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Edu:re magazine

『ファンタジア』(著:ブルーノ・ムナーリ、訳:萱野 有美、みすず書房、2006年)

2019.05.12 09:16

古民家を使って行った「伝説の生き物を探そう」というテーマのワークショップ。ある小学生の男の子は庭に咲いていた花からイメージを膨らませ、「花つむり」を描き出した。

この「花つむり」は世界で1匹しかおらず、世界中を旅しながら自分の体の色と同じ色の花を育てていく。やがて世界中の同じ色の花を育て終えたら、こどもを産むことと引き換えに死んでゆく。新たに生まれたこどもの色はランダムで決まり、そのこどもは親と同じくらい世界中を旅して同じ色の花を育てるー。

これが、彼が語った「花つむり」の物語だ。


なぜ、この子はこのような物語を生み出すことができたのだろうか。その手掛かりが『ファンタジア』にあるように思い、読み返してみた。


ムナーリは本書で「ファンタジア」について、次のように定義している。

ファンタジアとは何よりも自由な能力であり、考えついたそのことがほんとうに実現できるだろうか、機能面はどうだろうかとかいったことにとらわれなくていい。どんなことでも自由に考えていいのである。最高にバカげたことだろうが、絶対に信じられないことだろうが、どんなに不可能なことだろうが、それでいいのだ。(P.21)

さらに、このようにも述べている。

ファンタジアとは、これまでになかった新しいことを考えださせる人間の能力である。ファンタジアは、まったく架空のもの、新しいもの、これまでになかったものを自由に考えていい。その考えが本当に新しいかどうか確認せねば、なんて心配しなくていい。それはファンタジアの領分ではない。(P.33)

「伝説の生き物」として誕生した「花つむり」。その着想の契機となったものは、ムナーリの言うところの「ファンタジア」であると言えそうである。


では、「ファンタジア」はどのように生まれていくのだろうか。ムナーリは「ファンタジアの産物は、…考えたことと知っているものとの関係から生まれる。…ファンタジアの豊かさは、その人の築いた関係に比例する」と述べている。「花つむり」について、私は、彼が描いた絵やデザイン、花×かたつむりというアイディア以上に、彼が生み出した物語の部分に注目し、感激した。彼がそこまで意識したかは不明だが、「花つむり」には彼がこれまでの人生の中で築いてきたいくつもの「関係」が込められているように思う。私が思いついた限りで列挙すると、例えば花の色の多様さ、かたつむりの歩く速度、そこから導き出される「世界中を旅する」という途方もない時間、「こどもを産むのと引き換えに生涯を終える」という生物がいること、「伝説」から連想される唯一無二性などが浮かび上がる。つまり、彼は単に「花とかたつむりを組み合わせて『花つむり』にしました」という以上に、もっと多様な知識や経験との「関係」を結び付けていたと言えるだろう。


「ファンタジア」は「その人の築いた関係に比例する」の中身をもう少し深く見ていこう。

もし子供を創造力にあふれ、息の詰まったファンタジア(多くの大人たちのような)ではなく、のびのびとしたファンタジアに恵まれた人間に育てたいなら、可能なかぎり多くのデータを子供に記憶させるべきだ。記憶したデータが多ければその分より多くの関係を築くことができ、問題につきあたってもそのデータをもとに毎回解決を導きだすことができる。(P.30)

ムナーリはさらに続ける。

ファンタジアの発達にとって基本的な問題は、要するに知識を増やすことであって、より多くの情報があればその分だけより多くの関係性を築くことができる。(P.35)

「可能なかぎり多くのデータを子供に記憶させるべき」「知識を増やすこと」と聞くと、いわゆる「詰め込み型」と言われる教育に嫌悪感を抱く私は一瞬「ん?」と思ってしまった。しかし、そもそも私がイメージしていた「データ」「知識」「記憶」と、ムナーリがイメージしていたそれとでは大きくかけ離れているのだと、次の一文を読んでわかった。

だからといって自動的に、教養豊かな人間はファンタジアも豊かである、ということにはならない。それは絶対にちがう。膨大なデータを記憶し、傍からみればたいそう立派なインテリ然とした人もいるが、それは単に記憶力の問題である。知っていることからさまざまな関係を作りもせず、ファンタジアを活用しないなら、その人はずっと不要なデータの素晴らしいデパートメントのままである。これは、どんな詩作にも充分なほどあらゆる言葉を載せていながら、たった一つの詩も載せていない辞典のようなもの。つまりは使えない道具、ということになる。(P.35)

ここまで痛烈にムナーリが否定しているものこそ、「正解」とされる唯一の「知識」をインプットし、それをそのままの形でアウトプットするに終始するような質の「勉強」、つまり私が嫌悪感を抱いていた「詰め込み型」教育なのではないだろうか。一問一答形式の試験問題や、早押しで「正解」を回答し、それをエリートと持て囃すクイズ番組をムナーリがみたら、一体どう思うのだろう。


ムナーリの言うところの「データ」「知識」とは、きっと読み書き計算にとどまるものではなく、男の子が「花つむり」を生み出す時に(意識的にか、無意識的にかは不明だが)参照したもの(花の色の多様さ、かたつむりの歩く速度、…)を指しているのだろう。要するに、「記憶」がゴールなのではなく、それが新たな「ファンタジア」へと開かれているような、そんな生きた「データ」であり「知識」なのだと思われる。


では、「ファンタジア」を生み出す実践にも繋がるアイディアとは具体的にどのようなものなのだろうか。もちろん本書の中では直接的な活動として、あるいはヒントのような形で書かれている部分もある。しかし重要なのは、それらを図工や美術、デザインの方法論として捉えるにとどまるのでなく、どのようにより深い発想の仕方、こども観、教育実践を行う際の哲学的な部分に結び付けて考えていくか、ということなのではないだろうか。「素材の交換」などの「ファンタジア」のヒントをどのようにこどもの表現(図工・美術以外の場面も含む)を捉える眼に繋げていくか。「ファンタジア」という概念や、そこから展開していくムナーリの実践の根底にある哲学をどのように生かしていくか。これは実践する人たちの「ファンタジア」にかかってくるのだと思う。


最後になるが、ムナーリはこのように述べている。

グループ作業は、あらゆる価値観が一緒になる場であり、さまざまな個性が寄り集まる場である。たとえそれが知識を広げることに終始したとしても、各人が集合体にとって有益なもの、本当に機能するものを産み出そうと精一杯の力を発揮する場となる。(P.144)

「発達の最近接領域(ZPD)」と繋がるような言葉のように、本書をきっかけとして「さまざまな個性」に基づく教育観が「寄り集ま」り、より良い教育を考えていけたら良いなぁと思う。


(筆者:ゆーだい)