Ride in Setouchi & San-in Day 40 (24/4/19) Meirinkan 明倫館
Meirinkan 明倫館
Ruins of Sufu Masanosuke House 周布政之助旧宅跡
Remains of Inoue Masaru House 井上勝旧宅跡
Birthplace of Irie Kyuichiro and Nomura Yasushi Brothers 入江九一、野村靖兄弟誕生地
Remains of Matsushima Gozo House 松島剛蔵旧宅跡
Ruins of Gunji Foundry 郡司鋳造所跡
Kagetsuro 花月楼
Shokasonjuku / Shoin Shrine 松下村塾/松蔭神社
Birthplace and Graves of Yoshida Shoin 吉田松蔭生誕地/墓
Ruins of Takasugi Shinsaku Residence 高杉晋作草庵跡
Birthplace of Yoshida Toshimaru 吉田稔麿生誕地
Second Residence of Katayama Tokuma 片山東熊別邸跡
Remains of Tamaki Bunnoshim House 高木文之進旧宅
Birthplace of Matsuura Shodo 松浦松洞誕生地
今日のメインは長州藩の藩校であった明倫館。半日かけて見ていこうと思う。他の史跡を巡った後にこの明倫館を見学したが、半日では足りなかった。丸一日必要だったので全てをじっくりとは見れなかったので、興味のあるところに集中した。残りは再度来た時に見てみよう。
Meirinkan 明倫館
明倫館は長州藩の藩校で水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つ。1718年 (享保3年)、萩藩5代藩主・毛利吉元が萩城三の丸に創建。1849年 (嘉永2年) には、手狭になり、13代藩主・毛利敬親が藩政改革に現在の地へ移転。明倫館跡は萩の三角州内の10の小学校を統合し、明倫小学校 (1885年-2014年) があった。この明倫小学校は隣接した萩商業高等学校の土地に移転し、現在は明倫学舎として博物館になっている。
明倫小学校の児童生徒数は2018年5月で664人22学級で一年生と二年生がそれぞれ3学級づつに減っている。明治時代には萩三角州には10の小学校があったのだから、この150年で児童数が極端に減っていることが想像できる。児童数のピークは1958年で3000人を超えた。今はその5分の1だ。
萩市の人口減少も加速している。統計を取り始めた平成17年と今年の四月の人口比較を見るとその深刻さがわかり。総人口は5.9万人から4.7万人と20%減少。年齢別では0-14才は26%、15-64才は22%減少、65才以上は7%増加となっている。萩市がまとめた萩市人口ビジョンの資料 (https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/6785.pdf) によると2040年には総人口は3万人、2050年には1.8万人に迄減少すると予測している。この資料は過去の数字実績を基にした分析が中心でタイトルの人口ビジョンはほとんど書かれておらず。あたり前の事を目指す将来の方向としてあげている。具体的な対策は残念なことにこの資料には一切書かれていない。書いてはいないが対策があるのかどうかはわからない。どのような具体的な対策を実施しているのか聞いてみたい。
明倫学舎案内図
正門と南門 現在残っている遺構
観徳門 旧明倫館にあったものを移設。
古明倫館跡
新明倫館よりは城に近い場所にあった。古明倫館跡は訪れる人もないのだろう。草も伸び放題。少しだけ手入れし、東屋とパネルを設置するだけでも立派な観光地で休息場所に変わるのにと思う。萩は旧長州藩の藩庁としての城下町を売りにしているのであれば、街全体のイメージをもう少しあげればもっと良くなる。街じゅう城下町を目指すべき。
かつての新明倫館 (移転後) 移転後は何倍もの広さになった。場所は萩三角州の真ん中に当たる。ここは湿地帯だったため、城下町が作られた後も、長い間利用されず広大な空き地になっていた。下の写真の古地図を見ても分かる通り、この部分だけ、武家屋敷や商家がなく、明倫館の周りは空き地になっている。勿論現在はもうその面影も無く萩の中心地になっている。ただ、萩も人口減少が進み空き家が多くなっている。更に伝統建築保存地区が他の地方よりはるかに広く、その場所に新たに家を建てたり、改築、修繕には色々な規制があり、そこに住むには覚悟が必要だ。その為、伝統建築保存地区には敷地を囲む石垣はあるが、敷地は更地になり草が生え放題のところが多く、これは気になった。(上に掲載した古明倫館跡地のような感じになっている) 綺麗な江戸時代の街並みの中にこのような草が生え放題の敷地が所々にあり、少し違和感がある。この問題は各地方の伝統建築保存地区には共通の問題だ。
