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「牛深ハイヤ節」について

2019.04.29 09:09


牛深は、江戸時代、天草随一の良港であり、漁船だけでなく、日本各地からの帆船も立ち寄る賑やかな漁師町であった。


天草諸島の南端に位置し、東シナ海や不知火海を南北に行き交う帆船にとって、牛深は絶好の停泊地となる。


船乗り達は、常に風まかせだ。


いったんシケに合えば、何日も港に足止めになる。


彼らは牛深の街で空を気にしながら寝て待つか、酒盛りでもするしかない。


「ハイヤ」とは、「南風(ハエ)」のことを指す。


牛深から東シナ海を北上する帆船にとって、南風はなくてはならないものだ。


一方、北に山を抱える牛深は、南風が吹くとシケになりやすいという。


彼らにとっては、良くも悪くも南風が気になるわけだ。


牛深に寄港した船乗り達、そして牛深の女性達が、船乗りとしての日常や夫の身を案じる気持ちを唄ったのが「牛深ハイヤ節」であり、その歌詞は例えば以下のようなものである。


ハイヤで今朝出した船はエー/どこの港に入れたやらエー/牛深三度行きゃ三度裸/鍋釡売っても酒盛りゃして来い/戻りにゃ本渡瀬戸徒歩渡り


南風に乗って今朝出航した船は/今頃どこの港に着いたのだろう/牛深に三度行けば三度すっからかん/(当時は貴重な)鍋釜を売ってでも酒盛りはして来い/(金が無くなって)戻るときは、本渡瀬戸は歩いて渡ればいい


江戸時代、帆船の舵取りは一晩中唄うことが義務付けられていたらしい。


そのため船頭たちにとってシケの時の酒盛りは、唄のレパートリーを増やす格好の場となっていた。


また、当時の牛深には天草地方唯一の遊郭があった。


そこで船乗り達の相手をする女性たちにも、この唄はアレンジされ、歌い継がれてきたのであろう。


「牛深ハイヤ祭り公式ホームページ」によると、「牛深ハイヤ節」は、牛深港に寄港した船乗りたちにより、日本各地の港から港へと広まっていったという。


牛深を出港し長崎、瀬戸内海を経由して大阪へ向かう船、大阪からは日本海を通り新潟などを経由し北海道へ向かう北前船により、航路上の港に伝わっていき、各地域で様々なアレンジが加わり、その地に根付いていった。


「牛深ハイヤ節」をルーツとするハイヤ系民謡は、南は鹿児島、北は北海道まで日本各地で歌い継がれていき、佐渡おけさや阿波踊りはその代表的なもの、とのことである。


「牛深ハイヤ祭り」の前身の「みなと祭り」が始まったのは戦後の1948年だから、祭りの歴史としては、とりたてて古いというわけではない。


しかし、そこで唄われる「牛深ハイヤ節」には、江戸時代から独特の歴史と物語が受け継がれているのだ。(Y)