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キャンピングカーで日本一周

4月27日 長崎市内散策② [外国人居留地を歩くの巻]

2019.05.09 12:15


「長崎原爆資料館」を後にした一行は、市電を乗り継いで、大浦天主堂駅へと向かうことに。



それにしても、長崎の市電は本数が多いだけでなく、いつも乗客で一杯。


坂が多く駐車場も少ない長崎において、文字通り市民の足になっているようだ。


そこに、大きなスーツケースを持った外国人観光客も乗り込んでくるから、誰もが利用しやすい路線であることに間違いない。


料金も一律130円と格安。


乗り継ぐと倍になってしまうのがたまにキズだが、1日フリーパスは500円で購入できる。



市電の駅から大浦天主堂までは、ホテル脇の急坂を登らなければならない。


小腹がすいてきたので、腹が減っては戦が出来ぬと、長崎名物のファストフード「豚角煮饅頭」で軽く腹ごしらえ。


(長崎市公式サイトより転載)




気合充分で、坂道を登って行く。


何軒も土産物屋が軒を連ね、同じような商品を並べて売っている。


「20年ほど前、この地を訪れた時は、もう少し風情があったような気がする」とK。


こちらもやはり、外国人観光客の姿が目立つ。



心なしか欧米人が多いように見えるのは、おそらく長崎港に停泊している大型クルーズ船の乗客が、一斉に上陸を開始したからなのだろう。


5階建てのマンションが移動しているかのようなクルーズ船には、一体どれくらいの乗客が収容されているものなのか。




坂の上には「大浦天主堂」が顔を覗かせている。



正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」


国内最古の中世ヨーロッパ建築・ゴシック調のキリスト教建築物である。 


聖堂内を飾るステンドグラスには、約100年前のものもあるという。



ここは、世界の宗教史上に残る劇的な「信徒発見」の舞台となった教会だ。



1865年2月19日、大浦天主堂完成。


1865年3月17日、地元住民十数名が天主堂を訪れ、そのうちの40、50代の女性が神父に近づき、   


                            「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、


                              自分たちがカトリック教徒であることを告白。



ここに、約250年に渡り潜伏しながら信仰を守り続けてきた隠れてキリシタンの存在が明らかとなったのであった。



見学したい気持ちは山々だつたが、入場料が1000円と高額なため、残念ながら入館を見合わす……。





その隣はグラバー園。



この庭園のかつての主人とは、幕末期に武器商人として暗躍した「死の商人グラバー」である。


グラバーの背後には、アヘン戦争の仕掛け人・ジャーディン・マセソン商会がおり、そこにおける彼のミッションとは、明治維新と軍事物資武器の供給であった。



グラバーは、討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府と、相手を問わず販売。


武器や弾薬、軍艦や蒸気船、艦船を、各藩へと売りまくった。


日本人が求める最新式の銃や戦艦などの武器弾薬を大量に販売し、巨万の富を得たという。



グラバー邸には隠し部屋があり、長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、坂本竜馬、三菱(土佐商会)の岩崎弥太郎らが訪れていた。



そして、


1863年、長州藩の伊藤博文や井上馨ら、長州五傑の英国への密留学を支援。


1865年、薩摩藩の五代友厚、寺島宗則、森有礼ら17人の秘密裏の訪欧にも協力。


1866年 薩長同盟締結。


となる。



グラバーは、

「私がパークスと薩摩、長州の両藩の間にあった壁を壊してやった。これがわたしの1番の手柄だ」と、語っていたという。



明治維新後は、


グラバーが日本に持ち込んだ西洋の最新技術と、招聘した技術者・専門家によって、日本の造船、製鉄、石炭産業分野における近代化が加速。



日本政府は、日本の近代化に貢献したと、彼の偉業を讃えているが……。





グラバー園の公式サイトを見ると、「フリーメイソン・ロッジ(集会所)の門」として、以下のような紹介文が載せられている。


フリーメイソンとは中世イギリスで数々の大聖堂を建てた石工が組織した友愛団体です。この門柱は長崎で熱心な会長だったイギリス人が自社の門に建てたもので、そこから移築されたものです。


