4月22日 天正少年使節団ゆかりの「天草コレジヨ館」を見学するの巻〜天草市内移動
今日は、崎津から車で10分ほどにある「天草コレジヨ館」の見学に。
「天草コレジヨ館」では、天草コレジヨの開校の歴史や、16世紀以降に河浦の地に伝えられたグーテンベルク印刷機、それを用いて印刷された天草本、西洋楽器などを多数展示している。
コレジヨとは、宣教師養成のための学校のこと。
他にも、セミナリオ、ノビシャドがある。
その違いは、以下の通り。
【セミナリオ】
カトリック教会の司祭(神父)を養成する全寮制の学校。
キリシタンの10歳~18歳で、両親と本人が希望、生涯教会に奉仕することを約束した子どものみ入学が許可された。
授業科目は、ラテン語、日本語、キリスト教教理、音楽など。
中でも、礼拝に不可欠な音楽は最重要科目とされ、毎日一時間フルートやオルガンなどの楽器の演奏や聖歌の練習が義務付けられていた。
また、日本での布教を意識し、日本語、日本古典文学なども学んでいたという。
【コレジヨ(コレジオ)】
セミナリオと同時期に建てられた司祭(神父)養成大学。
セミナリオを卒業した、司祭となる適性を備えた学生のみ入学が許可された。
コレジヨは3年制で、キリスト教、中世ヨーロッパ必須の教養7学科(文法・修辞学・弁証論・算術・天文学・幾何学・音楽学)を学んだ。
授業はラテン語で、パリ大学等名門大学卒業のエリート宣教師たちが教師であった。
養方軒パウロなどにより、外国人宣教師のための日本語の講義も行われたという。
ポルトガル王国出身の宣教師・通訳で、日本に関する重要な著作を遺したジョアン・ロドリゲスは、臼杵のノビシャドを経て、豊後府内のコレジヨで学んだとされる。
【ノビシャド】
臼杵(現大分県臼杵市)に設立された修練院。
コレジヨへ進む前の修練過程。
【日本におけるセミナリオ、コレジヨ、ノビシャドの歴史】
1580年、イエズス会宣教師が、キリシタン大名有馬晴信の有馬領内(長崎県南島原市)にセミナリオ
を、キリシタン大名大友宗麟の豊後府内(大分県)にコレジヨを、臼杵(現大分県臼杵市)に
ノビシャド(修練院のこと)開設。
1582年、セミナリオの卒業生4人をローマに派遣(天正遣欧少年使節)。
信長の庇護の下、安土城下にセミナリオを建設するが、本能の変で焼失。
安土城下から、セミナリオが京都、高槻、大阪へと移転。
コレジヨも、豊後から島原、天草へと移転。
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。
1588年、長崎の有馬領内のセミナリオと合併。
1590年、天正少年遣欧使節団、帰国。
日本人として初めてローマ法王に公式謁見を果たす。
1597年、コレジヨが長崎へと移る。
1613年、江戸幕府が禁教令を発布。
1614年、セミナリオ、コレジヨ消滅。
天草コレジヨは、日本に南蛮文化をもたらした天正遣欧少年使節の、帰国後の学び舎である。
はじめに、天正少年遣欧使節団の足取りをたどるビデオ(20分)を見る。
その際に持ち帰った数々の南蛮文化の一つにグーテンベルク印刷機がある。
展示されているのは複製だが、ちゃんと印刷もできる。
この印刷機は、ドイツ人のヨハン・グーテンベルクが、葡萄の搾り機をヒントに発明したという。
1591年、印刷機は最初に置かれた長崎の加津佐から、天草コレジヨへと移送。
当時、ヨーロッパの出版部数が300~500部といわれていた中で、ここでは1,500部以上を印刷。
世界最大の印刷事業が行われていたという。
しかし、この印刷機は宣教師の国外追放とともにマカオへ送り返されてしまった。
1591年から1597年の間に、この印刷機で印刷された書籍は29種類。
これは「天草本」と呼ばれ、来日していた外国人宣教師や学生たちの教科書として使用されていた。
この日本初の活版印刷による「天草本」は、現在、「伊曽保(イソップ)物語」「平家物語」など12種類が残存しているという。
現在、日本で公式に使用されているローマ字は、英語の発音に近いヘボン式が主流となつているが、
これは、ポルトガル式ローマ字表記。
当時の話し言葉(発音)がわかる貴重な資料といわれている。
これは、「平家物語」。
補足資料として、右側の「読み方」が配布されていたので、ご参考まで。
他に、西洋古楽器の複製もある。
秀吉が三度も演奏をアンコールしたという演奏、是非、拝聴したいものだ。
竹のパイプオルガンとは、いつたいどんな音色なのだろう。
ブリキに優るとも劣らないと解説されていたが、是非、演奏会を開いてほしい。
また、ローマ法王に謁見した際に着用したとされる衣装の複製や、
キリスト教布教のきっかけとなった火縄銃があったり、
崎津港に来航した南蛮船の模型もある。
これらを目の当たりにした当時の人々の驚き、脅威。
さまざまな感情が入り乱れながらも、これを一つの時代の流れ、変化として受け止めながら、大きな渦の中に飲み込まれぬよう、必死に歩んできた歴史を思うと、非常に感慨深いものがある。
ここではまだ見えてこない、キリスト教の布教の背後にあるものについては、後日追ってみたいと思う。