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4月28日 なぜ、秀吉はキリスト教を弾圧したのかを考える

2019.05.12 17:45


なぜ、秀吉は外国人キリスト教宣教師やキリスト教信徒を迫害し始めたのか。



その理由について、日本の高等学校の歴史教科書では、


「長崎が教会領として寄進されていたことなどから、国内統一のさまたげになると考えた」  


「キリスト教の布教が、スペインやポルトガルの侵略政策と結びついていたことを危険視した」


等をあげている。



しかし、昨今では、さらに重大な理由が他にもあったといわれている。



では、一体、どんな理由があったのか。


キリスト教に関する年表を作成してみたので、その流れに沿って真相を探ってみたいと思う。



《 カトリックが世界布教を目指す 》




1494年、ローマ教皇承認によるトリデシリャス条約により、

                スペインとポルトガルが今後侵略する領土の分割方式を取り決める 

1510年、ポルトガルがインドのゴアを侵略

1511年、ポルトガルがマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を侵略

1521年、スペインがアステカ文明のメキシコを侵略

1529年、サラゴサ条約で、アジアにおける権益の境界線が定められる

1533年、スペインがインカ文明のペルーを侵略

1537年、ローマ教皇が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出す

1538年、前年の教書撤回

               異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活する

 


時は大航海時代。


カトリックも世界布教を目指し始める。


先兵として名乗りをあげたのは、イエズス会。


その創設に、フランシスコ・ザビエルは関わっていた。


世界布教にあたっては、ローマ教皇が宣教許可を出し、


『スペインは西へ、ポルトガルは東へ向かうように』と指示。


ローマ教皇は、スペインとポルトガルの植民地領土の分配を取り決めている。


このとき、ザビエルはポルトガル側にいた。



《ザビエルが日本にキリスト教を伝える》



1549年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために訪日

1562年、大村純忠が洗礼

1571年、スペインがフィリピンを侵略

1571年、スペイン王、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布

1578年、大友宗麟が洗礼

1580年、有馬晴信が洗礼

1580年、大村純忠がイエズス会に長崎と茂木を寄進

1582年、大友・大村・有馬の三氏が遣欧少年使節を派遣



《秀吉を立腹させた、キリシタン大名の非道》


一旦大名がキリシタンとなった地域では、大名たちがやり放題となっていた。

いったい、どんなことが行われていたのかをあげてみたい。


①1580年、大村純忠はイエズス会は長崎と茂木を寄進。

   1588年、豊臣秀吉の直轄地となるまで、長崎はイエズス会の領地となっていた。


②宇佐八幡宮をはじめ多くの神社仏閣が破壊され、僧侶、神官、一般信徒が虐殺された。


③戦国大名同士の戦いで捕虜となった者を、スペイン、ポルトガルの商人に奴隷として売り渡した。



《多くの日本人奴隷が海外に流出》


16世紀末、日本は世界最大の奴隷輸出国であり、東南アジア一帯に日本人奴隷があふれたという。


1582年にローマに派遣されたキリシタン大名大友、大村、有馬の甥たち、天正少年使節団の会話録が残っている。





「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている」


「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった」


「実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか」


この時期に日本に来ていたポルトガル人は、ローマ教皇から「日本を支配する権利、日本人を奴隷にする権利を与えられた状態にあった」とされる。


これは、キリスト教の神父が先兵となって行っていたことになる。



《南蛮人の奴隷貿易》


奴隷貿易に関する宣教師の証言は、多く残されているようである。


ポルトガル人は、多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。(1555年の教会の記録)


日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた。(1598年、ポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラの記述)


他にも、日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた。


ポルトガル人の所有者らは、奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけたり、好き放題のやり方で奴隷に罰を加えた。


ポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていた等の証言もあるという。


少年使節団の報告によれば、その数50万人。


火薬一樽で 50人の娘が売られていったという。



《宣教師による奴隷貿易廃止の訴えと廃止への動き》


ここで、付け加えなければならないことがある。


それは、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものとし、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたという。


1571年に、ようやく当時のスペイン王から、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功したが、残念ながら奴隷貿易の根絶には至らなかった。


