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筧克彦『皇国憲法大旨』【昭和11年小冊子復刻附注釈】①序説。《大日本帝国憲法上諭》《国体明徴声明》及び《国体の本義》

2019.04.30 23:37



…或は亡き、『大日本帝国』の為のパヴァーヌ。その1



筧克彦『皇国憲法大旨』ヲ以下ニ復刻ス。


皇国憲法大旨

筧 克彦


[復刻及注釈亦資料附ス。奥附ケ等無シ。]





凡例。

[註]及ビ[語註]ハ注記也。

[]内平仮名ハ原文儘ルビ也。

[※]ハ追加シテ訓ジ又語意ヲ附ス。

底本ハ国会図書館デジタル版也。

同館書誌ニ昭和11年刊ト在リ。其レ以外未詳。

出版社、出版年月日等原書ニハ無シ。

蓋シ配布資料トシテ作成シタ小冊子ノ如キ文書乎。


[注記。乃至序説。

筧克彦即チかけいかつひこハ1872年12月28日(明治5年11月28日是陰暦也)筑摩県諏訪郡上諏訪(現長野県諏訪市)ニ生、没年ハ1961年(昭和36年)2月27日、東京帝国大学教授等。

天皇機関説(美濃部達吉等学説ニ端ヲ発ス。美濃部ハ筧ノ学友也。此ノ人1873年(明治6年)5月7日生、1948年(昭和23年)5月23日没。)ニ対抗シ主導権ヲ握ル国体明徴論乃至国体明徴運動ノ一翼ヲ担ウ。美濃部モ筧モ法学者ニシテ、両論本来『大日本帝国憲法』解釈論也。

天皇機関説論客ハ美濃部以下、一木喜徳郎、浅井清、金森徳次郎、渡辺錠太郎、中島重、田畑忍等。但シ許ヨリ或ル統一イデオロギーノ如キ者ニハ非ズ。

対シテ所謂天皇主権説ハ穂積八束(大学教エ子ニ北一輝在リ。)、上杉慎吉等。尤モ主流派ニシテ美濃部等以外ハ基本的ニ悉ク是也。筧モ茲ニ属ス。

詳細ハ以下資料ヲ列挙ス。

国体明徴に関する政府声明』1935年8月3日 (所謂第一次国体明徴声明)ハ以下ノ如シ。

《恭しく惟[※かんが]みるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示[※しょうじ。明示スルノ意也。]せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆[※ほうそのさかえ]は天地と倶に窮なし[※あまつちとともにきわまりなし。註1]。されば憲法發布の御上諭[※じょうゆ。註2]に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ』と宣ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼[※げん。儼然トシテ。]として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關[註3]なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆[※あやま]るものなり。近時憲法學説を繞り[※めぐり]國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔[※まこと]に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴[※めいちょう。顕カナル証拠、根拠、論拠ノ意也。]に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。乃ち茲[※ここ]に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。》

[註1。寶祚の隆は天地と倶に窮なし。是定型句也。『書紀』ニ《葦原千五百秋瑞穂之国是吾子孫可王之地也宜爾皇孫就而治焉行矣宝祚之隆当与天壌無窮者矣》即チ《葦原の千五百秋[ちいほあきの]瑞穂之国は是れ吾が子孫王のたる可き地也。宜爾皇孫[なむぢすめみま]就きて是を治めよ。幸く坐せ。宝祚の隆え天地と共に窮まり無なるべし。》]

