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4月23日 天草市→長崎県南島原市[島原・天草の乱 原城跡を訪ねる](62km)①

2019.05.01 23:11


今日は熊本県を後にして、長崎県へと向かう予定。


まずは、道の駅「リップルランド」から本渡経由で鬼池港へ。


ここから島原半島の口之津港には、島鉄フェリーに乗船し、30分で到着することができる。


一時間に一便あるので、時間を気にせずにいられるのはありがたい。



すぐにチケットを購入し、20分後の出航となる。


港の入り口には、凛々しい天草四郎の姿も。



口之津港に到着し、長崎県に入る。


ここは南島原市。


島原・天草の乱で有名な原城跡がある。



城跡とされるエリアは、かなり広い。


ナビに従い進んでいくと、「城跡自体には駐車スペースがない」ことに気づく。 


細い道をなんとか抜けて、城下の宿泊施設にある駐車場に車を停める。


ここから無料のシャトルバスに乗り、一番奥にある本丸跡まで行くのが通常の行き方らしい。


20分くらい歩けばたどり着ける距離なのだが、今日は雨模様。


団体客に混ざり、シャトルバスで本丸跡へと向かう。




原城は、戦国時代からのキリシタン大名である有馬晴信が、1604年に築城した城である。


原城は三方を海に囲まれた天然の要害である。



1616年、幕府の一国一城令により、新たに城の主となった松倉重政は原城を廃城とした。


1637年に、島原・天草の乱で一揆衆が籠城した際の原城は廃城後20年ほど経過していたが、土塁や石垣などは、しっかりと残されていたという。



乱の鎮圧後、原城は徹底的に破壊され、現在では草に覆われた石垣の残骸が残されているのみ。




本丸跡近くにある案内所では、当時の想像図をVR映像で再現してくれるタブレットを無料で借りることができる。


これは築城当時の城の映像。



一揆衆は城内に掘っ建て小屋のようなものを急ごしらえで建て、そこで寝起きしながら、三ヶ月の間、戦い続けたらしい。


本丸跡に登ると、北・東・南の三方が海に囲まれ、北側に二ノ丸と三ノ丸の跡が広がっている。 



本丸跡中央には、ここで斬首され、長崎で晒し首となったとされる天草四郎時貞の像と、




四郎の母が刻んだという墓碑銘が、ひっそりと佇んでいる。


この墓碑は、後年、民家の石垣の中から偶然発見されたという。




海に向かって、大きな十字架の塔が建てられている。




発掘調査では、この辺り一帯から、戦いの壮絶さを物語る激しく破壊された人骨と、彼らの持つ信心具(十字架、メダイ、ロザリオ珠)などが、破壊された石垣と共に出土したといい、


周囲の農地では、今なお畑を耕すと人骨が出てくることがあるという。




ここに3万7千人の領民たちが立て篭もり、壮絶な戦いを繰り広げたのだと、その3ヶ月に及ぶ戦いの日々に思いを馳せつつ、本丸跡にしばし佇む。




続いて、城跡の南側にある「島原・天草一揆供養碑」へと向かう。



南有馬小学校の敷地に隣接する供養碑は、木々の陰に隠れてひっそりと立っていた。 



両手を合わせ、静かに供養の祈りを捧げる。







雨が降り続く中、一旦本丸跡まで戻り、タブレットを返却してからシャトルバスで駐車場まで戻る。


続いては、島原・天草の乱についての考察のため、「有馬キリシタン遺産記念館」へ。