明倫学舎内部は博物館になっており、色々なテーマに分かれて入る。
幕末ミュージアムでは、小川忠文氏から萩市に寄贈された幕末維新期の歴史・科学技術史6,000点を超える資料のうち、特に貴重な実物資料を展示。特に鉄砲、大砲は子供に人気のゾーン。一個人がこれだけのコレクションを集め、寄贈したとは驚きだ。これだけでひとつの博物館ができてしまう。
次の展示は世界遺産コーナー。萩には多くの登録された世界遺産があり、それを紹介している。
まずは登録された世界遺産の紹介から始まる。
続いてテーマごとに別々の教室で展示が行われている。
(後日談: ここで紹介している萩反射炉や恵比須ケ鼻造船所はこの翌日に訪問した。)
松下村塾がこの明治産業革命遺産に入っているのには訳がある。(この後に訪問) 明治産業革命との関わりが必要なのだ。吉田松蔭が松下村塾で最も力を入れて教えたのは、これからも日本を背負う若者に対してのメッセージだった。その中に日本の発展には工業化が必要であるとし、その工業化は身分を問わない教育にあると教えた。その彼の考えが書かれた文章が松下村塾の世界遺産登録の決定的要因であった。事実、松下村塾門下生及びそれに影響を受けた長州人が明治の時代を引っ張り、信じられないほどの短期間で欧米列強に並ぶ国にしてしまったのは驚きで、日本人の潜在力の大きさを感じる。この時代の夢を持った若者たちの事を聞くたびにこの年になっても勇気が奮い起こされる。多くの偉人を輩出した萩や山口、そして鹿児島は最も優れた人物を東京に送ってしまったために、その地域は今では過疎化や仕事が無いことに苦しんでいるが、今の日本を支えてきたのはこの町だ。政府としても、犠牲を甘んじて受けて、日本の近代化に貢献したこの町をもっと支援すべきだ。
ここでは、映像で吉田松蔭の創価村塾での教えを3Dビデをで紹介している。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、渡辺蒿蔵、正木退蔵の5名に自分の考えを教えているところが流されている。
ここでも長州ファイブの紹介があった。昨日は萩博物館で長州ファイブのビデオを見て面白かった。ここではもう少し詳しく紹介している。志道聞多(井上馨)、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助 どれも日本近代化に尽力した人物だ。この密航には莫大な金がかかっている。その金をこの五人は長州藩の許可を取らず横浜の商人に立て替えてもらい支払っている。事後承諾を周布政之助を頼んでいる。通常であれば公金横領、今で言うコンプライアンス違反ではあるが、周布政之助の様な理解のある重臣により支援されて余りある成果をもたらした。この様に、信念に基づいいて思い切った行動や、それを理解する上司が少なくなっている現代には、精神的に学ぶ点がある。もう一つ興味深いのはこれに対して英国が協力を惜しまず技術の伝授を行なっていることだ。相手の国が強くなることに警戒して当然だが、そうではなく協力している。これは長い歴史で培われた風土、国民性では無いかと思う。自分も8年英国に住んだが、人に対しては同じように接する人が多くいた。日本はこの時代、英国、フランス、ドイツ、米国に多くの支援をしてもらい近代化を為し得ている。今は米国、欧州共に自国主義が台頭してきており、この時代のスピリットが失われつつある残念なことだ。
この他に展示はジオパークビジターセンターがあり、萩近郊の自然について解説をしている。日本海側沿岸部の地形の成り立ちを紹介している。特に興味を引いたのは、日本海側に多くの小島がありその形がほとんどの島が平らな丘陵になっていることだった。萩から日本海沿岸を走り島根に向かう時にこの島々が観れるだろう。(後日談: 4/27にこの島々を海岸から眺めることができた。)
明倫館敷地内には武道場があった。この日は明倫館見学で閉館時間がきてしまい、それを復元した有備館も見学はできなかった。4/26にもう一度ここに来て見学。明倫館の時にあったボランティアガイドさんとまたあった。覚えていてくれて、丁寧に有備館を案内していただいた。
唐樋札場跡
この高札場は宿がある浜崎地区に南にせっちされていた。この地域は商人、漁師など町民が住んでいたのでこの場所に高札が掲げられたのだろう。
Ruins of Sufu Masanosuke House 周布政之助旧宅跡
駐車場になっていて、何も遺構は無い。周布は教育に対しては最も良い理解者であったので、この場所は明倫館に近く多くの生徒が周布を訪れただろう。特に長州ファイブの実現は周布がいなければ無かったかもしれない。歴史上は知る人ぞ知るという人物。上級武士の家に生まれ家老まで務めたその人生は幕末という荒波で古い武家社会の慣習と新しいイデオロギーを持った藩士の間で苦悩しながら自分の道を探したと思う。山口でも周布政之助の史跡を訪れることが出来た。体制派の中で新しい時代を探したこの人の生き方にも考えさせられる。
