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《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑬地神第三代、天津彦々火瓊々杵尊(天孫降臨・下 三子誕生及び疑いを焔で祓う事)

2019.04.23 23:52





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









かくて此瓊々杵の尊天降[あまくだ]りましゝに、猨田彦[さるだひこと]云ふ神まゐりあひき(これはちまたの神なり)。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天鈿女神行あひぬ。又皇孫いづくにかいたりましますべきと問ひしかば、筑紫の日向の高千穂の槵触[くしふる]の峯にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべしと申す。彼[かの]神の申しのまゝに槵触の峯にあまくだりて、しづまり給ふべき所をもとめられしに、事勝[ことかつ]国勝[くにかつ]と云ふ神(これも伊弉諾尊の御子、又は塩土[しほつち]の翁と云ふ)まゐりて、わがゐたる吾田[あた]の長狭[ながさ]の御崎[みさき]なんよろしかるべしと申しければ、その所にすませ給ひけり。

こゝに山の神、大山祇[おほやまつみ]二人の女[むす]めあり。姉を磐長姫[いわながひめ]と云ひ(これ磐石[ばんじやく]の神なり)、妹を木花開耶姫[このはなさくやひめ]と云ふ[これは花木の神なり]。二人をめしみ給たまふ。あねはかたちみにくかりければ返しつ。妹を留め給ひしに、磐長姫うらみいかりて、我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子は木[こ]の花の如くちりおちなむととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木花開耶姫めされて一夜[ひとよ]にはらみぬ。天孫あやしみ給ひければ、はらたちて無戸室[うつむろ]をつくりてこもりゐて、みづから火をはなちしに、三人[みたり]の御子生れ給ふ。ほのほのおこりける時生れますを火闌降命[ほのすせりのみこと]と云ふ。火のさかりなりしに生れますを火明命[ほあかりのみこと]と云ふ。後に生れますを火々出見尊[ほゝでみのみこと]と申す。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神悦びましましけり。

此尊天下を治め給ふ事三十萬八千五百三十三年と云へり。自是[これより]さき、天上にとゞまります神達の御事は年序[ねんじよ]はかりがたきにや。天地わかれしより以来[このかた]のこといくとせをへたりと云ふこともみえたる文[ふみ]なし。

[そもそも]天竺の説に人寿[にんじゆ]無量なりしが八満四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時(或百才とも)、釈迦佛出給ふと云へる。此佛出世[しゆつせ]は鸕鶿草葺不合尊[うがやふきあへずのみこと]のすゑざまの事なれば(神武天皇元年辛酉[かのととり]、仏滅後[ぶつめつののち]二百九十年にあたる。これより上はかぞふべきなり)、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵尊の初[はじめ]つかたは迦葉佛[かせふぶつ]の出給ひける時にやあたり侍らん。人壽二萬歳の時此佛は出給ひけりとぞ。


【日向に降臨】

 前にありますやうに、天照大神より三種の神器を天孫瓊々杵尊にお授けになりましたから、そこで瓊々杵尊がいよいよ此の日本の国土にお降りになるといふことになりまして、此の国土に近づかれました時に猿田彦といふ神が来て途中で出会はれたのであります。此の猿田彦といふのは身から光りが射して辺りを照らして居るので、これに向ふ者は無いといふ位な恐ろしい姿をして居つたのでありますが、此の猿田彦に天細女命が会はれてさうして応接をした訳であります。其の時に天細女命が猿田彦に向つて、皇孫瓊々杵尊は何処にいらつしやつたら宜しからうと言つて尋ねた所が、猿田彦がこれに対へて、瓊々杵尊は日向の高千穂の槵触の峯といふ所にいらつしやつたら宜しからう。自分もお供をして参るべきだけれども、自分は今から別れて伊勢の五十鈴川の川上に参るつもりであると斯ういふことを申しました。そこで此の猿田彦の申す所に従つて槵触の峯にいらしつたのであります。

そこで此の槵触の峯に著かれて、それから何処か落ち着く所をお求めにならうといふところへ、事勝国勝といふ神が参つて、自分の長く居た所の吾田の長狭の御崎といふ所が大変に勝れた所であるし、また周りの各地と往来するにも交通の便利が勝れて居るから、其処が宜しからうといふことを申したので、其の言葉に従つて此の吾田の長狭の御崎といふ所に瓊々杵尊がお住ひをお定めになつたのであります。此の事勝国勝の神といふのは、後に至つて塩土の翁といふ名を以て伝へられて居りまして、神武天皇が此の塩土の翁の言葉に依つて大和が非常に勝れた所であるといふことを知つたといふ仰せもあります。それが此の事勝国勝といふ神であつたといふやうに伝へられて居るのであります。

