キリスト教の教え1 神による人類救済計画①
ギリシア神話において、世界に初めて人類が誕生したのは、ゼウスに王の座を追われたクロノスが天上の王だった時。この最古の人類の種族は「黄金の種族」(この後、「銀の時代」、「青銅の時代」、「英雄の時代」、そして現在の人類の時代である「鉄の時代」と続く)と呼ばれ、天上にいる神々とは違って地上で暮らしていたが、それは神々の様に幸せな生活だった。不老であり、病気やその他の苦しみや、悲しみも一切知らず、必要とするものは大地が何でも有り余るほど産出してくれた。彼らは働く必要もなく、好きなだけ遊び、疲れたら草の上に寝そべってまどろむという幸せに満ちた暮らしを送っていた。戦争も弱肉強食による淘汰もないこの時代はまさに平和そのものであり、その象徴として裸の男女が仲睦まじく愛しあうさまが描かれる。ルーカス・クラナッハ「黄金の時代」(ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)、ピエトロ ダ コルトーナ「黄金の時代」(パラッツォ ピッティ)、パオロ・フィアミンゴ 「黄金の時代」(ウィーン美術史美術館)をみても、キリスト教の「エデンの園」との違いは見えてこない。
しかし、両者には決定的な違いがある。ギリシア神話では、「黄金の種族」の時代から人間は、神々が不死であるのに対して、死なねばならない運命にあった。他方、キリスト教では神によって創造されたアダムとエバが「エデンの園」で暮らしていた時は、神と同様に不死だった。では、キリスト教世界においても、なぜ人間が死ぬべき存在になってしまったかというと、それは作り主の神に背いて罪を犯したから。「創世記3章」に次のように書かれている。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。 蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』
女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』
蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」
二人は、禁じられていた木の実を食べてしまう。それを知った神は、アダムとエバをエデンの園から追放する。
「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
こうして最初の人間が造り主である神に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまった(キリスト教でいう「罪」とは、個々の犯罪・悪事を超えた、すべての人に当てはまる根本的なもので、「天地創造の神への不従順」のこと)。では、どうすれば人間は神聖な神のもとに戻れるようになるか?人間を罪と死の力から解放することによってである。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には自分に宿る罪を除去することは不可能。そんな人間のことを神は、どう考えたか。自分で蒔いた種なのだから、自分で刈り取ればよいと冷たく突き放したか。そうではない。キリスト教の神は愛の神。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すため、みずから人類救済計画を用意された。人間が再び自分との結つきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えた。その計画とはどのような内容なのか?
(ヤン・ブリューゲル、ルーベンス 「楽園のアダムとイブ」)
(ミケランジェロ「原罪」と「楽園追放」システィーナ礼拝堂天井画)
(マザッチョ「楽園追放」サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 ブランカッチ礼拝堂)
(ルーカス・クラナッハ「黄金の時代」ミュンヘン アルテ・ピナコテーク)
(ピエトロ ダ コルトーナ「黄金の時代」フィレンツェ パラッツォ ピッティ)
(パオロ・フィアミンゴ 「黄金の時代」ウィーン美術史美術館)