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Ride in Setouchi & San-in Day 54 (8/5/19) Gassan Toda Castle Ruins 月山富田城跡

2019.05.09 12:55

Yasuki History Museum 安来歴史資料館

Gassan Toda Castle Ruins 月山富田城跡

今日は山陰の旅で一番見学したかった月山富田城に行く。往復40キロの距離なので見学時間はたっぷり取れる。子供の頃から尼子氏と毛利氏との戦いは興味があった。とりわけ山中鹿之助は子供時代のヒーローだった。

泥鰌すくいで有名な安来市街から内陸部に向かい後10キロで到着する。安来駅で観光情報を仕入れる。

Yasuki History Museum 安来歴史資料館

現地に到着。歴史館があるので城に行く前に事前知識をつけておく。

展示は至ってシンプルで、特に特筆するようなものは無かったが、月山富田城のジオラマで館員さんが説明してくれたのが面白かった。その話は月山富田城のレポートに含めておく。地元の人とも話をした。上手に鎧兜が作られている。70才を過ぎた人が作っている。これ全てダンボール紙で作られている。全くダンボール紙で作ったとは思えない。驚き! 秋に開催される尼子の行列で実際にこれを着て街から城の屋敷跡まで、ねり歩くと解説してくれた。

Gassan Toda Castle Ruins 月山富田城跡

館員さんから見どころを教えてもらい登城に出発。資料館裏の登り口へ。富田城は月山(標高191.5m)山上に本丸をおく山城。

尼子興久墓が登り口のスタートの所にある。尼子経久の三男。領地分与に不満を持ち、謀叛を起こすが敗れ、その後38才で自殺。何故ここに墓があるのか疑問。城主はこの近くの菩提寺に墓があるが、謀反人は菩提寺には入れられないと言って墓を作らないのは親として辛いという理由なのだろうか?

ここで少し尼子氏について触れておく。尼子氏は近江の佐々木氏の流れをくんでいる。室町南北朝時代には、この出雲地方は山名氏/佐々木氏から京極氏に守護が変わった時に、通常、守護が現地に定住する事はなく、その代理として守護代を赴かせた。その守護代が尼子氏(尼子持久 守護京極高詮の甥)だった。この後に尼子氏は守護職の京極氏から守護の座を奪い、戦国大名となった。尼子氏は経久、晴久、義久と続くが全盛期は晴久の時で、山陰/山陽8州を手中にしていた。更なる領土を求めて長門/周防の大内氏、後には、毛利氏と何度となく争いがあった。佐々木氏の守護の時代からこの月山富田城が拠点となっており、形は随分と変わるのだが城自体の歴史は古い。

この城は歴史上2回大きな合戦の舞台となった。1回目は大内氏からの攻撃をしのぎ、2回目は毛利からの攻撃で、この毛利氏との合戦で落城となった。

川向こうには尼子晴久の像がある。

両側が険しい櫓曲輪に囲まれた道を登る。敵を両側の曲輪から攻撃できるようになっている。上の写真の右上の曲輪が馬乗馬場。

馬乗馬場 縦に広い ここで乗馬練習をしていた。

馬乗馬場の谷を隔てた反対側が千畳平で入り口に尼子神社が建てられている。昭和9年に尼子三代(経久、晴久、義久)と尼子十勇士を祀っている。尼子十勇士は真田十勇士と同じく十勇士の七人は後世の作り話だ。尼子三代だけにしておけば良かったのにと思う。

千畳平(せんじょうなり)城兵集合の場として使われたといわれる。ここには復元モデルにもあるが屋敷があったと考えられている。現在発掘中で期待通り瓦、食器などが出土しているそうだ。

太鼓壇が千畳平の上にある。時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。平らな広い曲輪跡で前方部分はさらに二段の土塁が積まれている。戦闘時の攻撃場所か?3段目には尼子氏の碑が立っている。ここではやはり尼子は人気ある。

尼子三代より断トツの人気は家臣の山中鹿之助だ。山中鹿之助幸盛祈月像 がこの曲輪跡にある。「我に七難八苦を与え給え」と三日月に願う姿。これはあまりにも有名だが、作り話。子供の頃は鹿之助が大好きで彼が主人公の絵本などを読んだものだ。山中鹿之助が何故人気があるのか? 想像だが、尼子氏が毛利氏に敗れてから主君義久の為、尼子氏復興に命をかけ、一時期は毛利軍を後退させて、ある程度領土を回復までしたが、最後は降伏し幽閉先に赴く際に謀殺されてしまう。彼の死後の江戸時代に悲劇の忠臣として物語化されたのだろう。江戸太平の時代には赤穂浪士の討ち入りのような忠臣物が人気があった。それは第二次世界大戦後までも続く。

続いて奥書院跡 戦没者慰霊碑がある。ここから山頂の城跡が見える。

花ノ壇 ここには南側に花壇、北側には重臣の住居があったと発掘調査から推測されている。住居は発掘を元にして復元されている。

山中御殿跡 (さんちゅうごてん)

