ハーバードから見た日本の現代建築史 -丹下スクールvs篠原スクール その1-
今学期は日本の現代建築史研究が専門でGSDで博士を取得したセン・クアンの授業を取っている。彼の授業はハーバードGSDの学生への日本の現代建築史のイントロダクションをすることが目的だ。
安藤忠雄やSANAAなどが活躍し、磯崎新がプリツカー賞を受賞するなど、日本の建築家の国際的なプレゼンスが高まる中、授業はGSDでもとても人気がある。15人やいっても20人でやるつもりだったものが、履修人数が70人を超えてしまい、初回の授業は立ち見が大量に出るなど、ものすごい熱気であった。
一学期を通しての彼の授業のフレームワークは丹下スクールvs篠原スクールという構図だ。もちろん議論の余地は多分にあるだろうが、クアン先生もこれはあくまでハーバードの学生に説明するために、二項対立の形に単純化したものだと言う。
しかし同時に、この構図は一度理解したら忘れられないものでもある。
曰く、丹下スクールは東大建築学科出身を中心とする正統派モダニズムを引き継ぐ権威主義、技術主義的なアプローチで、丹下健三・黒川紀章・槇文彦などがこれに当たる。篠原スクールは「住宅は美しくなければいけない」と言い切ったカリスマでもある篠原一男に影響を受けた民主主義、芸術主義的なアプローチで、伊東豊雄・SANAA・アトリエ・ワンなどがこれに当たる。
明治維新から、ジョサイア・コンドルを中心とするお雇い外国人によって欧米の近代建築教育が輸入された。当時の欧米の教育というものは(今もそういう感じではあるが)、意匠設計するアーキテクトと、構造設計をするエンジニアは別の文化に属し、建築学科は美大のような環境にあるのが一般的であった。
しかし、日本に輸入されたレンガ積みの建築・インフラが1891年の濃尾の大地震によって無残に破壊され、建築の耐震性の確保・研究について科学的に取り組むことが東大建築学科の使命となった。そして、1914年には佐野利器が教授に就任し、翌年には博士号を取得し日本の構造建築学のパイオニアとなった。
佐野利器は「建築美の本義は重量の支持と明確なる力学的表現に過ぎない」「形に拘るのは女子供の所業」というジェンダー論の発展した現代から見れば衝撃的な言葉を残すなど、東大建築学科の科学主義・工学主義化をドライブさせた。弟子の内田祥三がこれを発展させることによって、日本における「工学部建築学科」という形は盤石なものとなる。
この流れの上で丹下健三が戦後の日本復興を担っていくことになる。1960年台に彼が率いたメタボリズム運動は、技術の発展と可能性を軸としたオープンシステム・ユートピアを標榜するものであったし、コルビジェのようなトップダウンのデザイン・アプローチが高度経済成長期の日本にハマった。構造・設備エンジニアとの高度なコラボレーションが昇華した代々木体育館はその力を象徴する最高傑作と言える。
しかし、1970年台に入ると丹下事務所・研究室の多くの人が証言するように、そのアプローチに陰りが見えてくる。その時期から槇文彦や原広司は次世代のアプローチを模索するようになる。槇文彦は1964年に既にメタボリズム運動で示された"Mega-Form"のあり方に疑問を呈する"Group-Form"の論文を英語で発表するが、その後の発展は後の記事で触れることにする。
1990年台初頭にバブルが弾けるとさらに丹下スクールのアプローチは通用しなくなる。修士卒業直後にその状況に直面した西沢立衛、塚本由晴はバブル後のアプローチを自分なりに探さなければいけなかった世代とも言える。