[註2。大日本帝國憲法ノ上諭ハ以下ノ如シ。

上諭

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ[※ふみ。帝位ニ就キノ意也。]朕カ親愛スル所ノ臣民ハ卽チ朕カ祖宗ノ惠撫慈養[※けいぶじよう。恵ミヲ以テ育クミ慈シミヲ以テ養ッタ等ノ意也。]シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念[※おも]ヒ其ノ康福ヲ增進シ其ノ懿德良能[※いとくりょうのう。懿德ハ立派ナ徳、良能ハ生得ノ善性ノ意。他ニ用法良知良能等。懿德ハ神代(四代)天皇ノ名ニモ在リ。]ヲ發達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊[※よくさん。威力ヲ以テ支エル。因ミニ大政翼贊會即チたいせいよくさんかいハ1940年(昭和15年)10月12日カラ1945年(昭和20年)6月13日迄。本土決戦ニ備エタル国民総動員ノ国民義勇隊ノ結成の1945年(昭和20年)3月ニ依リ解消。]ニ依リ與ニ[※ともに]俱ニ[※ともに]國家ノ進運ヲ扶持[※ふち。助ケ扶助スル及ビ領主ガ臣下領民ニ施ス意モ在リ。]セムコトヲ望ミ乃チ[※すなわち]明治十四年十月十二日ノ詔命[※しょうめい乃至みことのり]ヲ履踐[※りせん。実施スノ意。北村透谷生年1868年(明治元年)11月16日是旧暦(12月29日)没年1894年(明治27年)5月16日ニ《桃青は履踐し馬琴は観念せり》ノ用例在リ。]シ玆ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由[※そつゆう。道ヲ作リ道カラ外レナイヨウニ率イ導クノ意也。]スル所ヲ示シ朕カ後嗣[※こうし乃至あとつぎ等。]及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行[※じゅんこう。服シ随イ追随スルノ意。]スル所ヲ知ラシム

國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ[※したがい]之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ[※誤らざるべし。]

朕ハ我カ臣民ノ權利及財產ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範圍內ニ於テ其ノ享有[※きょうゆう。生得シテイルノ意。基本人権ハ全国民ニ享有サレル等用イル。]ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス

帝國議會ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議會開會ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ

將來若[※もし]此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外[※ほか]朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更[※ふんこう。無秩序ニ改悪スルノ意也。]ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ

朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ

引用以上。]

[註3。天皇機関説。美濃部達吉等学説ニ依ル。曰ク国家ハ機関トシテ働キ天皇ハ其ノ最高機関デ在リ国体ノ主権者ハ国家其ノ者ニシテ天皇ハ大臣ノ輔弼[ほひつ。補助、助言。]ニ従ッテ是ヲ運営スルト。法学者ニ依ル憲法解釈也。対スルハ天皇主権説也。是『国体の本義』1937年(昭和12年)参照。所謂国体明徴運動ヲ受ケテ美濃部達吉ノ『憲法撮要』有斐閣、1923年及ビ『逐条憲法精義』同、1927年及ビ『日本憲法の基本主義』日本評論社、1935年ニ発禁処分更ニ『現代憲政評論』日本評論社、1930年及ビ『議会政治の検討』日本評論社、1934年改訂命令下ル。是1935年(昭和10年)也。

以下美濃部略歴。

1924年(大正13年)6月東京帝国大学法学部長。10月、九州帝国大学教授兼任法文学部勤務。高等官一等。

1925年(大正14年)11月従三位。

1926年(大正15年)4月図書復興委員会委員。

1927年(昭和2年)6月東京帝国大学法学部長辞任(依願免職)。10月九州帝国大学教授兼務辞任する(依願免職)。

1928年(昭和3年)4月旭日重光章。11月大礼記念章賜授。

1929年(昭和4年)5月法制審議会委員。9月行政裁判法及訴願法改正委員会委員。

1930年(昭和5年)1月衆議院議員選挙改正審議会委員。

1932年(昭和7年)5月貴族院議員。10月昭和五年国勢調査記念章賜授。

1933年(昭和8年)1月勲一等。瑞宝章賜授。

1934年(昭和9年)3月満州国建国功労章。依願免本官並びに兼官。4月正三位。金杯一箇ヲ賜授。5月勅任官待遇。6月東京帝国大学名誉教授。

1935年(昭和10年)此ノ年前後国体明徴運動。3月東京商科大学兼任教授退任。9月貴族院議員を辞任する(依願免職)。]

国体明徴に関する政府声明』1935年10月15日 (所謂第二次国体明徴声明)ハ以下ノ如シ。

《曩[※さき]に政府は國體の本義に關し所信を披瀝し[註。第一次国体明徴声明]、以て國民の嚮[※むか]ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭[註。是上記。]竝[※ならびに]條章の精神、亦此處に存するものと拝察[※はいさつ。察スルノ敬語也。]す。然るに漫り[※みだり]に外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖[※もと]り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴[※厳]に之を芟除[※さんじょ。排除。刈リ取ルノ意也。]せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明[※せんめい。不明瞭ナリシヲ顕カニスルノ意也。]し、以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。》

