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小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑪ ブログ版

2019.05.13 22:59





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部暴力的な描写があります。

御了承の上お読み進め下さい。





死体はすでに取り除かれていた。血痕の始末は手をつけられてさえいなかった。壁に、脳漿かなにか、肉片のようなものを散らして、血が半ば乾いていた。悲惨な風景だ、と、ハオはいまさら想ってタオを振り向くと、タオは盛んに自分にだけ話しかけていたサンに、ただ、うなづきながら沈黙を守っていた。ハオを横目に窺いながら。

凄惨な殺戮現場にハオの精神状態を、あるいは案じているのかもしれなかった。

敬意官たちは複数名、それぞれに仕事らしきものをしてはいた。ときに、煙草に火をつけながら。

タオに、言うべき事は何もなかった。サンが何を言おうが、ここで何が起きたのか、それはサンよりむしろ自分のほうがよく知っていた。自分の眼差しが見い出していた風景を、タオはサンにはあくまで秘密にしておいた。

先導されたわけでもなく、ハオは階段を上がって、サンとタオは従った。途中で、警官に下から声をかけられたので、サンは大声を上げながらそっちの仕事の方に身を投じた。

三階に至るまでの階段の、壁や手すりのいたるとこに銃弾がえぐった傷痕が散乱していた。猫か何かのもの音か、鼠の、あるいは何かの気配か、気配の錯覚が、彼らを無駄に発砲させたに違いなかった。そのときの彼らの混乱が察せられる気がし、たどりついた三階の仏間は、銃弾を喰って摺りガラスのように罅にかすんだ正面の窓ガラス一杯に、血痕を派手に散らしていた。

よく、窓ガラスは粉砕しなかったものだと想った。たまたまなのか、そんなものなのか、いずれにしても、無数の男たちがひとひとり銃弾でひとりの男の肉体をハリネズミにして仕舞いながら、ガラス窓はひび割れを無数に刻んだだけでそこに、血痕の色彩を逆光の中に、大きく手を広げて飛び上がったような、そんなかたちを曝して拡がってた。

荘厳な風景である気さえした。死体はなかった。ただ、壁に血を飛び散らせ、床に引き摺られた血のあとをそのままこびりつかせている風景の中に、血に汚れたシーツにそのままにチャンはうつ伏せに寝転がって、そろえて反対を向いていた手のひらに、日差しはそっとふれていた。

ガラスの血の色彩を通り抜けて、それとなくその色彩を感じさせないでもない暖色に翳った気配を潜り抜けた無垢なそれ。淡い翳りが、素直に日に直射されているだけ筈のチャンの着乱れて肌の半分を曝した背面に繊細な濃淡をつけていた。タオは一瞬、息を飲むと、短い茫然自失のあとで、不意にチャンに駆け寄って彼女を仰向けになおした。自分より明らかに大きく、成熟した身体を曝す彼女の力尽きた肉体の重量に梃子摺りながら。

手伝ってやろうとしたハオを、獲物を奪われることを拒否した猫のような仕草に鋭く拒絶して、あくまで自分だけの仕事としてやりおおせたのは、あるいは、タオの、自分はもう子どもでは無いという矜持だったのか、それともチャンのあまりにも女性的な身体に彼を指一本たりともふれさせたくないという、たんなる(…チャンをふれさせたくないという?)少女の嫉妬あるいは倫理観のなせる業だったのか。

いずれにしても、彼女の生みの母親なのだから、たしかに彼女が世話してやらなければならない問題であるには違いなかった。

チャンをひっくり返したとき、その上半身を見たタオが、想わず悲鳴をあげそうになったのをハオは見逃さなかった。見逃しようなどなかった。何を想うというわけでもなく、ただ眺めていただけには違いなくとも、彼はタオを見つめていたのだから。チャンの顔から胸元にかけて、おびただしい血痕が黒ずんで彼女を穢していた。…生きてるの?

