Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

つねに多くのことを学びつつ年をとる―勝又泰洋の学問日記―

相対主義を相対化するための「イデア論」

2019.05.07 13:25

今日の「西洋哲学」の講義では、プラトーンを取り上げた。「イデア論」の解説をしたが、学生たちの多くはこれに強い興味を覚えたようだ。

 学生が「イデア論」に興味をもつ、というのは、僕としてもとても嬉しい。というのも、それは、「絶対的なもの」―「真理」といいかえてもよい―に意識を向けることにつながるように思われるからだ。大学で教える仕事をしていて、僕は、今の学生たちがひたすら相対主義を好むことを目の当たりにしている。授業中の発言やリアクションペーパーには、「人によって違う」「ケースバイケースだ」「唯一のことにこだわる必要はない」「「絶対」などというものはない」といった類の表現がこれでもかというくらいに登場するのだ。ポストモダンが完全にデフォルト化した時代に生まれ育ち、小さい頃から「みんなちがって、みんないい」式のことを聞き続けてきた結果なのだろうが、僕は、これが少し行き過ぎているのではないかと感じることがよくある。一番問題だと思うのは、この類の絶対化した相対主義(これがいわゆる「相対主義の自己矛盾」である)は、思考の停止あるいは放棄を生む、ということだ。「AもBもCも全部正しい」ということを認めてしまうと、それ以上問題を追及する必要はなくなる。「事の当否をめぐって議論することは無意味」ということが正当化されると、もう人間は頭を使わなくなる。頭を使おうものなら、「それは野暮」と言われる。

 僕は相対主義を全否定したいわけではない。これが多くの生きやすさや幸せを生んでいることは間違いないからだ。問題なのは、「いちいち考えなくていい」という風潮が生まれてしまっていることだ。プラトーンは、ソフィスト流の相対主義に「否」をつきつけるために、「イデア」という絶対的審級を立てたのだと僕は思っている。学生たちには、おそらくきわめて異様に感じられる彼の考え方に接することによって、自分たちの(信じてやまない)相対主義を少しでも相対化してほしいと思っている。