まる。
一揆の原因となったのは、藩主・松倉重政による過酷な税の取り立て。
深刻な飢餓状態にも関わらず、それを全く考慮せずに、キリシタンや年貢を納められない農民に対して行った残忍な拷問や処刑で、民衆の怒りは沸点に達していた。
一揆の機運が高まった頃、予言通りに彗星の如く現れた天の使者四郎。
当時、キリストの生まれ変わりだとまで噂されたという。
島原と天草の中間に位置する湯島で行われた、島原と天草の一揆勢幹部の談合により、四郎は一揆勢のシンボル、総大将として担ぎ出されることになる。
ちなみに、この湯島では、武器の製造も行われていたといわれている。
この戦いのきっかけは、確かに行き過ぎた年貢の徴収に対する抗議ではあるが、その戦い方は、単なる農民一揆レベルではなさそうである。
「島原・天草の乱」で実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛などの浪人や庄屋であり、原城に立て篭もった際には、ポルトガルの援軍を待っていたとされている。
しかし、その前に先手を打った松平信綱の戦略により、戦意を削がれる結果となる。
幕府軍を指揮していた松平信綱は、一揆軍がポルトガルの援軍を待っていることがわかると、オランダに願い出て、原城へ向けて大砲を撃ってもらう。
一揆軍は、ポルトガルが幕府軍に寝返って攻撃を仕掛けきたと思い失望し、加えて兵糧攻めを仕掛け、一揆軍の戦意を消失させ、一気に原城総攻撃をかけて一網打尽。
立て篭もった一揆軍全員を皆殺しにする。
一人残らずと言いたいところだが、たった一人密告者となったものが生き残ったらしい。
松平信綱とは、なかなかの知恵もの。
「知恵伊豆」と称されるだけのことはある。
また、「島原・天草の乱」は、この一揆の参加者の大半がキリシタンであったということで、「キリシタンの暴動」として片付けられようとされた。
一揆の原因が「過剰な年貢の取り立てによるもの」というのでは、藩主が失政を認めることになる。
「一揆の原因は、キリシタンの暴動」と言っておいた方が、藩主によって都合が良かった。
また、当時キリシタンの弾圧を目論んでいた幕府にとっても好都合であったようである。
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天草四郎には、多くの伝説がある。
1.天草四郎が起こした奇跡
①四郎が盲目の少女に触れただけで、少女が視力を取り戻した。
②四郎が海の上を歩いた。
③四郎が祈りを捧げた時、天から舞い降りた鳩が卵を産み、中から聖書が出てきた。
④四郎がスズメに呪文をかけると、ピタリと動かなくなった。
これらの奇跡は、聖書に記されているキリストの奇跡と酷似しているとされ、真偽は定かではない。
2.天草四郎、架空の人物説
キリシタン達が、総意を結集させる為のリーダー的存在を作り上げたのではないか。
または、「天草四郎」というグループ名で戦ったのではないかとする説もある。
幕府軍側は、天草四郎の人物像、人相を把握できていなかった。
総攻撃で一揆軍を壊滅させた幕府軍は、城内の屍の中から四郎に似た背格好の者の首を10数首持ってこさせ、捕らえていた母親に次々と見せて、四郎を判別させている。
陣佐左衛門(じんすけざえもん)の持ってきた首を見た時、母親が泣き崩れたことから、この陣佐左衛門の首が四郎のものであると判断したとされている。
3. 天草四郎生存説
原城には、地下通路が発見されている。
海沿いに建てられた原城の地下通路を通って城を脱出し、船に乗って海を渡り、フィリピンに逃げたのではないかという。
当時フィリピンには旧キリシタン大名が作った「日本街」というものがあったのだ。
4. 天草四郎、豊臣秀頼隠し子説
天草四郎が使っていた馬印が、豊臣秀頼も使用していた「千成瓢箪(せんなりひょうたん) 」。
当時、豊臣家と同じ馬印は簡単に使えるものではなかったとされている。
さらに、鹿児島には、四郎が「豊臣秀綱 」を名乗っていたという資料が残存し、江戸幕府が島原の乱について記した文章の中にも、「天草四郎は秀頼の子 」という記述が残されているという。
いろいろと謎が多く、想像を掻き立てられるキャラクターということで、近年ではアニメのキャラクターにまでなっていたりするというから、永遠のカリスマということなのだろう。
ミュージアムの背後には、「天草四郎公園」がある。
四季ごとの花が咲くという丘の上には、天草・島原の戦いで民衆を率いた天草四郎像やお墓がある。
さまざまな伝説を残す天草四郎。
彼は、今なおこの地の守り神として、存在し続けているのである。
見学が終わった一行は、「潜伏キリシタンの集落」として世界遺産に登録された崎津集落へ。
橋を渡り、下島へ。
途中、真っ直ぐなラインを描く、のどかな農村風景が続く。
島ならではの、素朴な漁村らしい風景。
少し内陸部に入ると、こんな遊び心のある集落も。
いつたい何体あるのか、全部かかしである。
ようやく、目標の津崎集落にある道の駅「崎津」に到着。
橋の向こうには、三角屋根の崎津教会が顔をのぞかせている。
今晩は、ここでお世話になり、明日は集落を散策する予定。