小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説② ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
ご了承の上お読み進めください。
そんなはずがなかった。
ハオは、声を立てて泣き叫んでいたのに。獣じみた声を、あの、たとえばチャンのような、あんな声をさえ立てて、そしてだれも彼の声など聴いてはいなかった。もはや聴覚を失って、窒息しかけて失心寸前の、自分の意識の白濁した閃光と、そのはるか下方に鮮明に騒ぎ立っていた苦痛の荒れ狂った浪立ちに、鮮明に我を忘れていたタオも。
何よりハオ自身が。事実、なにも聴こえてはいなかった。ハオには、そのときには、もはや。
あらゆるものが切実で、そして、とっくに、なにものも彼にふれることをやめていた。
事実として、ただ突き放されてハオは孤立していた。いずれにしても、ハオは想い出す。そのとき、自分が感じていたさざ浪立った心情の、細かな無数の浪立ちを。
眼の前に、死体があった。
想い出す。記憶が蘇る、その蘇るがままに、好き放題に、想い出す。それは痙攣し続けて、いつ?…と。ハオは想った。いつ、彼は死ぬのだろう?何故か軍服などを着た、その自殺した肉体は、完全に。忘れようもなかった。そのとき、不意にハオはいま、自分が、やがて16歳のタオを殺して仕舞ったことを認識した。眼の前の内庭に雪が降っていた。すでに深く積もって仕舞っていたそのほのかに明るい純白の上に。
樹木が一品、しずかにのた打ち回るような曲線を幹に曝して、太く、あくまでも図太く、そこに存在していた。その5メートル四方の周辺を壁が覆って、光はその切れた上から注いでいたのだった。月のそれと昇りかけの太陽の混ざり合ったそれ、夜の終わり始める寸前、あるいは終り始めた直後の、明けかかったいまだにかろうじて夜の光。
広い家だった。広大な敷地の三分の一を埋めた家屋の、広い仏間の小さな窓から、名前の知らない樹木が真ん中に立った小さな内庭がった。自分の眼差しがさっきからずっと捉え続けていたものが、紛れもなくその、そこの、いつも見慣れたそれであるに他ならないことを、ハオは認識した瞬間に、その灼けつくような認識の鮮やかさにのみこまれた。彼は言葉をさえ失っていた。目舞った。いま、と。彼は知った。自分は、雪の降り積もった中の、樹木の一本を見ているのだ、と。
この、…あの?…内庭の、と。その時、肌に冷気がふれていた。そんな事は知っていた。当然、なぜなら彼の筋肉は、時にその寒さに震えてさえいたのだから。振り返ったその背後に、あの、可愛そうな少女の絞殺死体が転がっているのを、ハオはそれを振り向き見る前には気付いていた。埋葬してやらなければならない、と、ハオはそう想っていた。ハオは、彼女を殺して仕舞ったのが自分だったことを、認識した。
たしかに、と。想う。私はタオを殺した、と、それは、もはや否定できない事実だった。聴こえた。頭のおかしな、なにもかも崩壊して仕舞った、哀れな見苦しい生き物が獣じみた、低いあららいだうなり声を上げ続けていた。もはや、泣き声とも、慟哭とも言獲なかった。それはただただ穢らしく、耳に痛い。太い、ざらついた、乃至、ひび割れた音声。寒気さえする、と、ハオはその音声を嫌悪しながら、それ。その声を立て続けている自分を呪った。タオを振り向きもせずに、ハオは泣き叫んでいて、だったら、と。ハオは正気に戻った。俺は、とっくの昔にタオを殺して仕舞ったことを認識していたに違いない。
…泣いているんだから、こんなにも。ハオは頭の中で、…俺は。
タオを殺した。…今。
と、独り語散たそれら音声を無数に、彼の頭の中は反芻させていた。弔って遣らなければならない。
とはいえ、ハオにその気はない。眼の前の軍人の(乃至、軍人を射殺して軍服を奪って着用しているに過ぎない一般人の?)自殺体は、すでにその表面を雪が覆い隠し始めていたし、傍らの、塗擦された鶏の、毛をむしられた裸身にさえ雪は降り積もりかけていた。うずもれ始めたそれらを、いまさらあえて弔って遣らなければならない必然など何もない気がした。だったら、それは喰われなければならないのだろうか?
