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筧克彦『皇国憲法大旨』【昭和11年小冊子復刻附注釈】③本論。《大日本帝国憲法》神道的解釈

2019.05.02 23:07



…或は亡き、『大日本帝国』の為のパヴァーヌ。その1



筧克彦『皇国憲法大旨』ヲ以下ニ復刻ス。


皇国憲法大旨

筧 克彦


[復刻及注釈亦資料附ス。奥附ケ等無シ。]





凡例。

[註]及ビ[語註]ハ注記也。

[]内平仮名ハ原文儘ルビ也。

[※]ハ追加シテ訓ジ又語意ヲ附ス。

底本ハ国会図書館デジタル版也。

同館書誌ニ昭和11年刊ト在リ。其レ以外未詳。

出版社、出版年月日等原書ニハ無シ。

蓋シ配布資料トシテ作成シタ小冊子ノ如キ文書乎。


筧克彦ノ賜ル栄典ハ下記ノ如シ。

1913年(大正2年)1月30日 正五位

1918年(大正7年)2月20日 従四位

1923年(大正12年)5月10日 正四位

1925年(大正14年)1月27日 勲二等瑞宝章

1928年(昭和3年)5月17日 従三位

著書ハ以下ノ如シ。

『佛教哲理』有斐閣、1911年

『法理戯論』有斐閣、1911年

『古神道大義 皇国の根柢万邦の精華』清水書店、上巻1912年、下巻1915年/筧克彦博士著作刊行会、立花書房刊、1958年

『国家の研究』清水書店、1913年。春陽堂版、1931年。

『西洋哲理 上巻』有斐閣版、1913年、清水書店版、1920年。

『続古神道大義』清水書店、1914年

『御即位禮勅語と國民の覚悟』清水書店、1916年

『風俗習慣と神ながらの実習』清水書店、1918年/春陽堂書店、1929年。

『皇国神典至要鈔』清水書店、1918年

『皇国行政法 (上)』清水書店、1920年

『謡曲放下僧及墨付論』清水書店、1920年

『神あそびやまとばたらき』蘆田書店、1924年

『神ながらの道』内務省神社局 1925年。「神ながらの道」同刊行委員会 1992年

『日本體操』筧克彦博士著作刊行会、1929年

『皇国精神講話』春陽堂書店、初版1930年、改訂版1937年

『皇国運動』博文館、1934年

『大日本帝国憲法の根本義』皇學會、1936年/岩波書店、1943年 

『小石の響』弥栄会、1956年。小冊子、読みは「さざれのひびき」

『偉聖 菅原道真公』 筧克彦先生米寿祝賀会、1959年

『謡曲「翁」の精神』筧克彦博士著作刊行会、1961年/以下は遺著。筧泰彦編

『大正の皇后宮御歌謹釈 貞明皇后と神ながらの御信仰』 筧克彦博士著作刊行会、立花書房、1961年

『皇学図録』立花書房、1961年



皇国憲法大旨

筧 克彦



     おほむね五つ

  神ながらのこころ[註1]

我が憲法は 皇祖様 皇宗様の御遺訓を明徴になし給ひたるもの[註2]で、「まこと」を以てのみ之を正解し得しめ完全に運用し得しむる。「まこと」とは皇国に在つては極めて具体的のもので、齋神・尊皇・愛国の二なく、三なき心である。神と君と国とが歴史上隔歴するものとして立ちつゝある諸国に於ては、神はドグマの信奉と分つべからず、君は権勢を領有する俗人(独立単純人[※註3])に外ならずして、国は国民の集団以上に出でぬ。故に是等の国に於ては、敬神も愛国も必しも尊王ならず、尊王も愛国も必しも敬神とはならず、敬神も尊王も必しも愛国とは同じくない。しかのみならず、敬神・尊王・愛国の一つ一つも純真・宏大・永遠たり難き憾が在る。皇国に於ては、神ながらの一つ心である。即ち、吾人生来の一心にして彌々純真にして益々徹底せしめ更に更に拡張すべき永遠の心である。

[註1。神ながらハ惟神乃至随神即チ神ガ神ソノモノトシテ坐ス…、等々。]

