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小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説③ ブログ版

2019.04.29 23:34





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

ご了承の上お読み進めください。





振り向いたそこに、15歳のタオはいた。ハオの眼差しの中で、タオは、仏間の床の上に尻をついて、さっきまで女に折檻されていたそのままに涙を一杯にためて震えていた。

声くらい上げればよかったのに、と。せめて、助けくらい求めればいいのに。

ハオはタオに苛立った。そして、助けの声さえ上げられなかった彼女を哀れみ、同時に、そんな彼女を理解していた。かならずしも、何を理解したというわけでさえなく。タオは、不意に襲い掛かってきたその女、食い物にありつくためにか、何かを略奪するためにか、ここを棲み家にするつもりだったのか、侵入してきた侵入してきた女に、どうしてもささやき声の一つをすら上げられなかったのだった。如何なる意味でも、その瞬間に声など奪われていた。なにもかもが、身振りに抗うことさえもが不可能だったとき、なにもかもは、ただ不可能である以外にはない。だから、彼女は泣きそうになりながら折檻されてつづけ、そしてそれを受け入れるしかなかった。身も蓋もない痛みの、骨に響く連鎖に体をわななかせながら。涙と、鼻水と、不可解な発汗に全身を隈なく濡れさせながら。

ひっぱたかれるか蹴っ飛ばされるかしたに違いなかった。唇が切れていて、そして彼女は鼻血さえ流していた。ハオの眼差しの先で、自分自身が流した液体が執拗に彼女の皮膚にふれていた。

いま、タオは自分の顔の至近距離に、覆い被さるようにしてひざまづいたハオの、その眼差しを見ていた。まつげが密集し、瞬くたびにそれがそれらの沈黙をあられもなく崩壊させる。

美しい、と、そう言いきって仕舞いたい欲望に駆られるハオのその、どこかで女性的な匂いのある、あくまでも男の顔。

自分が一瞬、見惚れていたことには気付きながら、とはいえ、ためらいが拭えない。

その顔には、まぶたのやわらかで、あまりにもあっけなく、あるいは脆弱な気配、その湾曲。

息づく、曲線。

かすかにふえて、そして、まぶたが細かい翳りを生じさせていた。それは、確かにまつげによるもの。

ひたすらにやわらかく、そして鋭利なまつげの密集。

彼女のまつげが、自分のまぶたの上に描き出した繊細な風景。私は、至近距離の眼差しの中でそれを見つめていた。

彼女を腕に抱き、タオは私に、桜色の空にあえて背を向けたまましがみつき、…美しい、と。

あなたは、美しい。

そう断言して仕舞うには、それはあまりにもグロテスクな造型だった。…まぶた。

タオの、あるいは、人間の?それら、その、まぶたは常に。

そして、眼。

無機的で、まるで金属で作られたような。乃至、ガラスで作られたような。且つ、あまりにも生々しく有機的で、生き物の匂いさえない空虚なたたずまいの中に、好き放題に、瞳孔のささいな開閉以外の如何なる変化も曝さないままに表情を見せ付ける。

なにか、どうしようもない過失がそこに感じられた。

あまりにもあざやかに、むしろ息を飲むほどに。

口付けた。

私は、何も言わずにタオのまぶたに、未だに閉じられないままにそっと唇を、ふれてやり、かるく。

ただ、皮膚が、それにふれていることにかろうじて気付き獲るにすぎないほどに、かるく。ハオはタオを見つめていた。手を突いて、顎を突き出し、大股を拡げて、そしてタオが息遣う。…怖かったの。

ぶたないでください

あなた、知ってる?

もう

そんな声。

これ以上

わたし、怖かったの。ねぇ。…

傷付けないでください

それら。

これ以上。もう

本当に、あなた、知ってるの?

自分を傷付けようとするのはやめてください

赤裸々におびえきった女の、無防備なそれらの声の群れが、タオの眼差しの中に響いていつのが、聴こえた。その日、いつものように仏壇の掃除を始めたタオは気付いたのだった。背後に一瞬の、疾走する獣じみた体躯の気配。彼女を抱く気にはなれなかった。私は。タオを。私が、あの女、あの日生き残った《盗賊たち》の首領だけでなく、自分をも私のものにして仕舞うことを、タオがそれを望んでいたことには気付いていた。

嫉妬?

線香はもう手に入らなかった。だから、タオの毎日の仏事とは仏壇を、とりあえずは掃除して差し上げる以外にはなにもなかった。あの女の如何にも女じみた体を抱く私に、タオは嫉妬したのだろうか?いずれにせよ、その疾走する気配が知覚されたと想った瞬間には、タオの髪の毛はすでに引っつかまれていた。床に投げつけられ、放り出されたタオの体が床に撥ねて、鈍くやわらかい音を立てた。…なぜだろう?