そこで瓊々杵尊が此の吾田の長狭の御崎にお住みになると定まりました時に、其処の山に居た神に大山祇

【大山祇神の二女】

といふのがあつて、此の大山祇神に二人の女がありましたが、姉の方は磐長姫といふので、妹の方は木花開耶姫といふのでありました。此の二人を瓊々杵尊がお召しになつて御覧になつた所が、姉の方は要望が醜かつたものでありますから、これは家に帰るやうにと言つて其の儘お返しになり、妹の方の木花開耶姫は美しい方でありましたから、これを留めて、お妃となさつたのであります。其の時に姉のほうの磐長姫が恨んで、自分は天孫のお側にお事へ申すつもりで参つたのであるが、姿が醜いといふことで天孫は自分を疎んじておしまひになつた。甚だ残念なことである。併し自分は磐長といふ名であつて寿命も長いのであるから、自分をもお側にお置きになつたならば、自分が多勢の人を護つて、世間の人の寿命が皆長く、また巌の如く丈夫で病気などにも罹らないやうになれるのであるが、妹の方を召されて自分をお返しになつた以上は、世間に不仕合せな事が多くなるであらう。妹は木花開耶姫と申すので、花といふものは美しいけれども長く咲いて居るものではない。或る日数が来れば散つてしまふのであるが、其の妹をお召しになつたのであるから、やはり世の中の人々も木の花が咲いてやがて散るやうに寿命が短いであらうと、斯ういふことを申して詛つたといふのであります。此の事あつてより後、人の寿命といふものが一般に短くなつたといふことが伝へられて居るのであります。

そこで木花開耶姫は瓊々杵尊のお妃となつて、一晩居て翌る日にはモウ妊娠された。そこで天孫が怪しまれて、どうもこれは自分の子とは思はれない。自分が此処に来る前に誰か他の男と結婚して妊娠をしたのであらうといふ疑ひをお起しになりました。そこで木花開耶姫が非常に憤慨をして、自分はさういふ猥らな者ではないのに、お疑ひを受けたのは残念である。それでは自分の身の潔白を表さうといふので、それから一つの小さい家を造つて其処へ引込んで居られて、さうして其の御子をお産みになる時に、自分で其の家に火を放たれたのであります。それで若し自分の行ひに間違ひがあるならば此の御子は火に焼かれて死ぬであらう。また自分が潔白であるならば、其の潔白なることが現はれて、たとひ火を附けても御子は無事であらうといふことを誓はれて、さうして火を付けられたのであります。ところが幸ひにも三人のお子様が少しも火に焼かれることもなく無事に生まれ、また無事にお育ちになりました。其の中にも一番先に火の燃え立つ時に生れた御子が火闌降命といふので、それから火が盛んに燃えて居る時にお生れになつたのが火明命といふ

【三子の御生誕】

ので、それから火がスツカリ家を焼き終わつて後に三人目に生れたお子様が火々出見尊といふのであります。此の火々出見尊といふのが詰り父の御後をお継ぎになる方と定まつたのであります。此の三人のお子様を火も焼かず、また御母の木花開耶姫といふ方も御無事でありますから、父君の瓊々杵尊も非常にお悦びになりまして、それから此の三人のお子様が無事にお育ちになり、殊に三人の中の一番終りに生れ出られた火々出見尊といふのは最も勝れた方でありましたから、此の方が御世継ぎと定まつたのであります。

此の瓊々杵尊は世の中をお治めになること三十萬八千五百三十三年だと伝へられて居りますが、それより以前に天上界に居られた神様はどれほど長く寿命を保つて居られたのか、これ等のことは何も伝はつて居ないので、後世からの想像のしやうもないのであります。其の他人間が昔は寿命が長かつたといふことは方々に伝へられて居る伝説に於て一致して居るので、印度でも昔は随分寿命が長かつたといふことであります。これは前にもあつたことと重複して居りますから、別に説明をしないでも、本文を読んだだけでよく解ることと思ひますが、やはり日本と同じやうに印度でも昔は寿命が長くて、だんだん後の世に至つて寿命が短くなつたといふ伝説があるのであります。此の印度の伝説に照らし合せて見ますと、瓊々杵尊の時代はお釈迦様のお生れになつたより余ほど前で、迦葉といふ仏が出られた時といふのに当るのであります。此の迦葉佛といふのは人の定まつた寿命が二万歳の時に出られたといふことであります。

一体仏教の方の旧い伝説に依りますと、昔からたびたび仏が出て居られるので、其の多くの仏の中に代表的の仏が七人居られて、これを『七佛』といふのでありまして、『過去の七佛』などといふ言葉もあります。其の沢山の仏が出られて最後にお釈迦様が御出現になつたといふやうに伝へられて居ります。チヤウド瓊々杵尊の御時に当らうといふのであります。これはハツキリ年代を調べる訳には行かないのですが、先づ斯ういふやうに想像されて居る訳であります。