『あなたへの社会構成主義』(著:ケネス・J・ガーゲン、訳:東村知子、ナカニシヤ出版、2004年)
私たちは、よく「優れた教育のおかげで」といいます。しかし実際には、大部分の人々が経験した「学校教育」は、必ずしも幸せなものではなかったかもしれません。多くの人々にとって、学校での経験は、失敗への恐怖、競争に対する憂慮、耐えがたい退屈に満ちています。
さて、皆さんにとっての学校教育のイメージは、どのようなものだろうか。ガーゲンは先のように述べ、「こうした悲惨な経験の原因」として、ⅰ)「無知な生徒を知的に変えるー生徒の誤った考えや信念などを、確固とした事実や論理的な推論で置き換えるーことであるという前提」、ⅱ)「教育によって、一人一人の生徒の心をよりよいものにしていかなければならない」という前提、およびそれに付随する形で伴う「生徒の心に『事実』をしっかり身につけさせるー『知識を心(頭)の中に蓄えさせる』ーためには、頻繁に評価を行うことが重要」であるという価値観の2つをあげている。つまり、人間は生まれながらにして白紙・無知であり、「頭(心)」の外側に存在する普遍的・絶対的な「正解」「事実」を蓄えることで「個」としての人間が成長するという価値観が「失敗への恐怖、競争に対する憂慮、耐えがたい退屈」を生み出してしまっているというのである。
しかし、現実の社会の場においては人間が独りで存在することなどまず有り得ず、「特定の共同体を超えて、普遍的にあてはまるような『唯一の正しい答え』などない」。では、どのようにして「独語(モノローグ)」的な教育、「個」の発達観を超えて、「対話(ダイアローグ)」的な教育や「関係」的な発達観、「共同構成」によって生まれゆくものに光を当てることができるのか…。この本には、そのようなことを考えるきっかけが詰まっているように思う。
この本と関連して、イタリアのレッジョ・エミリアへ研修に行った際に学んだ「diritti(権利)」観について紹介したい。レッジョ・エミリア市にある市立の幼児学校には、「diritti」と書かれた看板が掲げられている。さて、日本で「権利」と聞くと、どのようなイメージを描くだろうか。私は真っ先に「権利を行使する前に、義務を果たせ」という言葉が浮かび、次いで、予め条文化されており、それに基づいて各々が「持っている」ものであるというイメージが浮かんできた。しかし、レッジョ・エミリアにおける「diritti」は、見事にこのようなイメージを打ち砕いたのだった。
こちらは、ある幼児学校の入り口に貼られていた「権利」にまつわる掲示である。先生がこどもたちに「自分たちが持っている権利って何だろう?」と問いかけてあがった言葉とのこと。
pensieri…思考する権利
liberta…自由になる権利
desideri…意思を持つ権利
amichi…友だちと仲良くする権利
sentimenti…感情を持つ権利
giocare…遊ぶ権利
ちなみに他の幼児学校では「外に出る権利」「外で遊ぶ権利」「楽しくなる権利」「つまらなくなる権利」などがあがったようだ。つまり、「diritti」とは、「義務」の報酬として与えられるものでも、「こういう権利を持っている」と固定化・普遍化されたものでもなく、1人ひとりが想像・創造していくものなのである。
当然、各々の「diritti」は異なる。時には対立することもあるだろう。では、「多様性」について、どのように考えられているのだろうか。以下、「『diritti』とは何か?日本だと『権利が欲しければ、まず義務を果たせ』という考え方もあるが…」という私の愚問に対する、レッジョ・エミリアの先生(ベテランのペタゴジスタ(教育専門家))の言葉である。
「レッジョ・エミリアの幼児教育の創始者である、ローリス・マラグッツィは、〝こどもの権利〟〝先生の権利〟〝親の権利〟を常に考えていた。そして、それぞれの立場からそれぞれの権利を伝える権利があると話していた。権利を伝えること…それは〝戦う〟ことではなく〝分かち合う〟こと。『私たちは、こういう権利があるよ』と伝えること。こどもの権利とは、例えば「おしめを替える」「ご飯をもらう」などの生存に関わることではない。こどもたちには、探求する・学ぶ権利がある。こどもたちには、『あなたたちにとっての権利とは何だろう?』と毎年問いかけている。表現し、分かち合い、聴き、受け止められる…権利を伝えるということは、相互的なものでなくてはならない。」
「対立し合う人々が、まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図に加わる瞬間ー対話における想像的な瞬間ー」は、「人々が共に現実を構成していく種をまくだけでなく、人々の目を戦いではなく協力へと向けさせ」るとガーゲンは述べる。そして、「人々は共通の目標に向かって協力する中で、他者を『私たち』として定義し直す」のだと続ける。「diritti」を伝え合うこと、そして聴き合うこと。それは、個人の「diritti」を持ち寄り(「絶対的」「普遍的」ではなく、あくまでその時・その集団・その文脈における)集団の「diritti」を構成していくだけでなく、「異なる『diritti』を持つ相手」から、共に生きる「私たち」へという新たな他者観をももたらすのである。
長くなってしまったが、上記の「diritti」についての事例は、ガーゲンが本書で提起している、普遍的・絶対的〝ではない〟ものを基軸に据え、白紙〝ではない〟人々が集い、それぞれの特異性を持ち寄りながら、「個」〝ではない〟成長をしていくような関係性と重なるように思い、記載した。
さて、この本のタイトルには「あなたへの」という言葉が含まれている。これは他でもない「あなた」である。社会構成主義とは何か、そしてどのように教育現場をはじめとした実際の社会の中で生かしていくのか…。1人ひとりが考え、多様な視点や感性を持ち寄り、対話し、問い直し…という終わりのない探求を繰り返す仲間が増えていったとき、冒頭に述べた「失敗への恐怖、競争に対する憂慮、耐えがたい退屈」に満ちた学校教育は、新たなものへと姿を変えていくのではないだろうか。(ゆーだい)