御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれた。

南側には多聞櫓があった。

御殿の直ぐ下には軍用大井戸がある。城跡にはこれ以外にも多数の井戸跡があり、籠城時の水の確保を行なっていた。

何ヶ所か口が設けられている。城には3つの進入路があり、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)。これらすべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、そこから急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結ぶ。

菅谷口 

東には塩谷口

本丸へは菅谷口の軍用に使われた道で登る。

親子観音 (しんしかんのん)

堀尾時代の家臣の慰霊碑

この月山富田城は尼子から毛利の手に移り関ヶ原の直前は吉川広家が城主で城の整備を行っていたが、毛利氏の関ヶ原の敗戦で吉川は岩国に移る。その後入ったのが堀尾吉晴。城跡に残る石垣は堀尾時代のものと考えられている。ただ、堀尾吉晴と松江藩の初代藩主の堀尾は政務には不便という事で、松江城に移るまでここを拠点にした。

山吹井戸

七曲り 観光客が山中御殿でこの七曲りを登ろうかどうか悩んでいる光景があった。それほど急坂。

三の丸 ここから山上部になる。

二の丸

本丸

本丸にある勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前から所在したと伝えられる。

ここにも山中鹿之助幸盛の碑がある。

これから下山する。山中御殿からは御子守口(おこもりぐち)に出る搦手道を進む。御子守口近くに巌倉寺がある。佐々木義清が御子守神社とともに、城内に移したものと伝えられる。ここに堀尾吉晴とその娘の墓がある。その脇に山中鹿之助の供養塔もあった。この組み合わせには何か意味があるのだろうか?この供養塔は堀尾吉晴の奥方が建てたもの。何故?そこまでは案内板には書かれていない。これも想像だが、山中鹿之助派尼子氏復興活動の後半は織田信長に助けを求め、織田家臣の中国遠征などに従軍していた。その時に堀尾吉晴と共に戦った時があったのだろう。吉晴の奥方が慰霊碑を建てるくらいのが仲であったと思う。

月山富田城への登城は終わったが、城の周辺に数カ所史跡があるのでは行ってみた。

山中鹿之助屋敷跡

何もない。ただ城側に屋敷があるのは山中家が尼子の中でも名門の重臣だったから。ここで、たぬきに遭遇。あまり警戒をしていない。近くに行って、初めてゆっくりと逃げた。

新宮党屋敷跡 

天文23年(1554年)11月1日に起きた「新宮党事件」なるものがある。これが尼子の弱体化にこれが関わっている。

通説では、尼子晴久は毛利の経略に踊らされて新宮党を粛清したというものだが、(館員さんはこの説を支持) のが一般的だが、最近の研究では、晴久が宗家の強化のために自発的に新宮党を粛清したというもの。 

新宮党は尼子一族の一つで強大な軍事力を持っていた。新宮党が宗家を脅かすほどの勢力となっていた。 自発的であれ、策略であれ新宮党を失った事は尼子の戦力が著しく低下した事は事実。

山中公一騎打処 毛利軍の猛将の品川大膳を一騎打ちで打ち取った場所。山中鹿之助は記録では度々一騎打ちで敵将を打ち取っている。戦国時代とは言え、まだ一騎打ちがあった。

土地柄なのか?

山中鹿之助の人気はこのローカルでは最高点なのだろう。ここでも大河ドラマへの推薦活動をしているようだ。

月山富田城見学はこれでおしまい。城跡の前の川の向こうに城下町があった今もここ広瀬町の生活の場になっている。尼子時代はこの広瀬が出雲/伯耆の中心で城下町が広がっていた。しかし川の氾濫で町は水没して川の流れも変わってしまった。昔の城下町跡が川底よりも下の地表から見つかっている。今の場所は江戸後期の街並みにあたる。下のジオラマの写真と現在の川の位置を見れば一目瞭然。

観光ガイドでは昔のレトロな街並みとあった。写真は宿場町のように見える。ちょっと「レトロ」という言葉が気にはなったのだがとりあえず見てみた。数軒江戸か明治の感じのものがあるが、それ以外は古くなってしまった家という感じ。十分には古く無い。レトロは江戸や明治の建物には使わないだろう。大正/昭和中期までの建物をレトロという言葉で表現しているように思えるが、印象は古くなってしまった家を言っているように思える。歩いている観光客も僅か。

広瀬町は松江藩の二つの支藩のうちの一つでここに藩庁があった。これが月山富田城が廃城になっても町として残っている理由だ。

これで今日の日程終了で米子への帰路をスタート。途中、日本庭園ナンバーワンの足立美術館がある。さぎの湯温泉の一角にある。初めはここも寄ろうと思っていたが、月山富田城がことの外面白く5時間城見学に使ってしまい。美術館見学はできなかった。いつか誰かと来てみよう。