【南豊島】青山甲賀町
町名:青山甲賀町
読み方:あおやまこうがちょう Aoyama-Kōgachō
区分:俗称
起立:江戸期
廃止:1872(明治5)年7月
冠称:「青山」
後身:千駄ヶ谷甲賀町
現町名:新宿区霞ヶ丘町
概要:もとは武蔵国豊島郡千駄ヶ谷村のうち。町名は甲賀組百人同心の居住地であったことから。『大江戸今昔めぐり』には「青山甲賀百人組大縄地」、「青山甲賀百人組与力同心大縄地」等とある。
山岡景友は、関ヶ原合戦後、敗走してくる長束正家を討ち取り、方々にあった敵の城を請け取って戦後処理を手際よく済ませ、家康公を感服させた。この功により甲賀衆は13,000石を賜り、これが甲賀組の起源となったと記されている。当時、近江の甲賀水口は鉄砲、火薬製造の盛んな所だった。その後、甲賀衆は大阪冬の陣、夏の陣でも活躍し、この戦いの際、当時としては最高の性能を有した大砲を製造していた。射程距離は5km程を誇っていた。この甲賀組の製造した大砲は戦前まで靖国神社に展示されていた。
甲賀忍者達は当地に居住し、その付近にあった江戸城の大手門を警備していた。射撃場等もあり、鉄砲の訓練に勤しんでいたことが窺えよう。当時はその土地を俗に「青山甲賀町」と呼んだらしい。
鳩森八幡神社には甲賀稲荷社が合祀されているが、昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していて、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していた社である。1885(明治18)年に青山練兵場設置のため、境内を鳩森八幡神社に遷座して合祀されたのである。1945(昭和20)年3月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていた。しかし復興を望む声が高まり、1970(昭和45)年に欅造りの社殿が完成し遷座された。
1872(明治5)年7月、「千駄ヶ谷甲賀町」として起立し消滅。
撮影場所:青山甲賀町