私は想った。なぜ、私はタオを自分の女にして仕舞う気になれなかったのだろう?

想う。床の難い触感と、腕と、腰にすでにその痛みとが鮮明に存在していたことにも、タオはいまだに気付かないままだった。

まぶたの皮膚から、一瞬だけの軽い接触のあとに、引き離されて仕舞う唇を、タオは私の腕の中で見上げた。…幼い少女。

明らかに、自分が女である事を矜持している眼差しが、…わたしは。

あなたの女です。と、とはいえ、不思議な、初めて見い出した風景を見ているような、そんな気配の中で、私の唇をだけ見つめていた。

見あげた。タオは。そこに、息をあららげた見知らない女がいた。緑色のスウェットの女は哄笑するような、そして追い詰められた眼差しをしていた。眼差しはただ、切迫をだけ知っていた。女は飢えているに違いなかった。なにに飢えていたのかはわからなかった。むしろ、タオは耳を澄ました。

なにかが、耳を澄ませば聴き取れるような、そんな気が一瞬だけタオにはした。《盗賊たち》が逃げ惑って、そして何処かに姿を消して仕舞った後、残された負傷者たちの呻きが地表の、一番低いところで停滞し、淀んでいた。

数人。…7人くらい。

ハオと私が、殺して廻った、乃至、破壊して仕舞った死にかけの生き物の残骸たち。

振り向くと、そのとき女は樹木に身を預けたまま、私を見つめていた。

赦します、と。

微笑んでさえいた女の眼差しは、私をひたすら、根拠も無く受け入れていた。

私の承認さえ獲ないままに。ふたたび髪の毛を引っつかんで、片腕を振り上げて殴りかかる女の丸いこぶしを、タオは腕を交差させながら必死に耐えた。耳の中に聴こえていたのはさまざまなかたちをなさないささやき声の群れだった。「…違います。」と。

その女の眼差しは、はっきりとそう訴えていた。…そうじゃ、…

「そうじゃない。」…違うの。こう…

「こうじゃない。」

違う、…と。その白濁した、いつの間にか熱を帯びていた頭の中に、いくつかの閃光が明滅していた、そんな記憶が在った。タオは、眼の前に、自分を見つめたハオの眼差しだけを見ていた。

男の指先が、伸ばされた。

その、アジア人としては驚くほどに、むしろアルビノを想わせる気配のある白い指先は、とはいえ、白人のそれのような白さにまでは至らない。不思議な色彩だった。伸ばされた指先、それはハオの、唇にふれようとして、一瞬の戸惑いを曝した。

それは、あきらかに自分の振る舞いを羞じていた。…指。

と。

それは私の指、…そう想ったタオは、ハオの眼差しを見つめた。戸惑う指先の、その停滞に、ハオの吐いた息がふれた。指先は、唇を迷いなく押さえ、押し、そのかたちをかすかに押しつぶして、感じられたのはその向こうの歯の触感。ハオは、タオの両眼が一気に涙を溢れさせるのを見ていた。…怖かったの?

あなたが欲しかった。

ハオは言って、「怖かった?」

でも、求めたのはこんな風景じゃない。

その言葉。日本語の語彙を、タオが知っていたものだったかどうか、自分の記憶をまさぐった。…女の眼差し。

あきらかに、彼女のただ、ひたすらに眼に映るもののすべてを歎いているに違いない鋭利な眼差しは、むしろ涙をさえ溜めて、そして、うなづきもしないで、涙をだけ流しているタオの眼差しに、それでもハオは鮮明に、いずれにしてもハオの言った言葉の意味を彼女が了解しているには違いないことを、ハオに察知させた。赤裸々なほどに。

ふしだらで、放埓ななにかを感じさせるほどに。わたしたちは、…と。

「…違うんです。こんなところに」

ハオは想った。わたしは、いま、会話ができた。…と、

「来たかったんじゃないの。ただ、…」

その事実が、不意にあざやかにハオに

「あなたが好きだっただけ。」

認識された。ただ、言葉の欠片もない沈黙のうちに。それがどちらの言葉で、何を意味しようとしてるのかさえ明かされないままに。女の眼差しから、一瞬だけ私は眼をそらした。ハオは想い出した。その、15歳の少女の、いまだに幼さを体中にさらしながら、自分の成熟を隠そうともしない気配のなかで、白い指先に好きなように唇をふれられながら、「…誰もいません。」

