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正義の感情が絶対的な正義ではない

2019.05.07 10:00

最近では、TwitterやInstagramの台頭により、テレビで専門家や書評家がコメントする 以外にも「その他大勢」の人が発言し、拡散されることが増えてきました。

有名人(とされる人)から、自称〇〇という人まで、まさに「全国民ご意見番時代」の到来です。

しかし、誰でも発言できるが故に、本来の正しさ、ある種の「フィルター」がなくなっているように思いますし、誰にでも攻撃可能な世の中でもあると思います。そんなお話。


・正義の誇示、という攻撃性

他者と言い争う時、何が原因かというとそれぞれの正義をぶつけ合うことだと思います。

かつての議論はまさにそうであり、その議論から発展させてより良い考え方を生み出すことが意義としてありました。

近頃、特にSNSで見られることは、正義をぶつけることはあっても、反対の意見(他者の正義)を受け入れ難い人が増えていると感じます。

正義をぶつけるだけぶつけ、勝ち誇っていなくなる構造は、ただの通り魔的思考と言わざるをえません。

発言の自由を振りかざすことで、不自由になっているように思います。



・誰かのフォロワーが能動的になったと勘違いしている

例えば、古市憲寿氏が炎上するようなコメントをしたとする。(あくまでも喩えです)

その発言はどうあれ、テレビというフィルター(あるいは検閲)を通され社会に発信しているので、この点は発信者として古市氏の立場は確保されています。


それに対し、Twitterで乗っかる発言をする人がいたとします。(あくまで喩え)


その人は、古市氏のフォロワーに過ぎず、正義の拳で殴っていることになります。


自分が意見を発信しているような気持ち良さを感じるのは理解できますが、結局は誰かのフォロワーであり、SNSが現れる前の形と大差ないのです。



・それぞれの正義があるから成り立つ社会

多様性が謳われる社会になり、LGBTや障がい者、金銭的困窮者や虐待問題など、ほとんどの人が共通認識として「いけないこと」と思う問題には皆が同じ意見を挙げることが多く、問題解決に動き出そうとする姿を見るようになりました。


しかし、満場一致でない事象、例えば少年院から出てきた人間の就労支援は、被害者を重んずる意見や、やり直せる社会を目指す人の相違があります。


そのような事象の時、自分が絶対的に正しいと思う思考も必要ではあるが、少し立ち止まり、他者の正義を考えてみることが求められているように思います。成熟した人間、社会において、自分という小さな個ではなく、社会の一員という認識を持たなければ、発展することはあり得ないでしょう。


今週の一曲

Fishmans/いかれたbaby 1993

(from INO)

1992年生まれ、東京都在住。社会福祉学、統計学を専門とする。世の中の事象を社会福祉の目線から観察し、社会に貢献する機会と貯金の機会と旅行の機会を伺っている。最近は揚げ出し豆腐がめちゃくちゃ好き。