『変身物語』と『創世記』
今日のNHK文化センター梅田教室の講座では、オウィディウス『変身物語』で描かれる、世界と人類の起源の物語について話をさせてもらった。その際、オウィディウスの記述と比較できるよう、ギリシア・ローマ以外の地域で伝わる同一テーマの神話も紹介した。
僕がとくに力を込めて話したのが、『変身物語』と『創世記』における「人類誕生の物語」の類似性についてだ。似ている点は、以下の3つが挙げられる。
1点目は、人間が土から成形された、ということ。『創世記』(2.6)では、神が土でアダムを形づくったとあり、『変身物語』(1.82-83)でも、プロメーテウスが土を雨水と混ぜ合わせることで人間をつくった、とある。
2点目は、人間に「世界の支配者」の立場が与えられている、ということ。『創世記』(1.28)では、神が人間にたいし「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じており、『変身物語』でも、「ほかのものを支配することのできるような生き物」(1.77)として人間が誕生した、とある。
3点目は、人間が神の姿に似せてつくられたとされている、ということ。『創世記』には、「神は御自分にかたどって人を創造された」(1.27)とあり、『変身物語』にも、「万物を支配する神々の姿に似せて[プロメーテウスは人間を]こねあげた」(1.83)という記述がみえる。
1点目については、他の類例もある(ex. 中国神話の女媧の作業)ので、ことさらに重要視するべきではないのかもしれない。面白いのは2点目と3点目で、要するにオウィディウスは、『創世記』の記述がそうであるように、世界における人間の卓越性―神性をそなえた、世界の支配者であるということ―を強調したがっているようにみえるのだ。このような「人間中心/第一主義」は、『変身物語』あるいはギリシア・ローマ思想とは相容れない考え方―人間は神のように振舞ってはいけない、というのが基本である―なので、そのぶんいっそうオウィディウスの意図が気になってしまう(ただ、人間の作成者はあくまで「人間贔屓」のプロメーテウスである、という点は見逃すべきではなく、人間がこのように特別扱いされているのは、その意味では当たり前のことなのかもしれない)。オウィディウスは『創世記』を知っていたのかどうか。
このような『変身物語』と『創世記』の類似性については、以前から研究者によって指摘されているようなのだが、僕はまだ関連の研究文献を読むことができていない。比較神話学の観点から『変身物語』の記述を分析すると面白そうだと思っているので、これからそういった文献には数多くあたってみるつもりだ。
【参考文献】
中村善也(訳)『オウィディウス 変身物語(上)』岩波文庫、1981年。
(『創世記』の日本語訳は、新共同訳を用いた。)