「苦しみから自由になったら、それらにも意味があると思えるようになるんでしょうか?」
先日お客様から頂いたメールの一文に、こんな内容が書かれておりました。
自分の苦しみから自由になったら、苦しんできたことにも意味があると思えるようになるんでしょうか。
今までは生きづらいだけだったんですが。
― 福岡県在住 S・T様 女性(掲載許可済み)
すごくいい質問なので、ヨシダなりの見解を述べてみます!
例えば人生が、望んだように展開していない時、この苦しみから逃れたいと思いますよね。
そして、苦しみや心の痛みを、ヒーリングで取り除くことが出来るんだ、と知って実践します。
実践を重ねていけば、一時的に、解放されて安堵を感じ、幸福感すら漂ってくるかもしれません。
すると
【過去の出来事が苦しかったとしても、今これを学ぶためにあったのね♪】
と感じられる時期が来ます。
多分スピリチュアルなことや、ヒーリングの中で、最も楽しい段階(フェーズ)だと思います。
苦しさが1つ1つほどけていき、解放された感じをリアルに味わうことが出来るからです。
出来事の裏に、意味づけがなされ、その意味付けによって、今後の人生の指針が変わってくるのですから、新しい生き方を手に入れたも同然!
癒されることの醍醐味を、一番濃縮して感じられる特有の季節です。
この段階では、キラキラ系のスピリチュアルが、自分の全て!のような気がします(笑
しかし、そんな状態を何年も何十年もやっていると、今度は癒すべき傷など無くなってしまうので、今まで拠り所にしていたモノが何だったのか、思い出せない時期がきます。
傷があるということは、寄り掛かれる理由になるんですね。
でもそれらが片付いてしまうと、支えを失うので、一時的にまた生きづらさを感じる時期が戻ってきます。
キラキラ系スピリチュアルにはもう頼れなくなっている自分にも気付く訳です。
するとどうなるか?
思考は巧妙に、新しい信念を作り出してしまう訳です。
結局その信念によって、また自分が縛られてしまう、というジレンマを生み出してしまうのです。
しかし、その頃には、ジレンマを抱えたまま生きていくのは、苦しかった時期以上の重さを感じるようになるので、葛藤しながらも、もう一度解放しようと努力します。
スピリチュアルもヒーリングも、キラキラどころの話しじゃない。
そこまで来ると、もう何に対しても過剰な期待もなければ、過剰に落胆もない領域にきます。
正確に言えば、期待や落胆そのものが一切なくなるのではなくて、それらもあるんだけど、その色合いが薄くなってくるんですね。
意味づけしようという気すら起こらない段階が見えてきます。
癒しの最終段階は、苦しみに意味があるのかどうか、という部分さえも超えてしまう、という領域があることに気付いてくるようになります。
これが悟りとか、覚醒、っていう話しになりますね。
娑婆(しゃば)で苦しんできた自分が、1周回って、また同じ娑婆で生きることを選択するのです。
それは全くの別世界のようであり、同世界でもあります。
娑婆と極楽は同じ場所にあったと気付くことですね。
なので、文頭のご質問をすんご~く広い領域で表現するなら、
・意味があると思える段階にいるなら、確かに意味はある。
・意味などないと思える段階にいるなら、確かに意味はない。
・そしてどっちもアリだし、どっちもナシ。
・早い話しが「色即是空 空即是色」。
この苦しさを癒したい、と願うなら、あなたにとって癒しは必要です。
思う存分、納得の行くまで癒してあげて下さい。
デイビット・ホーキンズ博士は、『I<わたし>』という書籍の中で、
「救済と覚醒は違う」と言っていましたが、まさに
救済=癒しと
覚醒=本来の自分の姿を見抜いたまま生きること
は似ているようで、違うテーマなんですね。
個人的なアドバイスとしては、意味づけがあったほうが確かに楽です。
しかし、どっちにしてもその意味付けすら捨てろ、って言われる段階(誰が言うって訳じゃないです、そんな時期が来て押されるんです)が来ます。
だったら意味づけなどしないで、ひたすら目の前にある問題や、目標に向かっていったほうがいいように思います。
(↑これはあくまで持論・笑)
癒すことによって新しい信念を掴んで、手放したつもりになった荷物をもう一度リュックに詰め込むよりは、もう手持ち無沙汰すら受け入れて生きていった方が、早いんじゃないの?って話しです。
なんてね・・・・言うは易く行うは難しなので、のんびりお茶でも飲みながらお過ごし下さい♡(笑