Ride in Setouchi & San-in Day 42 (26/4/19) Hagi Reverberatory Furnace 萩反射炉
Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining 世界遺産 (明治日本の産業革命遺産)
- Hagi Reverberatory Furnace 萩反射炉
- Ebisugahana Shipyard 恵比須ケ鼻造船所
Mouri Family Temples 毛利家菩提寺
- Tokoji Temple 東光寺
- Daishoin Temple 大照院
- Tenjuin Temple 天樹院
Hamazaki - Cho 浜崎町
Ofunagura 浜崎御船蔵
Sumiyoshi Shrine 住吉神社
Guest House Akatukiya 萩 暁屋 (ゲストハウス)
世界遺産 (明治日本の産業革命遺産)
萩にはこのテーマの世界遺産が5つある。松下村塾、萩城下町は今週の萩滞在で訪問済み。残りのうち2つは萩市近郊にあり、今日行く事にした。最後の一つ「大板山たたら製鉄遺跡」は今回は行けないので次回に残しておく。
萩反射炉
鉄製大砲の鋳造には従来のたたら方式では不可能で金属溶解炉が必要となる。萩藩の軍事力強化の一環として反射炉の導入が試みられた。萩藩は佐賀藩に藩士を派遣し、反射炉建造伝授を頼むも拒絶され、スケッチのみで反射炉建造を試みる。現存している反射炉では鉄製大砲鋳造のための鉄は製造できず失敗作とされていたが、その後発見された文書からは試験的に操業された試作炉であったとの見解が主流である。技術的な課題と経済的な理由で本格稼働の反射炉は建設されず、大砲は輸入に頼る事になる。反射炉の遺構は、萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(九州の旅で訪問した。土台のみ残っていた。)にある。
恵比須ケ鼻造船所
外国船の接近が頻繁に目撃されるにつれ国防に危機感が増大する中、嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化の為、大船建造を解禁し、萩藩に大船の建造を要請した。安政3年(1856)、萩藩は萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設し、萩藩最初の洋式軍艦丙辰丸(帆船)、万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦 庚申丸(帆船)の製造に成功した。造船所跡は発掘後、保存の為にまた埋められて現在は跡地だけ見学ができるが遺構は土の中にある。ただ当時の防波堤が残っている。ここにいたNPOのガイドさんに今後の整備の予定を尋ねたが、まだ決まっていないとの事だった。おそらく国にお伺いが必要なのであろうが、役所が絡むので先の長い話になるだろう。世界遺産に登録されているのだから整備すべきと思うが、色々複雑な事があるのだろう。
造船所があった恵美須ヶ鼻は漁師の村で、造船所跡のすぐそばの丘には稲荷神社がある。情報などは何も無いのだが、造船所跡にいたガイドさんの話では江戸時代にはあったそうだ。それぞれの鳥居には漁船の名前が書いてある。寄進を船単位でしたのだろう。
毛利家菩提寺
萩藩の藩主の毛利家の菩提寺は萩に3ヶ所ある。(一つは毛利輝元で萩藩の藩主ではなかったが...)
東光寺
元禄4年(1691年) 萩藩3代藩主毛利吉就が建立。吉就が帰依した黄檗宗の寺で、吉就の死後、毛利家の菩提寺となった。総門、鐘楼、大雄宝殿、三門が重要文化財。
3代吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の墓がある。何故奇数なのかの経緯は聞きそびれた。
毛利家の墓の前には元治甲子殉難烈士墓所がある。その中で禁門の変/第一次長州征伐の責任を取って山口で自害した周布政之助、第一次長州征伐の幕府への謝罪のため、岩国で自刃した福原元僴、徳山で自刃した益田親施 (明日通過地点にある須佐/益田を治めた益田家の当主)、国司親相の3家老、俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎の5つの墓が目立っていた。
大照院
荒廃していた臨済宗の歓喜寺を萩藩2代藩主毛利綱広が初代藩主秀就の菩提寺とするために明暦2年(1656年)に再建し、大照院と改めた。現存しているものは6代藩主宗広によって再建されたもの。
2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主の墓がある。
初代秀就の墓所は独立した所にあった。
天樹院
毛利輝元の墓所。ここは輝元の隠居所 (四本松邸) で、輝元の死後に天樹院という菩提寺が建てられたが維新後に廃寺になった。毛利輝元がここで荼毘にふされた場所と五輪塔形の墓が残っている。
浜崎町
浜崎町・浜崎新丁は廻船が出入りする商業地帯として発展し、魚問屋・仲買人の他、北前船の積み荷を扱う北国問屋も発達した。萩城下では浜崎が最も経済活動の活発な所であった。当時は浜崎町/浜崎新丁の両町の家数518人数2,154であった。浜崎町人の職業別軒数は358軒中、小売商と問屋が過半数を占めていた。そのうち小売商は魚商が三分の一を占め、問屋は魚問屋に次いで廻船問屋が多かった。現在の浜崎町・浜崎新丁人口と世帯数を調べてみた。平成27年で人口752人、338世帯であった。共に減少しているが、人口は3分の1にまで落ち込んでいる。世帯あたりの数が非常に少なくなっている。これが日本全土共通の事ではあるが.....
この地区は伝統的建造物群保存地区に指定されている。古い街並みが多く残っている。これ程残っている所は初めてだ。本当に風情があり、歩くだけでも楽しい。会って話した人も優しく、この落ち着いたゆったりと時間が流れる環境が人の振る舞いに関わっているような気がしてならない。
浜崎御船蔵
東浜崎町にある藩主の御座船を格納した場所。現在船倉は一棟しかないが、天保年間(1830~44)の「八江萩名所図画」では四棟が描かれている。防府の三田尻にある御船蔵にも行ったがそこは石垣だけしか残っておらず御船蔵のイメージが湧かなかったがここで実物を見て驚きであった。
住吉神社
大阪の住吉神社から分霊で1658年創建。漁業関係の商人の街だけあり、海の神様を祀っている。夏祭りはこの住吉神社が中心となり、萩市の祭りの中でも随一だそうだ。
萩 暁屋 (ゲストハウス)
今日が萩滞在の最終日。このゲストハウスの暁屋に6泊7日となった。これ程長くいる予定では無かったが、萩の魅力とこの暁屋のオーナーの三田さん(さんたと読む。さんだでは無い。これは本人がこだわっているところ)の人柄でついつい滞在が長くなった。それほど萩と暁屋は居心地が良かった。三田さんはまだ31才で、以前はゲストハウスで従業員として働いていたが、今年の3月からこの暁屋をオーナーとして経営に乗り出した。まだ2ヶ月。泊まり客に良い思い出が残るようにと努めている。心の綺麗な青年だ。この1週間で一日を除き、泊まり客は自分しかいなかったせいもあるが、とにかく色々な事をいっぱい話した。話をしていて楽しい。もう一人21才のバイクライダーのお客が来た時は三田さんが夕食を振る舞ってあげていた。本当に人に対して優しい。このゲストハウスに自分の思いを入れ込んで行こうとしている。このゲストハウスというチャレンジをしているが三田さんは輝いているようだった。今日最終日はスーパーで一緒に魚を一匹買って、刺身、焼き魚を作り、一緒に夕食をした。この様な出会いのせいか、とても美味かった。魚は萩で取れたもので聞いたことのない名前の魚。名前をメモしておけば良かった。
もう数日いて、萩の自然や萩往還も歩いてみたい気もしているのだが、楽しみは次回ここに来た時に残しておこう。
三田さんの作品といっしょに食べた夕食