以下『国体の本義』一部引用ス。

国体の本義

一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作[※かんよう。湧キ水ノ生植物ヲ育テル如クニ育ミ育テルノ意。しんさく。奮起サセルノ意。]すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。

一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。

目次

 緒言

第一 大日本国体

 一、肇国

 二、聖徳

 三、臣節

 四、和と「まこと」

第二 国史に於ける国体の顕現

 一、国史を一貫する精神

 二、国土と国民生活

 三、国民性

 四、祭祀と道徳

 五、国民文化

 六、政治・経済・軍事

結語

緒言

 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神[かむながら]の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民[みたみ]吾生ける験[しるし]あり天地の栄ゆる時にあへらく念[おも]へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業[※こうぎょう。偉業ノ意也。]により、旧来の陋習[※ろうしゅう。旧習悪習ノ意也。]を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし[※つくし]、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。

 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕[※くんゆう。良悪両面]を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。

 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り[はしり]、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。

 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃[※ほうわい。激流ノ如ク涌キ起コルノ意也。]たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡[※いび。萎エ萎ビルノ意也。]せしめる惧[※おそ]れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発[※かんぱつ。全国民ニ普ク公布スノ意也。又『教育勅語』ハ後述。]せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟[※きし]の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入[註1]を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起[※じゃっき。引キ起コスノ異也。]し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。

 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等[註2。]の詭激[※きげき。常軌ヲ逸シテ過激ノ意也。]なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭[※たいとう]ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く[※しばらく]措[※お]き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋[※ころう。因習ニ捉ワレテ頑迷ノ意也。]を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国[※ちょうこく。国ヲ起シ始メル。即チ建国ノ意。]の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。

[註1。ベニト・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)ハ生年1883年(明治16年)7月29日 、没年1945年4月28日。国家ファシスト党(Partito Nazionale Fascista/PNF)ハ1921年(大正10年)11月9日創立1943年(昭和18年)7月27日解散。国会図書館デジタル版デ検索スレバ、戦中戦前ノ小児向ケ偉人傳ノ類ニ現代ノ偉人トシテ掲載サレテ在ル事、散見サレル。

狭義ニファシズムfascismoハ是ベニト・ムッソリーニ体制ヲ謂ウ。所謂大日本帝国ハ万世一系神話ヲ基幹トシ、必ズシモ是等ト一致ハシ無イ。ナチズムノ第三帝国ノ謂イヲ鑑ミルニ、独逸ナチズムハ民族中興運動トモ見獲、其ノ限リニ於テハ明治維新モ皇道中興運動デ在ッタ事実ニ関シ相等スルトモ言獲ル。又北一輝ハ明治維新ヲ革命ト捉エ、大日本帝国ヲ既ニ成ッタ社会主義ト国家ト看做シ、故ニ是ヲ幼児的国家社会主義体制ト見ル(『國體論及び純正社會主義』1906年(明治39年)5月9日)。]

[註2。カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx)ハ生年1818年(文化15年/文政元年4月22日)5月5日、没年1883年(明治16年)3月14日)

フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)ハ生年1820年(文政3年)11月28日、没年1895年(明治28年)8月5日)

『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei)或ハ『共産主義者宣言』(Das Kommunistische Manifest)ハ1848年(弘化5年、嘉永元年2月28日)

此ノ書ノ翻訳ハ以下(主要ナル一部ノミ掲載)。

「共産党宣言」幸徳秋水、堺利彦翻訳。『平民新聞』第53号1904年(明治37年)11月。

『共産党宣言』内務省警保局翻訳。外事警察研究資料第13集1925年(大正14年)。

所謂大逆事件ハ孝徳事件ガ1910年(明治43年)5月25日(検挙開始)、1911年1月18日24名、1月24日11名、1月25日ニ1名死刑執行。幸徳秋水ハ生年1871年(4年)9月23日是旧暦(11月5日)、1911年(明治44年)1月24日刑死。