Remains of Inoue Masaru House 井上勝旧宅跡
周布政之助旧宅のすぐ近くにこの井上勝の旧宅跡が残っている。彼も周布から応援された長州ファイブの人で、鉄道の父と呼ばれている。視察中のイギリスで亡くなった。彼にとってイギリスは特別な国であっただろう。恐らく、彼の頭には常に日本の将来をイギリスを模範にしていたはずで、明治の急速な発展にはがむしゃらに進み充実感もあっただろうが、その中で様々な問題の吹き出したことにはやはりイギリスと対比し、まだまだと思っていたと想像する。人は彼を大きな功績を残したと評価していただろうが、彼にとってはまだ道半ばの最期だったのだろう。
Birthplace of Irie Kyuichiro and Nomura Yasushi Brothers 入江九一、野村靖兄弟誕生地
兄弟共に松下村塾の塾生だった。松下村塾には様々な考えで問題意識を持った若者が集まっていた。ここに入門する人物は殆どが過激思想と当時は考えられていたもので、松蔭や松下村塾はテロリストの巣窟とも言われることがある。この兄弟も例に漏れず、尊王攘夷運動に身を投じ、兄は禁門の変で戦死、弟は激動の幕末維新で活躍をし、明治ではそれなりの業績を挙げている。このように兄弟で生死が分かれたのは幕末期には数多い。兄の分までとの思いが支えにもなったと思う。
ここまでは萩の三角州内にあるのだが、松本川を渡って外側にある史跡に向かう。写真は北側方面に向いてで左には萩城のある指月山、右側は造船所があった恵美須が浜の丘陵が薄っすらと見えている。
Remains of Matsushima Gozo House 松島剛蔵旧宅跡
長州藩藩医の家に生まれ、吉田松陰の妹婿である小田村伊之助(楫取素彦)は弟。この関係で松下村塾生では無いが、塾生との交流は親密で高杉晋作や久坂玄瑞とともに尊王攘夷運動にに没頭。剛蔵は医学と航海術を学び、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長を務める。下関戦争では直接、庚申丸を指揮してアメリカ商船、フランス艦、オランダ艦を攻撃。これにより反撃を受け、下関戦争は敗北になった。禁門の変にも参加したが、この時期に長州藩は幕府恭順の俗人派が政権を握り、野山獄に収監され獄中で亡くなった。高杉晋作の功山寺挙兵の数日後だった。生きていればどれだけ明治維新に貢献できただろう。多くの優秀な人材がこの時期に逝ってしまっている。惜しいことだ。
Ruins of Gunji Foundry 郡司鋳造所跡
三田尻に居住し大内氏に仕える鋳物師であった郡司家は、大内氏滅亡後、長州藩に召し抱えら萩に移った。江戸時代を通じて、鍋・すき先など生活用具、梵鐘などを製造していたが、幕末になると郡司源之允を長崎の高島秋帆のもとに派遣して、洋式砲術を研究させ、嘉永7年 (1854年) に佐久間象山の指導のもとに18ポンド砲を鋳造。この大砲は下関戦争で使用され、敗北後、アメリカ、イギリス、フランスに持ち去られ、一部は返還されて現存している。
Kagetsuro 花月楼
茶室「花月楼」は7代藩主毛利重就が、安永5年 (1776年) 三田尻(防府市)の別邸宅に建築したもの。昭和34年 (1959年) に現位置に移築。
Shokasonjuku / Shoin Shrine 松下村塾/松蔭神社
この後訪れる玉木文之進旧宅が松下村塾の始まりの地であるが、松蔭がこの松下村塾を引き継いで、教えたの1857年 (安政4年) より1年余りだった。松蔭27才の時にこの杉家の8畳間に塾を移し、その後増築をしたのがこれだ。著名な門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞 (この二人は識の高杉、才の久坂と称され、松下村塾の双璧」と呼ばれた)、吉田稔麿、入江九一 (この二人を含めて松下村塾の四天王と称された)、寺島忠三郎等がいた。幕末を生き延びた伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らは明治新政府で活躍。その他の出身者には、前原一誠、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣(山県半蔵)らがおり、何かの機会に聞いた名前が数多くいる。改めて、吉田松蔭の影響力の大きさに驚く。29年の短い生涯だった。吉田松蔭の目に見える功績はと問われると首を傾げ出てこない。彼の教えを受けた多くの門下生が松蔭の夢の実現に奔走しなし得たのだ。ひとりの情熱が直接教えたもの、教えは受けなかったが共感したものを動かし大きな功績を成し得た。
幕末期の動乱の時代であるので門下生の多くは幕府や後には明治政府にとり危険思想者となった。松蔭の後、松下村塾を引き継いだ