バクテリアに食い尽くされる前に、人間の口で。
誰かの口で。
誰かの庭で。
もはや、ここは誰の庭でもなかった。最期のときに、自分の眼の前で、軍人と同じように自分の頭を打ち抜いた男がかつて住んでいたこの家屋は、その妻こそはここの所有者なのだろうが、彼女はすでに《盗賊たち》による集団暴行の果てに死んでいたし、そして、いずれにしても法的な所有権など国家組織が実体をなくして仕舞えば、現実的にはすでに無効だったに違いない。人々はここで、まるで動物のように、当然の入り乱れた縄張りを張り巡らして、ときに私設のあまりにも切実な紛争地帯を至るところにばら撒いていた。さまざまな、当事者以外には意味不明の暴力事件と、あくまでも理不尽な私的抗争をいたるところにぶちまけさせて。
いま、ここはハオの領土だったに違いない。だれも、入っては来ないから。裏の炊事場で、雪の寒さに震えながらも、14歳のタオは鶏をゆでるためのお湯をもう、小ぶりな寸胴の中に沸かして仕舞っているに違いない。ハオは雪の中に素手を曝したままの凍えた手のひらを突っ込む。零度の、痛みと熱を孕んだ触感の中に鶏の首をつかんで、雪の中から引きずり出した。ハオは想い出す。その撲殺したベトナム人の中年の女の足を、ハオはつかみ上げた。仏間の木戸のかすかな翳りで、タオの眼差しは明らかにおびえていた。…壊れているんです。
こわれまっ
言った。「…その女、壊れてるの。」
そのとき、何の用があるわけでもなく、暇つぶしにと言うわけでもなくて、そのくせ何かに誘われて、仏間に行ったときに、朝。寝室から出て来たばかりのハオは目舞った。
そこに、ふたりの女がいたからではなくて、その人翳の向こうの空に。私は、想わず眼を見張った。
開け放たれた、木戸の向こうに見出せるそれ。桜色の空を見た。
いままで、私が一度見たことのなかった風景。
それは、桃色とまでは言獲ない。あくまで桜色、と、そう呼ばざるを獲なくなった自分が、いまさら、所詮は日本人に過ぎないことを私はふと、哄笑する。笑い声さえもなく。
あくまでも、白く、黒くよどみもしないままに何層にも渡って、かさなり合って仕舞った雲がなぜか、その理由など一切明かしも暗示しもしないままに淡いピンク色を表面にほのめかす。その向こうの空の上から、雲の白濁を照らし抜いていたのが何だったのか、いずれにせよ桜色の空。…そうだった、と。
確かに。
ハオは想った。起きたときにも、すでに、自分はこんな色彩を見ていたのだったと、ハオは今更に想い出し、認識。私は想う。結局は、ハオが私に見せる事になったこの空の終末期の色彩を、彼がもし生きてその眼にじかに見たのなら、彼は笑うのだろうか?
見ろよ。
あの、嘲笑をかすかに感じさせる彼固有の「ほら。」ささやかな笑い方で。「…綺麗じゃない?」…想い出す。
とっくに私は気付いていたのだった。そんな空の状況には。寝室で眼を開いたときには、寝室に侵入する光の気配の中で。
かたわらに、私にすがり付いて寝るタオを起こさないように気遣って、立ちあがろうとした私は、…認識。
すでに、そのときには私は認識していたはずだった。色彩。
それは、無慈悲なまでにあきらかにハオの眼差しの中にあった。すでに、その色彩の鮮度。眼醒めたハオの、あの狭い寝室の空間の中、壁の高い部分に空けられた小さな通風孔の連続の向こうにはもう、見い出されていた色彩。あるいは、空間を音もなく制圧していた空気さえもが、その色彩を明かに撒き散らされていた。眼差しの中にだけ感じられる、それ以外の色彩など獲り得ない空気の確信に満ち色づいた気配。
これは、…と。
ハオは想った。仏間の木戸の向こう、雪をかぶったブーゲンビリアの向こうに見い出せていたその、空の色彩に。たしかに、俺がはじめて見る風景なのだ、と。振り向いたそこに、いつの間にかタオが立っていた。タオは、ただ、いつくしみ、やさしく案じる眼差しをだけすでに、私にだけ向けていた。…ねぇ。
大丈夫ですか?