又、孝徳事件論告ニ端ヲ発ス南北朝正閏論即チなんぼくちょうせいじゅんろんノ活発化在リ。南北朝時代ハ1336年自リ1392年ニ至リ即チ後醍醐天皇(南朝。北畠親房『神皇正統記』ハ此ノ南朝ノ正統性ヲ謳ウ理論的史書也。)自リ後亀山天皇ノ北朝第六代後小松天皇ヘノ譲位即チ所謂明徳ノ和約迄ノ時期也。鎌倉幕府崩壊後ノ建武ノ新政乃至建武ノ中興謂ハバ建武維新ノ崩壊ニ伴ウ足利尊氏ノ蜂起及ビ光明天皇擁立ニ端ヲ発スル。尊氏政権ヲ所謂北朝ト謂ヘリ。北朝優勢。南朝ハ吉野ニ堕チル。そもそも天皇ニ二系統発生シタル起リハ後嵯峨天皇(1220年(承久2年)2月26日是旧暦(4月1日)自リ1272年(文永9年)2月17日是旧暦(3月17日)。)カラノ血統ニ三子在ラセラレ、御長子ニハ宗尊親王ガ鎌倉六代将軍、御次ニ後深草天皇ハ八九代天皇ニシテ此ノ血統ヲ持明院統ト謂イ後ノ北朝、御次ニ亀山天皇ハ九〇代天皇ニシテ大覚寺統ト謂イ後ノ南朝也。

南北朝時代神器ハ大覚寺統ニ在リ。『神皇正統記』神器所有者ノ天照太神ノ天祖直系天孫タル証明デ在ル所以論理詳細述ベテ在リ。南朝劣勢ノ末1392年(南朝元中9年、北朝明徳3年)10月ニ明徳ノ和約ニ基キ5日ニ神器北朝ニ渡シテ後亀山天皇即チごかめやまてんのう(1350年(正平5年)自リ1424年(応永31年)4月12日是旧暦(5月10日))退位。其ノ嫡子小倉宮恒敦ハ北朝ニ抵抗、1443年(嘉吉3年)9月23日是旧暦(10月16日)禁闕即チきんけつノ変ニ神器八尺瓊勾玉奪還。北朝ハ南朝皇胤尊秀王即チ自天王及ビ後南朝征夷大将軍忠義王ヲ討ッテ是ヲ奪還。是所謂長禄即チちょうろくノ変。1457年(長禄元年)12月2日是旧暦(12月18日)。尊秀王ハ此ノ時斬首。大覚寺統滅亡。仮ニ天祖正統ヲ以テ『神皇正統記』的皇統論ニ基キ論ジルナラバ北朝方天皇ハ不当也ノ論モ成立シ獲ベシ。尊秀王即チたかひでおう御生年1440年(永享12年)ニシテ生月日未詳。1457年(長禄元年)12月2日是旧暦(12月18日)ニ身罷ル。

虎ノ門事件ガ1923年(大正12年)12月27日。是東京市麹町区虎ノ門外ニ皇太子ニ在ラセラレタ摂政宮裕仁親王即チ後ニ即位サレテ昭和天皇ガ無政府主義者難波大助(1899年(明治32年)11月7日生、1924年(大正13年)11月15日刑死)ヨリ狙撃サレタル暗殺未遂事件。法廷最終陳述ニ本人曰ク《皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。》ト。

朴烈事件即チぼくれつじけんハ1923年に逮捕サレシ朝鮮人無政府主義者朴烈及ビ其ノ内縁ノ妻)金子文子ノ皇室暗殺計画ノ発覚。別称ニ朴烈文子事件。

櫻田門事件即チさくらだもんじけんハ1932年(昭和7年)1月8日昭和天皇襲撃暗殺未遂事件。犯人ハ朝鮮出身者李奉昌(1900年(明治33年)8月10日生、1932年(昭和7年)10月10日刑死)。御料馬車ニ手榴弾投擲。目的誤認ニ因ル誤爆ノ為未遂ニ終ル。別称ニ李奉昌大逆事件。]