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粋なカエサル

キリスト教の教え8 イエスの誕生④

2019.05.03 03:23

 マリアとヨセフが暮らしていたのはナザレ。しかしイエスが生まれたのはナザレではない。そこから100キロ以上離れたベツレヘム。なぜか。マリアとヨセフが受胎告知を受けた当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあったが、マリアの出産が間近に迫ったころ、帝国全土に住民登録の勅令が下った。この登録は先祖の地で行わなければならないとされた。ヨセフは貧しい大工だったが先祖をたどればイスラエルの偉大な王ダビデの血を引く名家の出身。そこでダビデ生誕の地ベツレヘムで登録するため、身重のマリアを連れてベツレヘムに向かわなければならなかったのである。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものだったが。

 ところが、登録のために来た旅行者が大勢いたのだろう、ベツレヘムの町の宿はどこも満杯。そんなときマリアが急に産気づき、出産。うまれたばかりの幼子は「飼い葉桶」に寝かされた。そこは「馬小屋」だったとされるが、聖書に記述はない。絵画では牛やロバが一緒にいる家畜小屋として描かれることが多い(まれに洞窟が出産場所として描かれる)が、「飼い葉桶」があったということから,そこが家畜小屋であると考えられたのだろう。いずれにせよ、イエスが生まれた場所は絵画やプレゼピオ(キリスト生誕のジオラマ模型)からは想像しづらいが、悪臭ただようきわめて劣悪な環境だったということは知っておいた方がいい。牛もロバもトイレに行って用を足すことをしないので、全ては足元に垂れ流し。藁や飼い葉桶も、家畜の涎がついていたに違いない。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていたイエスは、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で人間として誕生したのだ。そして、その誕生を神がまず知らせたのは羊飼いたちだった。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(「ルカによる福音書」2章8~12節)

 イエスは「メシア」=「救い主」として誕生したことが告げられる。この「メシア」とはどういう意味か?「メシア」とはヘブライ語の「マーシァハ משיח」で 「油を頭に注がれた者」のこと。そしてダビデ王朝の王様が即位する時に油を注れたことから「油を注がれた者」は同王朝の「王」を意味することが伝統になった。ところが紀元前 500 年代初め、ダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、国民は集団捕虜としてバビロンに連行される。「バビロン捕囚」だ。その後も、ペルシャ帝国の支配、アレクサンダー大王の国の支配、ローマ帝国の支配が続き、ダビデ王朝の国は復活しなかった。その中でユダヤ民族の間に生まれたのが「メシア」待望論。将来 ダビデ家系の王が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家を建設する、という希望だ。だから「メシア」は、「ユダヤ民族を他民族支配から救う民族解放の英雄、王」と理解された。しかし、それなら「メシア」は普通の男女の結びつきから生まれてくる人間でもよかった。「聖霊」によって生まれる「神の子」である必要はない。

 「メシア」については、別の考え方もあったようだ。「イザヤ書」や「ダニエル書」(今の世が終わりを告げるときに、死者の復活が起こり、天地創造の神にふさわしいものは永遠の命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異なる運命をたどることが預言)の終末的な預言を念頭に置いて、「メシア」を「終末の時に神のもとから地上に送られて、神にふさわしい者たちを集めて、彼らを新しく出現する神の国に迎え入れて君臨するという超越的な王」と考える。しかしそのような超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ん坊から始める必要はないだろう。そのまま神聖な恐るべき姿かたちをとって天使の軍勢を従えて天から下ってくればよいではないか。なぜ神そのものの存在であった神のひとり子が、わざわざ人間の形をとって、この世に誕生しなければならかったのか? 

(コレッジョ「幼子イエスを礼拝する聖母」ウフィツィ美術館)

(ジョット「キリスト降誕」スクロヴェーニ礼拝堂)

(ピーテル・ブリューゲル「ベツレヘムの人口調査」ベルギー王立美術館)

(タッデオ・ガッディ「羊飼いへのお告げ」)

(コレッジョ「羊飼いの礼拝(ラ・ノッテ)」ドレスデン国立絵画館)