宣教師の中には、キリスト教の教えを広めること、ミッションのために生涯を捧げた聖人も、確かに存在していたということの証といえよう。


そして、ついに秀吉も動き出す。



《秀吉の対応「バテレン追放令」「禁教令」発布》


1587年、秀吉が、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書「伴天連追放令」を発布

1595年、ポルトガルで中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定

1596年、サンフェリペ号が漂着



1596年、秀吉が「禁教令」発布

1597年、フランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人   

                「日本二十六聖人」を処刑



《秀吉にキリシタン弾圧を決意させた理由》


秀吉は、南蛮貿易においてもたらされる利益を考え、また、自身の部下にキリシタン大名が多いこともあって、なかなか厳しい措置を取れずにいた。


しかし、ついに弾圧に舵を取り始めた。


主な原因とされているのは、以下の三つ。


①日本人奴隷売買の横行による社会的腐敗の進行


秀吉の言動を伝える『九州御動座記』では、

「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」と記されている。


こうした南蛮人の蛮行を見ていた日本人までもが、自分の親を売り、妻子を売り始め、秀吉が明国征服を掲げ朝鮮征討を強行した際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあったという。


検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとっては、そんな社会的秩序の崩壊が何よりの脅威であった。


②イエズス会日本支部の準管区長を務めたガスパール・コエリョの責任転嫁


当時日本にいたキリスト教宣教師のトップ・イエズス会のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりをルイス・フロイスの記録 (ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫より)

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」


秀吉が、日本人の奴隷売買をやめさせるよう要望し、「連れ戻すために必要な金額を払うので、連行していった日本人を返して欲しい」と伝えたが、コエリョは取り合わず、「我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題がある」とした。


③サンフェリペ号漂着の際の航海士の言動

スペイン商人のアビラ・ヒロンが著した「日本王国記」に注釈を添えたイエズス会宣教師ペドロ・モレホンによると、


サン=フェリペ号の航海士たちは、

「我々は世界中と取引しようとしている。もし我々を挑発すれば、領土を奪う」

と奉行を挑発した。


これを聞いた秀吉は激昂し、京都とその近郊にいた宣教師やキリスト教信者を捕らえ、長崎で磔刑に処したという。



《日本が植民地にならなかった理由》




こうして、この時期、日本は植民地化を免れたわけであるが、これは秀吉がとった政策だけが理由ではなさそうだ。


日本には、多くの南蛮人が訪れ、それぞれに日本全体の実情を分析していた。


そして、日本の植民地化は、これまで他地域で行ってきた方法では困難であると悟ったことも大きい。


①この当時の日本は戦国時代で、日本の刀や鎧は秀逸であった。


②1543年に種子島に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始。 


 以後、急速に鉄砲は日本各地に広まり、世界最大の武器輸出国となっていた。


 1597年、イタリア人カルレッチの書簡には、「(日本には)攻撃用、防護用のありとあらゆる武器があり、この国は世界で最大の武器供給国だと思う」と記されているという。


③当時、多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本各地に何名もいた。


④当時の日本人武士の戦闘能力、精神性が、南蛮人を恐れさせた。


と書くと、「軍事力こそが世界平和をもたらす唯一の道」といっているかのようであるが、決してそうではない。専守防衛という道もある。



この後、秀吉は各地の大名を肥前国名護屋(佐賀県唐津市)に集め、朝鮮出兵を行なっている。


刀狩りをし、検地を行なって、国を治めて行こうとする者の所業とは思い難い。


その理由として、南蛮人の植民地化を牽制するため、先ずは朝鮮を征し、その背後にいる明国を征することを考えたとしている向きもあるが。


いずれにせよ、朝鮮出兵以前のこの時の秀吉の対応には、間違いはなかった、そう思いたい。



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最後に、スペイン、ポルトガルによる日本侵略と奴隷貿易の史実としての裏付けとなる書面を紹介したい。


《宣教師の日本侵略計画》


①織田信長と親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニが、1582年12月14日付で、フィリッピン総督宛てに送った書簡


日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」

(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店より抜粋)


ここでは、日本征服について語られている。



②イエズス会日本準管区長のコエリョが、1585年3月3日付で、フィリピンイエズス会の布教長宛てに送った書簡


「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、シナを征服することができるであろう」


日本をキリスト教国にすることで、国民を意のままに操り、スペイン領として占領してから、中国征服を画策している。



《書面に残された日本人奴隷》


①イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録


「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却。その後、肥後では飢饉と労苦に悩まされ、買い取った人々を養えず、捕虜は家畜同様に島原半島に連れて行き、豊後の婦人や男女の子供たちを、四十名を一纏めにし、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」 (「完訳フロイス日本史8」中公文庫より要約)


日本人が捕虜とした婦人や子供を家畜同様に売り払う様子が記されている。


②秀吉の祐筆・大村由己が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯を記録


「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候」