愛と哀しみの傑作(マスターピース)ジョアキーノ・ロッシーニ 「スターバト・マーテル」
ジョアキーノ・ロッシーニ
「スターバト・マーテル」
オペラ「セヴィリアの理髪師」や「ラ・チェネレントラ」などで知られるイタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニは、1792年、ホルン奏者の父ジョゼッペと歌手の母アンナの間に生まれました。
1810年、18歳のロッシーニは、2年の学業を残しボローニャの音楽院を中退します。同年、ヴェネチアのサン・モイゼ劇場でオペラ「結婚手形」を初演し、オペラ作曲家のキャリアをスタートさせるのです。その後ロッシーニは名作オペラを次々と発表。ヨーロッパ中に知れ渡る人気作曲家となります。母親想いの彼はその間も休むことなく故郷の母と手紙を交わし、収入の2/3を仕送りしていたといわれています。
1827年2月20日、最愛の母アンナがボローニャで亡くなります。この時ロッシーニはパリで次回作のオペラにとりかかっていました。3月26日初演後のカーテンコールの中、観客に頭を下げながら涙を流し「でも、あの人は死んでしまった」と呟いていたといいます。
1831年、ロッシーニはマドリードの助祭の依頼で、息子イエスを失った聖母マリアの悲しみを歌う「スターバト・マーテル」*を書き始めます。全体の約半分を一気に書き上げた後、突然残りを別の作曲家に任せてしまうのでした。1839年4月には、父ジョゼッペが亡くなります。両親を失ったロッシーニは他人に作曲させた部分を改めて自ら創り上げ、1841年9月、「スターバト・マーテル」を完成させるのです。
1842年3月、地元ボローニャでの初演の総練習(ゲネプロ)に立ち会ったロッシーニは、感情の高まりに耐え切れず自宅に逃げ戻ります。その後、人々が彼の家の前に集まり、「ロッシーニ万歳」と叫び出しました。群衆の歓声に包まれ、ロッシーニは暗い部屋で、壁にかかった母の肖像画を見つめながら子どものように泣き続けていたといいます。
*スターバト・マーテル:息子イエス・キリストが磔刑(たっけい)となった時の聖母マリアの悲しみを歌った中世の詩。ヴィヴァルディ、ペルゴレージ、ハイドン、ドヴォルザークなど、多くの作曲家が曲を付けている。
ジョアキーノ・ロッシーニ Gioachino Rossini(1792〜1868)
イタリアの作曲家。美食家としても知られ、37歳で作曲した「ウィリアム・テル」を最期にオペラ作曲の筆を折り、余生は料理の創作に費やした。
イラスト:遠藤裕喜奈