触診をして気づくこと
触診をして気づくことが沢山あります。
例えば異常部位が肩にあります。
しかし、肩に異常部位はない。
こんな矛楯した結果になることがあります。
なんの意識もせず触診をしても何の結果も得られません。
意識的に触らないと結果が得られない。
あきらかにここは異常なのに、異常と感じられない。
そんなことが多々あります。
強く触ったら、絶対にわかるものもわかりません。
かといって弱く触ったからわかる訳でもありません。
そもそも触るというのは、なぜ触るのでしょうか?
なぜ触ろうとする?
それに気づかないと触診はうまくなりません。
病能を把握したいから触ろうとする訳ですが、どんな病能を触ろうとするのか?
なにを触りたいと思っているのかによって結果が大きく違ってきます。
人によって得られる情報が違うのは、何に意識を向けているかなのです。
人によって得られる情報が違えば、当然その結果に差はでます。誰がやっても同じ結果にはならないということです。まず、それを認められるかどうかで、東洋医学の考え方には大きな差がでてきます。同じことを同じようにしても同じ結果は得られない。
しかし、感覚を磨くと、その差を埋められる。
もし、客観的でなければ、同じ結果が得られないという考えでしか触診しなければ、客観的なものしか見えてきません。
それは客観的事実に対して、あたかも言い訳にしているように感じる人もいるかもわかりません。しかし、どこまで行っても、観察者によって、得られるものは近似値だと言うことを認められるか認められないかで現実世界の見え方が全く違います。
現実世界では、完全な客観はありません。客観に近いデータはあっても完璧はありません。だから科学者は誤差の範囲内という言葉をよく使います。それは、本当に現場で実験している科学者なら、誰でも感じていることだと思います。限りなくゼロに近づけることはできてもゼロにはならない。
それをゼロに近づけるのが客観的ではなく、主観だということに気づかないと、真実は見えてこない。だから面白いのです。その人によってできることとできないことがある。それは事実です。それをできるだけ近似値に近づける。それが感覚的な情報の共有の仕方です。感覚の世界も客観の世界も実は、近似値しか求められていない。
その事実をどう受け止めるかが重要です。