Ride in Setouchi & San-in Day 45 (29/4/19) Move to Izumo 移動 出雲
Move to Izumo 出雲へ移動
- 不言城跡
- 手引ケ浦砲台跡
今日は長丁場。浜田市から出雲市に移動する。90キロの距離で、アップダウンが多く高度はそれほどでは無いが、急坂もいくつかある。ナビでは獲得標高は約900mと出ている。(獲得標高差とは合計で登る標高m)
しかも天気予報は一日中雨と出ている。
本当は中間点で泊まろうと思っていたが、ゴールデンウィークでどこも宿はいっぱいで取れない。キャンプ場はあるが雨の中で設営や撤収は辛いので、インターネットカフェのある出雲まで行く事にした。インターネットも混んでいる。昨夜も身体を伸ばせる座敷部屋は無く、椅子席しか無かった。少々寝不足だが、自転車をこいで身体を動かしている間は大丈夫だ。今日はどこにも寄れないだろう。
幸い、出発時には雨がやんでいる。いつまでもつかだが、少しの時間でも雨でないのは楽だ。
今日の道の国道9号線は地図上は海岸線を走っているように見えるが実際には浜田を出て数キロ後、出雲手前20キロまでは海岸などはほとんど見えず内陸部を通る。数カ所トンネルがあった。島根県のトンネルは歩道が狭く自転車では危険。緊張しながら車道端を走る。
浜田近辺の風力発電所
だいたいこんな感じの所を走った
不言城跡
突然この看板に出くわす。国道沿いの山城跡。それ程高そうでないので、登ってみたいが、登ると最低でも1時間はかかるだろう。今日の長距離走行で1時間は痛い。登城は断念。石見吉川氏の吉川経安の城。吉川経安は吉川元春(吉川宗家)の家臣。
丁度中間点(浜田から45キロ地点)に大田市がある。石見銀山で有名な所。毛利家が中国地域を領有していた時はここから取れる銀で潤っていたが関ヶ原の敗戦でここを失った。出雲からも45キロで出雲滞在中に訪れてみたいと思っているが、来れるかは未定。
ここまで何とか天気が持ったが、これ以降雨になり、出雲に近ずくにつれて強くなってきた。出雲まで20キロ地点で大雨となった。
手引ケ浦砲台跡
ここに手引ケ浦砲台跡がある。たまたま気がついただけで、あるとは知らなかった。
幕末の頃、松江藩が外国船備えて、田儀湾の東の手引ヶ浦の高台と、湾の西にある田儀川河口の2ヶ所に台場(砲台)を築き、それぞれ大砲を3門ずつ配備していた。
手引ケ浦には出雲神話の言い伝えがある。以下が言い伝えの抜粋。出雲にはこの手の神話が多くある。
大国主大神の娘である阿陀加夜努志多伎吉比賣命(あだかやぬしたききひめのみこと)は、父神の言いつけにより多吉里(たきり)に来られ、ここでお住まいになられました。命は賢くやさしい方で、里人の災いを払いのけて幸せをはかり、田畑の実りのよいように守られたため、里人から崇敬されていました。
ある日、命が父神のおめしにより杵築の宮(出雲大社)へ行くために、この浜辺を通りかけられると、海人が命の御出発を惜しんで、にわかに津波を起こして引き止めようとしました。やがて大波が激しく押し寄せて浜辺をふさいだため、命は沖の海神に向かって「私は今、父神のお召しを受けて杵築の宮へ参ろうとここまで来た。早く波を静め、潮を引かせて道を開かせ給え」と言われると、それまで荒れ狂っていた大波もぴたりとやんで、元の美しい白浜にもどりました。
これをご覧になった命は、お供の者たちの手を引いて真一文字に稲佐の浜へと急がれました。そのいわれにより、この浜辺一帯を「手引ヶ浦」と呼ぶようになりました。
大雨の中出雲に到着。雨合羽もこの強い雨で水が浸み込み衣服も濡れているように靴は完全に雨でグズグズ。