Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F・CHOPIN、サンドを老婆に追い込んだ女ダグー

2019.04.23 00:45

サンドは、パリではマルリア二夫人の依頼の限られた貴族を相手に閉鎖的にサロンを開催していたためか、世の中の移り変わりが分かっていなかった。

マヨルカ島とノアンで1年以上の間、パリで活動がなかったショパンとサンドは

当時、時代の移り変わりは激しく、ビジネスとしては遅れを取っていた。

サンドは、意外にも地方のカンブレーの旅で時代が変わっていたことを目の当たりにしたのだった。

サンドは36歳にして老婆心に自ら走り、自分は時代遅れな「哀れな老婆」であり、「ショパンと自分は哀れなもの同士」であることに否が応でも気付かされたサンドだった。

そして、このカンブレーからのサンドの手紙を読んだショパンにはいつも口やかましい監視員兼姑サンドが哀れな女に思えたであろう。

この出来事は金銭的にも精神的にもショパンとサンドの活動の落ち込みを招いた。

実は、このカンブレー行きはリストの愛人ダグー・マリーがスペイン領事官夫人のマルリア二へサンドをとョパンを行かせるように仕向けた可能性がある。

リストとダグーはショパンとサンドがパリ不在の間にパリやイタリアで幅を利かせていた。リストとダグーのライバルであるショパンとサンドは、

特にダクーにとってサンドは恋愛でも小説家としてもライバルであった。ダグーにとって

サンドは鼻持ちならない存在であったのだ。

サンドのノアンの館でサンドがダグー夫人を招く理由は、ダグー夫人に付いてくる貴族の知り合いをサンドは全部自分の客人として奪ってしまおうという計算であったからだ。

事実、サンドの力だけではサンドの催しに客人は集まらず、ダグーの力で集客をしていたのだ。

しかし、サンドはダグーを持ち上げず、ノアンでダグーの知り合いは全部自分の友人にしてしまい人気をダグーから奪ってしまったことがあったのだ。

それを、ダグーが黙ってはいなかったのだ、ダグーはサンドとショパンには地方の

中産階級の集まりで演奏することがお似合いなのではという意味で、マルリア二夫人に告げ口をしていたのだった。そして、ダグーはそれだけでは気が収まらず、マルリア二に、ショパンとサンドについて、中傷した手紙をマルリア二へ陰で送り続けていたのだった。

その内容は、ショパンが嫉妬深く口やかましく、そういうショパンの性格にサンドが困っているというのだ、

ショパンは自身のことは「犬のようにおとなしく」サンドの前では自由がないと訴えていて、サンドは自身のことを「口やかましい姑、または女教師である」とショパンにあれこれ命令せずにいられないとマルリア二に報告しているのだ。

しかもサンドは、ショパンを「ボーイ(boy)」と呼ぶことがよくあった。

大人であるショパンにボーイと呼ぶ意味はショパンはサンドより身分が低い奴隷と同じように呼んでいたのだ。

しかし、そのショパンとサンドの関係性はダグーの手紙では、全く真逆に書かれているのだ。(1839年1月のショパンとサンドがマヨルカ島へ行き、パリ不在の頃から11月末のショパンとサンドがパリに戻ってくるまでの間、ダグーの陰口は続いた)ショパンとサンドの関係性とはかけ離れた文章である。ダグー自身も、実はサンドとショパンの存在に対して嫉妬に狂っていたことがわかるのだ。

マルリア二夫人がサンドにダグーからのサンドとショパンを誹謗中傷した手紙を見せたという説が本当ならば、サンドがダグーに手紙の返事をしなくなったのはこのことが原因であったのであろう。

サンドも自分がダグーに何をしたかは分かっていたはずであるが、マルㇾニアを敵に回すのは不利であるためダグーに何も言わくなったのではないか。

ダグーは裏に回って誹謗中傷をしていたことがサンドに知られ、今度は、それが公になることを恐れたダグー、彼女はその後、自身とリストの評判をあげるためにシュレジンガーが編集していた「レヴュー・ミュージカル」へ、ショパンを称賛する評論をダグーが書いた文章をリストの名前で投稿し偽善者ぶっていたのだった。(1841年4月)