彼女は言った。かすかにうごめた唇を、ハオは見つめた。不意に顔を上げて、

だれぃもいますぅぇん

タオのその言葉。ハオは聴いた。自分を見つめながら、それでも、かならずしも眼差しに自分の姿を捉えきっているわけでもない11歳の少女。眼の前の、その、タオ。

一瞬、彼女が何を言ったのかわからなかった。耳にふれたのは、あくまでも未知の言語にすぎなかった。意味など明かに、覚るまでも無く聴き取っていながら。

裏庭に、あるいはその前面道路に、無造作に男たちの死体が散乱していた。《盗賊たち》の肉体の残骸ども。そんな、残酷な風景などその眼差しですでに十分捉えて仕舞っているはずだった。タオが、侵入してきた警官隊の集団の隙間に身を投げて、一斉掃射の轟音を背後に逃げ出して、ここに辿りついたときには、彼女が愛したあの男は自分で頭を打ち抜いていた。すべては、ハオが片付けて仕舞ったあとだった。ふたつめの居間に、死体の群れをまたぎながら入ってきたときに、タオの眼差しにはあからさまな恍惚が浮んでいた。まるで、自分が救済された、その恩寵の時の到来に我を忘れて仕舞ったかのような。

違和感があった。

ハオには、自分を見つめた少女のその眼差しに、…ねぇ。

明日、何食べに行く?

たとえばそんな、当たり障りのない、だれにも赦されているには違いない、どうでもいいふたりだけの秘密の営みの秘密のプランを耳元に、ひそかに思案し始めた、と、そうとしか考えられないタオの声。…もう、と。

「だれもいません」

だれぃもいますぅぇん

もういちど繰り返したタオは、ハオを見つめ続けた。仮に、その違和感が正当だったとして、違和感もなく在り獲るタオの曝すべきだったたたずまいとは、いったいどんなものだったのだろう。タオは、床の上にあお向けて、肌を曝して息遣う女の肢体に、息を飲んだ。…なんて。

なんて、かわいそうな人なの?

同情と哀れみが、タオの眼差しに鮮明に、そして、私はタオを見詰めた。タオは、明らかに、女を歎いていた。…どうして、と。

なぜ、あなたはこんなにも醜く存在できるのだろう?

たわわな、ぶよついた、でたらめに曲線とおうとつを曝す、有機体の残骸のような形態。豊満な、豊満であるよりほかに為すすべもない肉体。

タオは無表情とは言獲なかった。すくなくともハオの眼差しの中では。微笑んでいるとも、歎いているとも、悲しんでいるとも、哀れんでいるとも、なんとも言いきれないやわらかい表情らしきものの息吹をいっぱいに湛えて、そして彼女が自分をだけ見つめている事は知っていた。…何を見てるの?

まばたく。

あなたが、壊したの?…と、ハオは、そう「…そうだね。」想った。君は、その…と。

あなたが、この、**生き物を、…と。

「もう、…」そのやわらかな眼差しで。

あなたが、その手で、…と。

…なにを?「…だれもいませんね。」想う。タオは。…そして。「もっと。…」

あなたが、これ、…と。

ハオは戸惑っていた。「もっと、」かすかに「…ね?」その、タオの眼差し。

この、あまりにも不細工な、***肉のかたまり。…と。

むしろ、かすかに「誰もいなくなります。」微笑んでいたような。…まさか。

あなたが?…「俺が、」と、そうとは、私は言わなかった。むしろ。

と、彼は「…もっと。」想っていた。微笑んでなどいない。彼女は。

もっと、あなたは好き放題に自分を曝け出して仕舞えばいい。

沈黙。それがそこに存在する。饒舌なタオの眼差しの向うで、あるいは、無言の彼女の半開きの唇を見上げながら、女を抱いてやった直後の私が曝していたのは、ただの、あからさまな、為すすべもない沈黙。

もっと。

彼女は、もっと、…と「絶望的かつ無慈悲なまでに、…ね?」あるいは、泣き崩れるその「…私がぜんぶ」寸前のような、そんな。

「皆殺しにしますから。」そう言った、ハオの声を、少女が聴いているのかどうか、ハオには自信がなかった。いずれにしても、ハオはそのまばたきもしない恍惚とした眼差しの許に、スマートホンでメッセージを送った。

All you need is love

…やれ。と。

時は来た。遣って仕舞え、と、その合い言葉をLine上でいま、確認した各部隊の指導者たちは、彼らに命じたに違いない。核弾頭の発射を。既読数が無様なほどに一気にカウントされて行って、そしてハオはスマートホンを壁に投げつけた。その空気を罅割れさせた音響が、静かな室内に響いた。その一瞬の短く硬い騒音が、怒号飛び交う現場の喧騒を聴いていた気がしていたハオの妄想をたんなる妄想として嘲笑った。