リリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』
倒錯の血の匂いのない
100%健全な性愛なんてありえるの?
66時限目◎映画
堀間ロクなな
キリスト教世界で名前を轟かせた少女と言えば、「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクとともに、サロメが双璧をなすのではないだろうか。そのサロメとは、新約聖書や『ユダヤ古代誌』の記述にもとづき、西洋美術の定番素材となってきたものが、19世紀末にオスカー・ワイルドによって劇化され、オーブリー・ビアズリーが挿絵を添え、さらに20世紀になってリヒャルト・シュトラウスがオペラに仕立てたことで新たな生命を吹き込まれ、現代にあっても生々しい精彩を放っている。
イエスが宣教活動をはじめたころのエルサレムの王宮で、王妃ヘロディアスの連れ子サロメは、義父の好色なヘロデ王の求めに応じて「七つのヴェールの踊り」を舞い、引き換えに預言者ヨカナーンの生首を求めて、その死に顔の唇に接吻したところをヘロデ王の命によって殺される。芝居やオペラの舞台では、少女の性と死への欲望がとかくスキャンダラスな演出を施され、多くの人々の耳目を集めると同時に、それ以上の人々の耳目を背けさせてきた。もっとも、たいていはオトコ目線に立つもので、その意味ではヘロデ王以来の相も変わらぬ妄想の域を出ていないのかもしれない。
わたしが知るかぎり、サロメをオンナ目線で捉えた唯一の例は、リリアーナ・カヴァーニ監督の映画『愛の嵐』(1974年)だ。第二次世界大戦中、ナチス親衛隊の将校だった男マックス(ダーク・ボガード)が、ユダヤ人の強制収容所で性の玩具として弄んだ少女ルチア(シャーロット・ランプリング)と、戦後12年を経て偶然に再会し、いまは人妻の身の上でありながら女は男を受け入れ、たがいに火照った指先でまさぐりあいつつ愛憎のただなかに破滅していくというストーリーだ。
最も鮮烈なシーンは、収容所の一室で紫煙の立ち込めるなか無表情な将校たちに囲まれて、ルチアが裸の上半身にサスペンダーと黒い長手袋だけをつけ、親衛隊の制帽をかぶってうたい踊るところだ。
何が欲しいと聞かれれば
分からないと答えるだけ
いい時もあれば 悪い時もあるから
フリードリッヒ・ホレンダー作詞・作曲のけだるい歌は、当時マレーネ・ディートリッヒらによってうたわれたものらしいが、内容といい雰囲気といい、あまりにも「現代のサロメ」にふさわしい。そして、うたい終えたとき、ルチアが嫌う男の切り落とされた生首がマックスによって捧げられるのである。倒錯のきわみと言ってしまえばそうだろうけれど、じゃあ、倒錯の血の匂いのない100%健全な性愛なんてありえるの? 性愛とはそもそも倒錯のうえに辛うじて成り立っているんじゃない? と、女流監督は突きつけているように見えるのだ。ひいては、少女の過激な純粋さはジャンヌ・ダルクと同様、社会の秩序の前に滅んでいくのが栄光なのだとさえ――。
最後に告白しておきたい。もう20年近く前、東京・武蔵野市の市民文化会館でオペラ『サロメ』が上演されることになり、ラッパライネンという元ミス・カリフォルニアの歌手が主役をつとめ、しかも「七つのヴェールの踊り」では全裸を披露するとの情報を得て、わたしもいそいそと出かけたのだった。あまつさえ、終演後にはCDを購入して握手会に並び、そのときのサロメの冷たい掌の感触がいまもわが手に残っている。