ダグーの本心はマルリアニにショパンとサンドを中傷することで二人を別れさせることが目的だった。そして、リストにもダグーは自分の欲望が通るまでしつこくサンドとショパンをなんとかしてほしいと頼んでいた。リストはマリーに弱みがあるため、マリーの無理難題な独りよがりなわがままも聞き入れていた。リストはダグーに返事を書いた、

「サンドとショパンはこっけいである。私たちは午前1時に彼らのために楽しい夜を過ごそうとしていますが、私は彼らに説明を強制すべきだとは思いません。(ショパンとサンドの意見は聞く必要がないよ)

そのような場合には、微笑んで、より微妙な一撃を与える方が良い。(ショパンとサンドをいじめるという意味)

心配しないでください、私が面倒を見ますから。…(ショパンとサンドの仲を壊すという意味)」リストはそう語った。(1941年1月)


ジョルジュ・サンドGeorge Sand 1804年7月1日 – 1876年6月8日)

本名をアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)

ルイ・ブーランジェのサンドを描いたスケッチ、サンドはマグダラのマリアとして描かれた。マグダラのマリアとは、カトリック教会では、『ルカによる福音書』(7:36-50)に登場する「罪深い女」と彼女が同一人物とされた。「罪の女」とは、性的不品行であり、娼婦のことである。

ルイ・ブーランジェ(1806年3月11日ヴェルチェッリ、ピエモンテ- 1867年3月5日、ディジョンは)フランス人だったロマンチックな画家、リトグラフやイラストレーター。

1821年にパリのAcademy of Fine Artsに入学、そこでGuillaume GuillonLethièreのワークショップに頻繁に参加。、古典的な技法を徹底的に受けた。1824年にローマ賞を受賞する。彼はウジェーヌ・デベリア(Eugène・Devéria)とヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)の親密な仲間となり、パリのロマン派の集会を頻繁に訪れました。

彼は1827年のサロンでかなりの成功を収めた。ヘンリー4世の誕生もあったので新しい学校にとって非常に重要な部屋で、彼のSuzement of Mazeppa(ルーアン美術館)のメダルを獲得しました。

マリー・カトリーヌ・ソフィー・ド・フラヴィニー(Marie Catherine Sophie de Flavigny, Vicomtesse de Flavigny、1805年12月31日 フランクフルト・アム・マイン - 1876年3月5日 パリ)は、マリー・ダグー(伯爵夫人)Marie, Comtesse d'Agoult ダニエル・ステルンDaniel Sternというペンネームで作家・ジャーナリスト。フランツ・リストの愛人、コジマ・リストはマリーの娘、(コジマ・リストはリヒャルト・ワーグナーと結婚)

ダグー・マリーのサロンの集い


フランツ・リストとマリー・ダグー

ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドまたはポーリーヌ・ヴィアルド(Pauline García-Viardot / Pauline Viardot, 1821年7月18日 – 1910年5月18日)は、19世紀フランスの声楽家・作曲家。

スペイン人の著名なオペラ歌手の家庭に生まれる。

不完全な声質と標準以下の容貌と言われたが、職業歌手としてデビューした。

1837年に16歳で、ブリュッセルで最初の演奏会を行う、1839年にはロンドンで、ロッシーニの歌劇《オテロ》でデズデモナ役に抜擢されデビューを飾る。

1840年に、作家でパリ・イタリア劇場の監督ルイ・ヴィアルドと結婚。この21歳年上のパリ・イタリア劇場の監督ルイ・ヴィアルドとの結婚で、美人とはいえないポーリーヌは結婚後も彼女の権力を崇拝する男が群がった。

ロシアの作家、イワン・ツルゲーネフや、ベルリオーズやグノーが知られている。

また、彼女はショパンのマズルカを歌曲に編曲したものや、グルックのアリアをピアノ伴奏用に書き換えたりもした。

1843年から1846年まで絶え間なくペテルブルク歌劇場に客演している。ジョルジュ・サンドは彼女を主人公とした小説『コンスエロ』(1843年)を書いた。

(2019.4.22ブログ記事)