夏目漱石と20世紀初頭のロンドン6
漱石が留学先のロンドンに到着した11日後の1900年11月8日、一隻の軍艦がヴィッカース社のドック(イングランド北西部,カンブリア県南西部の都市バロー・イン・ファーネス)で進水式を行った。日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎率いる連合艦隊の旗艦「三笠」である。「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり1902年3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した1903年12月、連合艦隊に編入され旗艦となった。この「三笠」。当時の世界の海軍戦力の水準から見て、第一級の戦艦である。その進水式について、当時の週刊誌『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』(1900年11月17日号)は、「三笠」が最新の技術で建造された世界最強の軍艦であることを報じ、それに続けてこう記していた。
「この驚異的な軍艦の戦力が、これを建造した国に対して向けられることのないように、切望したいのであるが、この軍艦は先週バロー港のヴィッカース会社の造船所で、成功裡に進水した。」
もちろん、「三笠」がイギリスと戦火をまみえることはなかった。日英関係は、特に漱石がロンドンに滞在した1900年10月から1902年12月までの2年間は「日英蜜月時代」といえるような歴史的に最も親密な時期だった。その象徴が、1902年1月30日にロンドンで締結された日英同盟。しばらく浮かれまくった多くの日本国民の様子を元新聞記者の生方敏郎がこう記している。
「とにかく提灯に吊鐘、お月さまとすっぽんの縁組ができたようなもので、すっぽんにとってはうれしいことに違いなかった。誰もみな涙をこぼすほどよろこんだ。昨日の仇敵は今日の友、日の丸とユニオンジャックのふらっぐとをぶったがいに、どこの家でも門口に立てて祝った。何だか二十世紀になるそうそう、夜が明けたような気がした」(『明治大正見聞史』)
御雇い外国人教師として日本にあったベルツ博士は、日記にこう書いた。
「無論、これは日本人の大勝利である。これまで主義として同盟を結ばなかった国家が人権を異にする国民とまったく平等の見地に立って結盟したということは。慶應義塾の学生は盛んたる炬火(たいまつ)行列をなし、同時に英国公使館にて万歳を叫んだ」
「これくらいのことに満足致し候様にては甚だ心もとなく存ぜられ候」と日本のバカ騒ぎを冷ややかに遠望していた漱石はかなりの少数派だった。
では、それまでヨーロッパ列強との外交では「光栄ある孤立」という基本姿勢を続けていたイギリスが、なぜそれを放棄して日本との同盟に踏みきったのか?それはアジアにおけるロシアの脅威だ。イギリスは、アジアにおけるロシアの侵出を、インドと中国におけるイギリスの権益に対する脅威として警戒するようになっていた。しかし当時のイギリスは、南アフリカ戦争(ボーア戦争)が長期化しアジアに充分な力を注ぐ余裕がないという事情をかかえていた。その中で日本の台頭という状況を踏まえ、日本との同盟関係を選ぶことによって権益を守ろうとした。他方日本は、条約改正などの国際的地位の向上をめざしており、またロシアの圧力に対抗する後ろ楯として日英同盟に期待した。ただし日本国内は、日英同盟派と日露協商派が対立。山県有朋、桂太郎、小村寿太郎らは積極的に日英同盟を主張したが、伊藤博文、井上馨らは日英同盟よりも、ロシアの満州支配と日本の朝鮮半島支配を相互に認め(満韓交換論)、ロシアと提携する方が国益につながるとしていた。両派の対立は結局、ロシアが1900年の義和団事件後も満州から撤退しないなど強引に南下政策を推し進めたことからロシアに対する警戒感が強まり、日英同盟を締結するに至った。
(1902年 戦艦「三笠」)
(戦艦「三笠」の進水式)
(日英同盟推進派の中心人物 山県有朋)
(日露協商派の中心人物伊藤博文)