[註2。大日本帝國憲法告文ハ下ノ如シ。

大日本帝國憲法

告文

皇朕レ謹ミ畏ミ

皇祖

皇宗ノ神靈ニ誥[※つ]ケ白[※まを]サク[※詔シテ告白スノ意也。]皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循[※したが]ヒ惟神[※かんながら]ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖[※きゅうず。旧図、古イ計画]ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ[※あたり。胸ニ受ケテ]人文ノ發達ニ隨ヒ[※従い]宜ク[※よろしく]

皇祖

皇宗ノ遺訓ヲ明徵ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ內ハ以テ子孫ノ率由[※そつゆう。継承スルノ意也。]スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊[※よくさん。相一致シテ上ヲ助ケルノ意也。]ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行[※じゅんぎょう乃至じゅんこう。敬シテ忠実ニ服スノ意也。]セシメ益〻國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ增進スヘシ玆ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ[※おもうに]此レ皆

皇祖

皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル[※のこしたまえる乃至おくりたまえる]統治ノ洪範[※こうはん。天地ノ道義道理ノ原則。語源ハ『書経』。洪ハ大、範ハ規範ノ意ニシテ天下統治ノ大法ノ書。五行、五事、八政、五紀、皇極、三徳、稽疑、庶徴、五福・六極ヲ以テ洪範九疇ト謂ウ。以上『世界大百科事典第2版』]ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ[※及んで]時ト俱[※とも]ニ擧行スルコトヲ得ルハ洵[※まこと]ニ

皇祖

皇宗及我カ

皇考[※是先皇ヲ指ス謂イ。]ノ威靈ニ倚藉[※いしゃ。頼ルノ意也。]スルニ由[※よ]ラサルハ無シ皇朕レ仰テ

皇祖

皇宗及

皇考ノ神祐[※しんゆう。天佑。]ヲ禱リ倂[※あわ]セテ朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆[※誤]ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ[※希わくば]

神靈此レヲ鑒ミタマヘ[※鑑み給え]

引用以上。]

[註3。独立、表現、表現関係等ハ筧ノ理論用語也。同一ニシテ同ジモノトシテ在ル事ヲ表現関係ト謂イ、夫々ガ特異的ニ在ル事ヲ独立ト謂ウ。独立シテ特異デ在ル限リ其レハ単純ナ存在デ在リ離合集散ヲ繰リ返スノハ寧ロ其ノ本性デ在ル、云々。喩エバ人体ハ細胞ノ集合体デ在ルガ、人格トシテ看做シ獲ルノハ飽クマデ其ノ固有ノ人体一個ニ他ナラ無イ。故ニ細胞ノ一個ニ如何ナル特異性モ認メラレ獲ズ、其レ等ハ人格ノ最終単位タル一個人体ニ差異無ク同一デ在ル。トハ謂エ一個人単独デ生活ガ成立筈モ無ク、国家ヲ以テ一人格ト看做スナラバ、国家ノミガ人格ノ最小単位ニシテ、其ノ人格者ハ天皇デ在ラセラレル、ト。後ニ詳細論ジラレル。国体論論拠ノ骨子ハ北一輝『國體論及び純正社會主義(1906年(明治39年)5月9日公刊、5日後発禁処分)』ト必ズシモ変ラズ。]


  ことあげせぬこころ[註]

事物の「實」(正味)は一つである。其の一つの「實」は凝固せるものではなく生き生きせるもので、自由自在に各方面に伸縮しつゝある。此の實に対する観念は数多在り得、其の中の一観念と雖も、之を言ひ表はす段になれば又更に種々の言ひ表はし方があり得る。観念に拘はりて、故なく生き生きせる「實」を限局したり、又は言ひ表はしの型に執はれて、無闇に観念夫自身を矯めたり曲げたりするのは本末の顛倒である。憲法の根本義はことあげを本とせず神ながらを旨とすべきことを忘れてはならぬ。

[註。柿本人麻呂ニ《葦原の瑞穂の國は神ながら言擧げせぬ國》ト在リ。事挙ゲハ言葉ニ依テ謂イ抜ク事、乃至言イ当テル事、或ハ規定シ解釈スル事。等々。神道ノ本義ニ於テハ言挙ゲスル事ヲ忌ム。理解困難ナ部分ハ在レドモ、量子力学ノ観測問題ニ即シテ理解スレバ逆ニ理解ハタ易イ。所謂シュレーディンガーSchrödingeノ猫ノ生死ノ観測ハ言挙ゲデ在リ、重ネ合ワサレテ在ルノガ言挙ゲセズ在ル即チ惟神ノ状態也。尤モ是極論也。]