この門柱は、元々グラバー邸内あったわけではないということだが、わざわざこの場所に移転させた意味とは何なのだろうか。




ということで、グラバーという人。


あまり関心が持てず、こちらも600円ということで割愛した。 






グラバー園の石垣に沿って坂道を登っていくと、長崎港の遠景が望める高台に出る。


三菱長崎造船所の巨大なクレーンが、長崎港の対岸に突き出ている。



ここも、グラバーゆかりの造船所なのである。






グラバー園の脇道を折り返して坂道を戻り、「孔子廟・中国歴代博物館」まで歩く。



案内には「国宝級の文物も展示されている」と書いてあるのだが、そこは中国帰りのKY夫婦。


入場料600円の価値のある文物がここにあるのか? と考えると……、ここも割愛せざる得ない。




この博物館の横には小径があり、裏手の山には「オランダ坂」がある。


当時の日本人は、西洋人のことを「オランダさん」と呼んでいた。



この坂道の周辺には彼らの居住地があり、住人達がよく散歩をしていた坂道であった。



「東山手十二番館」という洋館にあるカフェテリアで、しばし休憩を。



窓際の席に腰掛け、アイスカステラとコーヒーのセットをいただく。


入場料を出し渋った我々でも、時にはこうした優雅なひと時を過ごすこともあるのである。



洋館が立ち並ぶ坂道を歩く風景、どこかで見覚えがあるなぁと思ったら、中国のアモイ(廈門)だった。


KY夫婦は20年ほど前、アモイにある洋館の建ち並ぶ坂道を、あてもなくブラブラと登っていたのである。



オランダ坂を下り切ると、「唐人屋敷跡」までは、歩いて10分ほど。



ここは、江戸幕府に貿易を許された中国の商人たちが居住したエリアである。


長崎に来航した中国人たちは、最初は長崎市中の馴染みの家に泊まっていたが、唐船の急増に対応し中国貿易を管理するため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設した。



それは、屋敷の周囲を練塀で囲い、その外側に堀を設置し、さらに一定の空き地を確保した上で竹垣で囲うという厳重なものだった。





唐人屋敷の完成から100年以上が過ぎた1784年、ここで大火災が発生し、一部を除いて全焼する。


その後、中国人が自分たちで建築することを許されるようになり、中国人街らしい独特の景観となったらしい。


彼らがもたらした数々の文化は、長崎の年中行事や食習慣にも大きな影響を与えている。





「蔵の資料館」と書かれた展示室があり、当時の長崎における中国人の生活の様子を偲ばせる絵巻やパネルを見ることができる(入場無料)。



長崎の年中行事である凧揚げやペーロン祭り、お盆、精霊流し、長崎くんち祭りの奉納踊りなどは、中国の風習・文化の影響を受けているし、唐風料理を長崎風にアレンジした卓袱料理も有名である。


中国商人の中には、詩文や書道、絵画、音曲を嗜む文化人も多く、彼らが伝えた中国系の画法は「長崎派」と呼ばれている。


1859年の日本の開国後、中国人の多くは新地や大浦の外国人居留地に移り住むようになり、唐人屋敷は徐々に廃屋化する。



明治に入ると、1871年に島人屋敷跡でまたもや大火災が起こり、建物などの大半は焼失してしまう。


現在このエリアに残されるお堂などは、その後に改修・復元されたものであり、石積みなどに当時の面影が偲ばれるものとなっている。



資料館を出て、細い路地を奥に進んでいくと、幼稚園の敷地になっている「観音堂」がある。



祀られているのは、関羽像や千手観音、母子観音だ。


潜伏キリシタン様式の観音のようにも見えるが……。



唐人屋敷エリアの中心には「福建会館」がある。



原爆で本館が焼失し、正門と天后堂だけが現存している。


来日時にこの場所で日本の要人と記念撮影したという、孫文の像が立っている。



ここから、歩いて5分ほどのところに「新地荷蔵跡」がある。



唐船の貨物は、市中の土蔵に収納されていたのだが、1698年の火災で消失してしまう。


このため、土蔵の所有者たちが資金を出し合い海を埋め立て、唐船の貨物を荷揚げ・保管する「新地荷蔵」を建設したという。



現在では、ここが中華街となっている。



夕食をここで食べようと考えていたのだが、当然、ここも横浜中華街並みの観光地価格。


気乗りがせず、「ハトシ」というエビのすり身が入った揚げパンを買って小腹を満たす。



空腹を我慢しつつ「思案橋」まで歩く。


懐メロに詳しいKは、「思案橋ブルース」を口ずさむ。



ここは昔、色街があったところ。


この橋を渡れば、そこは歓楽街。


「行くか戻るか思案した」という場所なのである。



観光地入場料や御当地料理をケチりながらも、今夜は一杯やりたいと考えた二人は、結局無難な居酒屋チェーンに飛び込み、飲み放題メニューを注文。


旅が日常の我々としては、致し方ない選択なのであった。


今日は、このまま松山町駐車場に戻るだけ。


久々のほろ酔い気分で、ご機嫌なYであった。