罵り声が立っていたのだった。それは、ハオが仏間に来たときに不意に立って、甲高く、耳障りで、悲痛で、追い詰められていて、哀れでさえあって、耳を塞ぎたくなるような痛みを喚起させる、行き詰まりの、希望のない、すべてが無駄だと知っていながら、それを一切認識しない、苛立った、まるで複数の人間が同時に立てているような、それ。
桜色の、逆光とも言えない淡い明るさに抗って眼の前に存在していた、そこに立ちつくしてハオを見つめている中年女のそれ。その、乾いて破れかぶれの唇がわななかせる音声。ハオは手じかにあった真鍮の仏像でその女の頭部を殴打した。…綺麗です。
いま
私は、タオを気遣いながら、彼女に
空が
言ってやった。
綺麗ですよ
いま、空が、
いま
綺麗ですよ。
空が
桜色です。…
仏像は高価なおみやげ物だったに違いない。真鍮の重みが、ハオの手のひらを占領していた。いずれにして、女の頭部を破壊するためには、それがあまりにも適切なサイズと重量を持っていたことに、ハオは殴打の瞬間に気付いた。
ワインボトル程度の大きさ、何かの観音像なのだろうか?いずれにしても、女の両眼は一瞬、驚愕した。「…来て。」
と、そう言った私に、タオは微笑みかけるわけでもなく、やがて、ようやく私から目線を外したタオの眼差しは、私の背後に拡がる桜色の空を見留める。…ね?
庭の雪さえ、桜色は照らし出し
「綺麗でしょう?」
染める。
タオの唇が、
きれじぇすょ
ささやく。…ね。
「見てください、いま、空が綺麗です。」
眼を剝いて、自分がいま、容赦のない暴力に曝されている事実に、女はおののくしかないのだった。それはあってはならないことだった。罪もない自分が、こんな無残な眼にあっていい事など在り獲ない。割れた額がおびただしい血を流していた。ハオはふたたび、彼女を殴打した。
三度目の殴打で、やっと女は膝をついた。ハオは頭部への殴打をやめない。女は肥満していた。よくも、と。
ハオは想った。こんなにも破綻した世界の中で、こんなにも健康的に太っていられるものだ、と、あるいは、それとも彼女は優秀な狩猟者なのだろうか?「いま、…空は」だれよりも速やかに食い物にありつけて仕舞う。でなければ、「てっても、とっても、」男たちに貢がせて?こんな「見たこともないくらいに、」ぶさいくな、薄穢れた女が?だったら、「…ね?」何のエネルギー補給さえもなく、人体は「…綺麗ですよ。」肥満できる可能性さえ持っていたのだろうか?
私は、その、それら、タオの繰り返されるアルトのやわらかい音色を、空間の拡がりの中に聴いていた。
女は死んでいた。女に覆い被さって、上からなんどその額を殴打したのかわからなかった。押さえられない暴力衝動に突き動かされなどは、一瞬たりともしなかった。大股を拡げてひざまづいた姿勢のままのけぞり、首をひん曲げて後頭部を床につけ、眼を見開き、四肢を痙攣させ続ける彼女、その、死んだ女の死亡の確証がハオの眼差しに、なかなか与えられなかったそれだけのせいだった。
投げ出された女の両腕が大きく引き攣った。女の即頭部を蹴りあげた。女の体は横様に転がって、そして、身体が床に大きく撥ねた不自然な瞬間に、一度だけ大きく息を飲んで女の肉体は、その身を伸ばした。肉体はもはや力なく弛緩した。女はこの雪のなかに、彼女の肉体に容赦もない苦痛を与えつづけていたに違いないあまりにもな薄着で、ただ淡い緑色のスウェットを着ているだけだった。その趣味がいいか悪いかは知らない。
赤裸々に、女はそこに死んでいた。乃至、いまだ死んでいなくとも、生きる事はもはや不可能だった。弛緩した身体に、未だに曝される唐突な、短く激しい間歇的な痙攣。
振り向いたそこに、15歳のタオはいた。ハオの眼差しの中で、タオは、仏間の床の上に尻をついて、さっきまで女に折檻されていたそのままに涙を一杯にためて震えていた。
声くらい上げればよかったのに、と。せめて、助けくらい求めればいいのに。
ハオはタオに苛立った。そして、助けの声さえ上げられなかった彼女を哀れみ、同時に、そんな彼女を理解していた。かならずしも、何を理解したというわけでさえなく。タオは、不意に襲い掛かってきたその女、食い物にありつくためにか、何かを略奪するためにか、ここを棲み家にするつもりだったのか、侵入してきた侵入してきた女に、どうしてもささやき声の一つをすら上げられなかったのだった。如何なる意味でも、その瞬間に声など奪われていた。なにもかもが、身振りに抗うことさえもが不可能だったとき、なにもかもは、ただ不可能である以外にはない。だから、彼女は泣きそうになりながら折檻されてつづけ、そしてそれを受け入れるしかなかった。身も蓋もない痛みの、骨に響く連鎖に体をわななかせながら。涙と、鼻水と、不可解な発汗に全身を隈なく濡れさせながら。