三五冊目【他人の始まり因果の終わり】
【他人の始まり因果の終わり 】
著者 ECD
出版社 河出書房新社
けして、分かることはない。他者の人生なんて分からなくて当然なんだと思う。
だけど、それだからこそ心に強く響くことがある。
だから分析じみた言葉なんて本当は不要なんだろうけど、どうしても描きたくなったので久しぶりにここに書き残そうと思いました。
徹底的に”個”であることを貫いたラッパーECDの綴った言葉は、そのスタイルそのままに未分類で未消化‥”そう思う”という確認めいた自分を納得させるような言葉ではなく”そう思いたい”という願いのような祈りのような言葉が綴られたエッセイで、なんだかとても救われて、そして胸が苦しくなった。
ECDの人生は本当に”個”だったのだろうか?例えば彼ら家族の拡大家族のようなあり方は厳密には”個”とは言えないだろう。それはECDが作中何度も書き遺したように、”カエルの卵のような家族”という表現によく現れているように思う。確かにカエルの卵は膜に覆われていて個々が交わることはけしてない、しかし同時にそれぞれが離れては存在=生存できない。それは”個であり全である”いうことなのではないだろうか、そして”全であり個である”とも考えられる。それは果たして”弱さ”や”欠陥”だったのだろうか?‥その卵をくるんだ滑りのような膜もまた、俯瞰して見れば一個の塊で、つまりそれは”大きな個”だったのではないだろうか。そして、そんなことにECDはずっと気が付いていたんだと思ういます。だってこの本からは”個人”や”個性”に執着した者が辿るような”他者への断絶”ともとれる言葉や表現は、終ぞ一度も語られず全体を通して微塵も感じられないのですから。
ECDの求めた”個”は世間一般の人が考えるような単純で画一的な性格のものではなかったのでしょう。彼の描いた”個”というのは”孤立”や”断絶”といった冷たく孤高の存在としての”個”ではなくて、どうしようもなく不自由で不器用な自分自身を、そんな自分自身を作った環境を、そんな自分が作り出した環境を、そして関わってきたすべてを、一つ一つのカエルの卵=”個”とそれを包む膜=”大きな個”までも含んで、すべてを理解したいという祈りであり、自らが信じたすべてを包み込もうとするような、圧倒的に深く大きな温もりを持った慈悲のような性質を持った”個”だったのではないでしょうか。勝手な想像だけど僕はそう感じました。
それは森の”木々”がお互いを尊重するように自然と立ち並び、共存をして”森”という大きな”個”を形成しているのと似ていたのではないか、そう思います。ECDの生涯はけして明るい道ではなかったかも知れません、だけれども、僕はこの本を読んで辛く暗く悲しい社会を覆っている”個”とは異なる”普遍的で暖かな個”の姿を確かに見たような気がします。
もはやそれは”個”と呼べないものなのかもしれません、だけれどもECDの求めた”個”という概念は、仏教や自然崇拝の中で導き出される普遍的な存在と等しく深いものにまで到達していた。それは宮沢賢治が”雨ニモマケズ”に遺した、”そういう者に私はなりたい”という願いとも通づる深く暖かな”個”のあり方だったのだと僕は感じました。
縮退社会に向かうこれから”個”の時代を生きる世代が真正面から向き合わなくてはならない本質がこの本には綴られているように思います。