 三 徳と力と二つならぬこと

皇国に於ては、徳と力が徒らに加へ合されて居るだけでもなく総合されつゝあるだけでもない。實に神ながらに、道徳と法律と権力とが夫等の根本に於て一に帰し、相互の差異は第二段以下の運用上の事である。天皇様は是等の生活一切の帰一する大本者にいまし、統治の大権は古今を通じ上下に普き神ながらの一心・一徳・一大生命と不二の御威力である。徳を一にし生命を一にする性質の威力は、私有の目的ともならず、対立抗争束縛を本旨とするものでもない。皇国神ながらの御主人様、御親族様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。


 四 「みこと」より出でて彌々「みこと」たるに油断なかるべきこと

皇国の憲法は表現法である。表現法とは、各人が神代ながらに具体的に己を超越して生活する所以を如何にせば彌々益々徹底し得るかの根本規律である。凡そ日本人各自といふ者は個々特殊の肉体を有する者なれども、其の肉体の独立に拘泥せず肉体を通して其の中に、各人を超越する皇国即神国といふ普遍的大生命を実現しつゝある者をいふ。皇国神国たる普遍的大生命其の儘と離れ得ざる各人を「みこと」といひ、「まろ」(麻呂)と申し、之を表現単純人と称へる。表現単純人は具体的なる普遍的大生命(ただ天地とか宇宙とか申すが如き絶対なるものでなく、取りとめのある大生命たる皇国をいふ)と二つならぬ肉体人をいひ、表現単純人を運用すべき方面を独立の存在と観て独立肉体人(独立単純人)といふ。西洋近世の思想に於て個人といひ自我といふものは必ず此の独立肉体人に限り、独立肉体人を以て有らゆる生活の本となし實となし、超越生活を以て此の個人の私益乃至安心立命の方便と観て居る。斯くの如きは西洋思想の長所ではなく、顕著なる拘泥であり、明白なる誤解であり、人生の進展を阻害しつゝある根本原因である。


 五 本と末との分を以て始とする

皇国の憲法は表現法である。表現の要は本末の分に始まる。生命に本末を立することが己を超越する所以であり、己を超越する所に本末の分は当然顕れ彌々完きを致すのである。齋神・尊皇・愛国は、實に表現心(超越心。没我心即拡我の心)にして、本末も分に處る心であり、表現心といふ表現心は、此の本より発して載極の人に點孁せられる。本は結局一つであり、表現心の點孁は此の一本より発する。「すめらみこと様」は「みこと」といふ「みこと」の大本者といまし、親といふ親の総親にいまし、総主人様とまします。夫と共に「すめらみこと様」を仰ぎ、「すめらみこと様」に捧げ奉るにより生れ付きとせる御民はすべて「みこと」である。「すめらみこと様」の彌栄に齋き奉るにより彌々「みこと」として栄ゆべき者が御民であり、御民の彌々「みこと」として栄ゆるは實に益々「すめらみこと様」の彌栄に貢献し奉りつゝある事であり為である。斯の、天晴れなる面白く手伸しく明やけき、目的其の者価値夫自身たる生活を表現生活となし、表現生活は本末を心情其の者に於て示しつゝある神ながらの道の生活である。


  註 表現法といふこと

凡そ事物といへば必ず関係がある、関係を捨て去りて唯事物といふものはない。関係の極には同中の同があり、本来の同一である。之を関係としては表現関係といふ。表現法は此の表現関係を分析する所に見得る法である。

表現法は神ながらの道の中の根本の道であり、公法私法の如きは表現法を根拠として存在する道に外ならぬ。然るを独立肉体生活に滞める外国の流行に追随して、国法を単純に公法私法に両分し、我が憲法を以て公法なりとして満足しつゝあるは、尚全部と部分との対立存在に拘泥し、更に我が根本に進むべき事を忘るゝ者であり、生命に貴重なる不二の消息に親まざる事となる。斯くては我が憲法の純正なる解釈も出来かねる次第である。況んや公法私法の別さへも認めず、或は両者の区別を名目上は認めても、私生活並私法を観念し整理する為の鋳型を持ち来つて、対立握有の思想により我が憲法を解釈せんとするに於てをや。