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粋なカエサル

夏目漱石と20世紀初頭のロンドン2

2019.05.06 03:44

 熊本第五高等学校で英語教師をしていた漱石(金之助)にロンドン留学の話が教頭から告げられたのは、明治33年(1900年)3月のことだった。近代化の政策を推進してきた明治政府は、三十有余年を経て、語学教師の質的向上がその国家政策上必要であることに気付く。そこで明治33年、文部省による語学教師の留学制度が創設された。財源は日清戦争の勝利で獲得した中国からの莫大な賠償金。漱石は第1回国費留学生だったのだ。世界に冠たる大英帝国に政府から留学を命じられるということ、それは大変な名誉と将来の栄達を意味していた。では漱石本人は、その決定をどう受け止めていたか?後年イギリス留学の結実ともいえる『文学論』の「序」の中で次のように書いている。

「余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たる時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、且つ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭は云ふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命のごとくせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずと云ふまでにて、もとより他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。」

 この「洋行の希望を抱かず」という漱石の言葉は、どうもそのまま受け入れるわけにはいかないようだ。漱石が、五校の校長や教頭の骨折りに対して、かなり丁重に謝辞を述べている事実もさることながら、当時彼が置かれていた状況からもそう判断できるように思う。当時の漱石は、英語教師の仕事に飽き飽きしていた。教師なって以来の精神状況について、漱石は大正3年11月25日に学習院で行われた講演『私の個人主義』で次のように語っている。

「私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にさせられてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうかお茶を濁して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。

 私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をしてよいか少しも見当がつかない。私はちょうど霧に中に閉じ込められた孤独の人間のように立ちすくんでしまったのです。そしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条(ひとすじ)でよいから先まで見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出ることのできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられることもなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるんだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのです。  私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。」

 漱石は、「嚢の中に詰められて出ることのできない人のような気持」に囚われ、嚢を突き破る錐を懸命に探し求めてきた。留学することによってそのような閉塞状況を突破しようとしていたのだと思う。さらに、妻と距離を置きたい気持ちも働いていたのではないか。漱石は、五高時代の明治29年、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚。その年、鏡子は妊娠するも流産。ヒステリー症状が昂じて、翌年熊本市内を流れる白川に身を投げてしまう。漁師に助けられ一命はとりとめたが、それ以来漱石は、妻と自分の帯に細い紐をつなぎ合わせて寝るようになった。それでも、5月に長女筆子が無事誕生したことでかろうじて危機は乗り越えられる。留学の話が出たころには、次女恒子が鏡子に宿っていた。このように二人の間に肉体の交わりはあった。しかし心の交わりは希薄だった。漱石の中には、二年間の留学期間という冷却期間を置くことで、夫婦関係を再構築したいという隠れた願望も抱いていたのではないだろうか。

 (見合い写真) 

    左 鏡子 明治28年2月3日写        右 夏目金之助(漱石)明治27年3月写

(明治31年6月 熊本時代の漱石)

(明治33年6月留学のため上京する折に五高の学生とともに)