《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑮地神第四代彦火々出見尊(豊玉姫、龍神)
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
海中にて豊玉姫はらみ給ひしかば、産期[うみづき]にいたらば、海邊辺に産屋[うぶや]を作りて待給へと申しき。はたして其妹[いも]玉依姫[たまよりひめ]をひきゐて、海邊に行あひぬ。屋[や]を作て鸕鶿[う※注記:是二字デ「う」ト読ム]の羽[は]にてふかれしが、ふきもあへず御子うまれ給ふによりて鸕鶿草葺不合尊[うがやふきあへずのみこと]と申す。又産屋をうぶやと云ふ事も、うのはをふけるゆゑなりとなん。さても産[さん]の時み給ふなと契[ちぎり]申しゝを、のぞきて見ましければ、龍[りよう]になりぬ。はぢうらみて、われにはぢみせ給はずば、海陸[かいろく]をして相かよはしへだつることなからましとて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきらきらしくましますことをきゝて憐み崇[あが]めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊天下を治め給ふこと六十三萬七千八百九十二年と云へり。
震旦の世の始をいへるに、萬物混然として相はなれず。是を混沌と云ふ。其後軽[かろ]く清き物は天となり、重く濁れる物は地となり、中和[ちうくわ]の気は人[ひと]となる。これを三才[さんさい]と云ふ(これまでは我国の初[はじまり]を云ふにかはらざるなり)。其はじめの君盤古[ばんこ]氏、天下を治むること一萬八千年。天皇、地皇、人皇など云ふ王相続[あひつ]いで九十一代、一百八萬二千七百六十年。さきにあはせて一百十萬七百六十年(これ一説なり。実[まこと]にはあきらかならず)。廣雅[くわうが]と云ふ書には、開闢より獲麟[くわくりん]に至りて二百七十六萬歳とも云ふ。獲麟とは孔子の在世[ざいせ]、魯の哀公の時なり。日本の懿徳にあたる。しからば盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。
此の彦火火出見尊が海中に住まれた時にお妃となられた豊玉姫が妊娠をされたので、其の時に若し子を産む時が来たならば、海の傍に産屋を作つて待つて下さるやうにといふ約束を致したのであります。それからいよいよお産の時が近づきました時に、豊玉姫が妹の玉依姫を連れて海の傍まで来られました。そこで予ね
【鸕鶿草葺不合尊の御生誕】
て産屋が出来て居りましたから、其処でお産をするといふことになりました。其の産屋の屋根を鸕鶿の羽を以て葺かれたのでありますが、其の屋根がまだ完全には葺き終らないうちに御子がお生れになつたので、此のお生れになつた御子を鸕鶿草葺不合尊と名づけられました。それからお産をする所を『うぶや』といふのも、鸕鶿の羽を以て葺いたからであるといふやうに伝へられて居ります。
そして女がお産をするといふ時には、兎角姿を取乱すものでありますから、どうぞお産の時には見て下さらないやうにといふことを申して置いた所が、果たして安産であるかどうか心配なものでありましたから、彦火火出見尊がお産の時に覗いて見られたのであります。それでお産が終つて後に豊玉姫がこれを恨んで、此の取乱した姿を御覧になつたのは、自分に恥ぢをお与へになつたものである。一度斯ういふ乱れた姿を見られた以上は、此処に留まつて居ることは望ましくないと言はれて、それから龍となつて海に帰つてしまはれました。其の時にまた怨みを述べられて、若し自分が斯ういふ恥ぢをかゝせられなかつたならば、是れより後は海と陸とが続いて始終往来も出来て、海の産物なども自由に陸の人の手に入るやうにして上げやうと思つたけれども、自分はモウ恥ぢを受けたのであるから、さういふ事も出来ないと言つて、お子様を棄てゝ海に帰られたのであります。併し後になつて、其のお生れになつた御子が『きらきらしく』といふのは姿の非常に美しい、立派なお子様であるといふことを聞いて、そこは母子の愛情でありますから、自分が帰る訳には行かぬけれども、其の御子が無事にお育ちになるやうにしたいといふので、妹の玉依姫を自分の代りにお子様に附けて置いて、此の玉依姫の御丹精で此のお子様がお育ちになつたといふのであります。これが神武天皇の父君に当られる方であります。
此の彦火火出見尊は天下を治めること六十三万七千八百九十二年といふ、非常に長い年月であつたと謂はれて居るのであります。それで此の年代を支那の伝説と引合せて、凡そどういふ時代に当るかといふことが後の方に書いてありますが、これも想像でありまして、昔の年代などといふものは一々性格な記録もありませぬから、たゞ斯ういふ言ひ伝へがあるといふことだけに止めて置いて宜からうと思ふのであります。
但し此の支那の方の伝説の中で廣雅といふ書物[注記:三国時代魏ノ張揖ニ依リテ編纂サル]がありまして、此の廣雅といふ書物の中に、支那の国が開け始めてから獲麟の時までが二百七十六万歳であると書いてある。『獲麟』といふのは孔子の時にあつたことで、即ち魯の哀公の時に当るのでありますが、春秋といふ書物に依りますと『西に狩して麟を獲たり』といふことがあります。一体麒麟といふのは聖人が世の中に立つて国の政治を執る時に出るといふことが、昔からの言ひ伝へにあるのであります。聖人が国の政治を執つて万民が其の処に安んじて居るやうな時代であると、天もこれを祝つて、世の中に曾て無いやうなものが出現する。即ち鳳凰が出るとか麒麟がでるとかいふやうなことは、聖人が国の政治を執つて居ることの徴しであるといふのであります。然るに此の時には孔子[注記:前552~479]のやうな聖人が世の中に出られたのでありますが、孔子は志を得ずして民間に居つて、国の政治を執る者は皆徳の足らない者ばかりであつたのであります。然るに此の麒麟が出たといふので、孔子は麒麟が時に遇はないといふことを非常に憐れに思はれたといふことが伝へられて居ります。孔子が麒麟を憐れまれたといふのは、たゞ麒麟を憐れまれたのではなくて、即ち自分の昔の聖者の道を学んで居りながら、志を得ずして民間に埋れ居るのに思ひ合せて、謂はゆる感慨無量といふやうな心持を表はされたものと思はれるのであります。此の麒麟といふことは支那の歴史の上に於ては非常に名高い事の一つになつて居ります。此の麒麟の時といふのが日本の歴史に引合せて見ると、懿徳天皇の御代に当るのであります。そこで磐石氏といふのが国を肇めたといふ、其の磐石氏の時代といふのが、チヤウド此の彦火火出見尊の御代に当ると考へれば、年代はよく合ふと申してあるのであります。これも前に申したやうに大体の想像でありますから、たゞ此の言ひ伝へを言ひ伝へとして読んで参れば、それで宜しいことと思はれます。