夏目漱石と20世紀初頭のロンドン1
夏目漱石に興味を持つようになったのはその小説を通してではない。日英同盟について、圧倒的多数の日本人とは異なる見方をしていたことを知ってからだ。日英同盟が締結されたのは、明治35年(1902)1月30日。この時漱石は留学生としてロンドンに滞在していたが、同年3月15日に妻の父中根重一に宛ててこんな書簡を送っているのだ。
「日英同盟以後、欧州諸新聞のこれに対する評論一時は引きもきらざる有様に候ひしが昨今は漸く下火と相成り候ところ、当地在留の日本人ども申合せ林公使斡旋の労を謝するため物品贈与の計画これあり、小生も五円程寄附いたし候。きりつめたる留学費中ままかくのごとき臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却いたし候。新聞電報欄にて承知いたし候がこの同盟事件の後本国にては非常に騒ぎをり候よし、かくの如き事に騒ぎ候はあたかも貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん。固より今日国際上の事は同義よりも利益を主にいたしをり候へば前者の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは妥当ならざるやの観もこれあるべくと候へども、これ位の事に満足いたし候やうにてが甚だ心もとなく存ぜられ候外観の悟賞にや。」
漱石はまず前半部分で、在留邦人たちの浄財を集める計画のもと、無理やりに五円を寄付させられたことを怒っている。非国民ともいわれかねない意見。そして世界一の大国イギリスとアジアの小国日本の同盟に狂喜している日本人の軽率な姿を「貧人と富家の縁組」と嘆いている。
また、日露戦争3年後の明治41年9月より朝日新聞に連載された『三四郎』には、広田先生と三四郎のこんな会話が書かれている。
「『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない』と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。 『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言った。」
また、明治42年6月より連載された『それから』でも、主人公代助にこんなセリフをはかせている。
「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行ゆかない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。」
当時、日本の近代化をこのように見ていたものは皆無に近かった。漱石はなぜそのような近代化批判を行えたのか?その理由を2年数カ月のロンドン留学探検を中心に追ってみたい。
(夏目漱石 千円札【1984年~2007年】)
(夏目漱石 1912年9月13日 明治天皇の大喪の礼の日)
(日英同盟締結記念絵葉書)
(日英同盟祝賀アーチ 京都 岡崎公園)