同じ敷地内にある杉家の家屋で、海外渡航に失敗して野山獄に収監され許された後ここに幽閉され講義を行った。幽閉が解けて、上の創価村塾はで一年ほど教える事になる。
昭和30年に建てられた神社。吉田松蔭や門下生を祀っている。松蔭は萩では神様になった。街でも松蔭の事を聞くと、必ず「松蔭先生」とよんで答えてくれる。それ以降は、敬意を払い自分も聴く際には松蔭先生というようにした。
Birthplace and Graves of Yoshida Shoin 吉田松蔭生誕地/墓
Ruins of Takasugi Shinsaku Residence 高杉晋作草庵跡
文久3年 (1868)4月に晋作は藩に10年の暇をもらい、この付近の草庵で夫婦で生活を始めた。松陰の遺稿を読むなどして暮らしていたが、僅か2ヶ月後に下関戦争が勃発し惨敗した藩は晋作を呼び戻し講和使節をやらされた。この時に晋作はその肝の太さを見せ、賠償金は幕府に請求させたというウルトラC (少し古い表現かな、今は難度が上がりウルトラFが適切かもしれない) を演じている。司馬遼太郎の小説では古事記を朗読したとある。兎に角型破りの人物だ。この下関戦争の後、騎兵隊を創設する事になった。松蔭と晋作は長州では最も優れた人物だっただけに、二人とも早世してしまったのは残念だ。もし生きていれば、明治政府の方向性は違ったのではないだろうか? ひょっとしたら、彼らの知恵で、萩の乱や、西南戦争は無かったかも知れない。
Birthplace of Yoshida Toshimaru 吉田稔麿生誕地
生まれた家は松下村塾のすぐ近く。彼もまた松下村塾の門下生で、松下村塾の四天王の一人と称されたほどの秀才で兵学を学んでいた。残念なことに彼も道半ばで倒れる。あの有名な池田屋事件で新撰組の襲撃で討ち死にしている。享年23才という今からの時だった。
Second Residence of Katayama Tokuma 片山東熊別邸跡
片山東熊は今まで見てきた長州人とは少し異なる。勤皇の志士ではあった。奇兵隊にも参加、戊辰戦争にも従軍している。彼が目指したのは建築家だった。明治の近代化政策の中で、必要な人物であったし、その時勢で彼が成功を収めた。時代の変わる時は多種多様な人物が排出される。彼はそのひとりだ。
彼の作品は明治時代に日本人の設計かと思うようなものが多い。東京で見たことのある建物も含まれている。
Remains of Tamaki Bunnoshim House 玉木文之進旧宅
松下村塾は松蔭の私塾として有名だが、この松下村塾の起こりはこの地にあった。1842年 (天保13年) に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰もここで学んでいた。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門が塾生の教育にあたった。明倫館は士分の藩校で、町民、農民 (卒族)、足軽、中間など武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。
松下村塾は現在松蔭神社があるところに移ったが、松蔭が二回目の野山獄投獄で中断していた。明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移し再開をした。しかし、萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年 (明治9年) に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年 (明治13年) に松陰の兄の杉民治が塾を再開し、1892年 (明治25年)まで杉が老年で教えられなくなるまで続いた。ふと思った事だが、この萩にもう一度松下村塾を作ってはどうだろうか?形は変わるだろうが、将来の日本をになう若者たちを刺激するのはいいだろう。教えるのは松蔭の思想でいい。技術などは学ぶところは幾らでもある。今かけているのは若者を鼓舞するような思いを教えるところがない。松蔭が行ったのはその思いを教えたはず。決して技術では無い。短期間でも良いから、あの松蔭読本などは小学生、中学生に夏期講習でこの地で教えるにはいい材料だ。松蔭を萩に閉じ込めておくにはもったいない。
Birthplace of Matsuura Shodo 松浦松洞誕生地
松浦松洞も勤皇の志士で松下村塾の門下生であった。松蔭より早く渡米を企てたが、松蔭に時期尚早とし止められた。栗田宮 (中川宮) が尊攘派から幕府の懐柔策で佐幕派に変心し、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議で、25才という若さで切腹をしている。絵を好み、存命であれば、画家になっていた人物。これも口惜しい限りだ。