4月 居候と個性と家族の話。
「ねぇねぇ、あさぴょん、なんか荷物届いたよ!」
懐かしようなそうでもないような聞き覚えのある声で目が覚めた。
あぁ、そうだ今月は居候がいたんだ、馴染みすぎていてすっかり忘れていた。
東京から定期的に我が家にやってくる彼女は陶芸家で、縁あって今年の夏に飛騨に移住してくることになった。今回の滞在の目的はその為の家探しだ。
「縁は異なもの味なもの」と言うけれど、まさにその通りで「事実は小説よりも奇なり」とも言うけれど、まさにそんな感じで、まぁなんというか話せば長くなる色々なことがあって彼女は飛騨で暮らすことになる。
彼女に限らず、僕らはいつも来るものは拒まないし去る者は追わない。
対人関係についてそれなりに寂しい想いをしてきたし、悲しい想いをしたことも思い返せば多分それなりにはあるのだろうけど、思い出しても辛くなるだけだから思い出さないようにしてる。
自分の気持ちもうまく伝えられないような僕らが、他者の気持ちが分かるなんてことは有り得ないし、それを寂しいことだとは思わない。見えもしない過去や嘘に怯えるよりは、目の前のその人が見せる表情や、口にする言葉を味わいたい。だから事実ということに対してほとほと興味が湧かない、どこかで歪んだ考えや記憶があるならその「歪み」こそ、その人の個性ではないのだろうか。
ひとは分かり合えないからこそ側に居られる。
違うからこそ愛おしいのだ。
そういえば最近「個性」ということが気になっている。
どうも巷では個性が大切と口では言いながら、どんどん均一で効率のよく量産できる「個性的モデル」を作る方向へ進んでいる気がする。それはなんかちょっとおかしいんじゃないかと思う。
微妙に脚色された昔話や、壮絶なる勘違いが招いた予想外の結末。人生の喜怒哀楽のほとんどはそういう機微な働きが生み出すものだろう、だとしたら個性もまた、そういうちょっとしたボタンの掛け違えみたいなことが後々になって大きな才能となって「見える化」しただけのものであって、大切なのはボタンを掛け違えたことくらいでワーキャー騒がないおおらかな社会なのではないだろうか。みんなでボタンを掛け違えましょう!それが個性です!とか言われたらたまったもんじゃない。
そんなこんなで時たま居候がいたり、たまたま訪ねてきた画家の友人が泊まったりしているを見て知人に‥
「住み開きとアーティストインレジデンスの実践ですね!」
そんな風に言われた。あぁ‥そうかこれがそうなんだと思った。
やってることが自然とそうなっていたことと、それをやろうと思って行うのは全然違う。
願わくば僕は前者でいられたらと願う。
自分たちの生活に中に他者がいることはストレスにもなるけれど、気がつけることもたくさんある。考えてみたら僕らはどこで“家族”と“他者”を線引きしているのだろう?妻だって元々は他人だった。それがいつの間にか“家族”になっている。
“やってることが自然とそうなっていたことと、それをやろうと思って行うのは全然違う”
家族もそれと同じことだ、今改めてそう思った。
家族だけじゃない、個性も同じだと思う。
そして、それを育むために必要な栄養はそんなに高価でも珍しいものでもない。
違いを愛おしいと感じる心。
ただそれだけがあれば、めんどくさいことばっかり言う居候の存在も、個性を認めようとはしない社会も、つまらないことで腹をたてて二日間まともに口を聞いてない妻とだって、明日にはすっかり愛おしいと思えるようになるはずなのだ。