夏目漱石と20世紀初頭のロンドン5
漱石の2年間のロンドン滞在中に起きた大きな出来事と言えばヴィクトリア女王の死。20世紀が始まって間もない1901年1月22日のことである。即位したのが1837年6月20日だから、なんと在位期間は63年7カ月。昭和天皇の62年より長い。そして、このヴィクトリア朝はイギリスの全盛期とされる。1840~42年アヘン戦争、1851年ロンドンで世界初の万国博覧会、1854~56年クリミア戦争、1875年スエズ運河株購入、1877年インド併合、1882年エジプト単独占領、1899年南アフリカ戦争(~1902年)。産業革命の恩恵をうけて「世界の工場」と言われた工業力で他国を圧倒し、工業生産・金融面で世界経済のヘゲモニーを握るとともに、多くの自治領(カナダなど白人植民地には自治を承認)、植民地を所有し第二帝国の時代ともいわれる大英帝国の最盛期であった。
しかし、1870年代以降その繁栄にも陰りが見え始める。1873年のドイツに始まる世界恐慌から一転して慢性的不況に陥り、その後96年に至るまで長期にわたる不況から脱却できなかった。他方、急速に工業化を進めるアメリカとドイツが資本財の清算生産でイギリスを凌駕し始める。南北戦争(1861~65年)が工業を基幹産業とする北部の勝利で終わらせたアメリカは、工業中心の国作りを目ざす事に成り、1860年代に本格的な産業革命を展開した。広大な国土と資源に恵まれたアメリカ、東海岸や五大湖地方の工業地帯が急速に発展して、鉄道建設は1869年に大陸横断鉄道が完成し、ピークを迎えた。そして、19世紀末までにイギリスを追い抜いて世界第1位の工業生産力を持つに至る。1871年に統一を果たしたドイツも、1873~74年の恐慌以降低成長期に入るが、95年から再び好況期に入り、経済は目ざましい発展をとげる。
このような状況から、ヴィクトリア女王の死は人々に暗い予感を抱かせる。ヴィクトリア女王死去の翌日、漱石は日記にこう記した(原文は英語)。
「弔旗が掲げられている。町はみな喪に服している。外国人である私も、謹んで弔意を示すために黒いネクタイをつけている。「新しい世紀はひどく不吉なはじまり方をしたもんだね」と、今朝、黒い手袋を買った店の店員がいった。」
また2月2日には、ヴィクトリア女王の御大葬の行列を見に下宿の主人ブレットとハイド・パークまで行く。行列は大英帝国の縮図。まず女王旗を捧げ持った近衛騎兵隊、ボーア戦争の義勇兵と香港やインドなどの植民地の将校や兵隊が先頭をなしていた。それからスコットランド第三連隊、ウェールズ第三連隊、アイルランド第四連隊、ノーフォーク第四連隊と砲兵隊が続き、そのあとから金モールの将軍が78名、貴族10名の行列が従い、そのすぐあとに八頭の馬に曳かれた女王の霊柩車。そのすぐあとに新国王エドワード7世、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、プロシア皇太子らが従った。その日はいくらか寒い、桐模様の天気だった。それにもかかわらずハイド・パーク周辺で見物した群衆の数は、十数万人に達した。漱石もその群集の一人だった。この日の漱石の日記。
「Queenの葬儀を見んとて朝九時Mr.Brettと共に出driveう。Ovalより地下電気にてBankに至り、それよりTwopence Tubeに乗り換う。Marble Archにて降れば甚だ人ごみあらん故next stationにて下らんと宿の主人いう。その言の如くしてHyde Parkに入る。さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり。園内の樹木皆人の実を結ぶ。漸くして通路に至るに到底見るべからず。宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。漸くにして行列の胸以上を見る。柩は白に赤を以て掩(おお)われたり。King,German Emperor等随う。」
2月9日の友人あての手紙の中ではこう記している。
「・・・大変な雑沓だ。僕は仕方がないから下宿屋の御爺の肩車で見た。西洋人の肩車はこれが始ての終りだろうと思う。行列はただ金モールから手足を出した連中が続がって通ったばかりさ。」
行列についての感想のなんとそっけないこと。漱石の想像力に働きかけるものは何もなかったようだ。
(ロンドン市中を行く女王の柩)
(ジョージ・ハイター「ヴィクトリア女王の戴冠式」)
(1899年晩年のヴィクトリア女王)