想った。

「死んでる?」

ハオは、想わずつぶやいて仕舞った言葉に、タオが振り向く余裕さえなかったその幼い心の動揺を、哀れんだ。

悲しみ、ただ、いとおしむ。タオはまぶたを震わせて、そして彼女が生きている事はふたりともすでに知っていた。

なぜなら、チャンの腹部はしっかりと呼吸を刻み、さらにはタオにいたっては、その腕に抱いたチャンの体温をしっかりと感じっていたのだから。

ふたりとも、彼女がいまだに、まさに生き生きとそこに生きていることを知っていながら、それに気付かないままに血管の中に冷たくふるえる疑問符とともにおののき、おびえながらその生存痕跡を眼差しのうちに確認しあっているのを、そして、日差しが翳る。

上空を急激に流れる雲のせいに違いない。淡い翳りはチャンの身体のみならず、タオの、あるいは空間の日差しがふれるそこすべてに、ゆらめくような細かな無数のざわめきを与えて、その光にふれた空間に、と。

ハオは想った。窓枠と壁の作った室内翳りの中に立ちつくしたハオは、背後の仏壇に背を凭れながら、俺もふれるに違いない。

…と。あと、もう数歩、その光の中に歩み出して仕舞えば。それら、彼女たちの肌を直射する光に。その容赦ない現実が、なにか途方もない真実を兆している気がした。兆された真実などどこにも在りはしない事などすでに知っていた。いずれにせよタオはハオを見あげた。

タオの、上目に、縋るような切実な色合いを持った眼差しがハオを直視していた。そして、数秒の後、ものの見事にその危機を訴える眼差しは崩壊し、…生きてるわ。

いぃでっ

死んでない。…まだ、…「生きてる?」問い返したハオの言葉にタオはうなづきもしない。…生きてる。

いぃでっ

ハオは、タオのためだけに微笑んでやった。

チャンを連れて行くと言い張ったのはタオだった。

一階の、惨殺現場の奥のキッチンスペースに押し込まれたテレビはだれも見ないままにつけっぱなしにされていて、各地の惨状を画像なしで伝えているようだった。現地画像など入手できなかったのかもしれない。チャンの連行に激しく抗議するサンに、タオは従おうとはしなかった。驚くほど頑なにタオは、そして、北京、東京、広島、ロンドン、ニューヨーク、ワシントン、台北、バグダット、ピョンヤン、ローマ、パリ、モスクワ、…それら、いくつもの都市の名前が連呼され、さまざまに、なにを言っているのか理解できないままハオに、どうしようもない切迫感をだけ伝えていた。映る画面はほとんど変わらない。音声で通信するどこかの都市の生き残った特派員かなにかの情報に、アオヤイを着たアナウンサーがうなづきながら、ときに質問を投げるだけだ。たぶん、彼女に言獲ることなど決まってる。…そちらの現状はどうですか?

はい。ひどいです。

事件の詳細情報など、どこにもないに違いなかった。爆弾を投下した軍隊自体が、作戦完了とともに基地を爆破のうえ集団自殺を果たして仕舞えば、情報など憶測以外には一切残らない。

結局は、自分の身の破滅の決定した瞬間を、生き残った人々はその眼には確認することなく、その、灼熱の閃光と熱波のなかで、文字通りを身を焼かれ砕かれた人々は、結局はなにが起きたのかその認識を果たす暇さえなく死んでいく。破滅の決定的な瞬間は、だれにも取り逃されてされていまや、人間たちの世界はその息の根を止められていた。人間たちの世界がとっくに滅びているというのに、生き残っている自分たちは、あるいは人類のまがいもののゾンビなのかもしれないと、ハオが声を立てて笑って仕舞いそうになった瞬間に、ハオはいきなり腕をつかまれた。

ハオは腕を、暴力的に引かれて面食らう。…なに?

と、想わず声が出て仕舞う寸前に見留められたサンの、あからさまに憤慨を曝して、怒りを隠そうともしない追い詰めらた眼差しを、突きつけられた至近距離に見た。…この、…

「…糞野郎が。」

と、その眼差しが日本語をしゃべり始めたならば、そう言ったのだろうか?

殴りかかってくる気配は無い。ただ、サンは怒りを表明することにだけ、満足してた。その向こう、肩越しに耐えかねて、泣き出して仕舞っていたタオのふるえる小刻みな肩のゆれがあった。

数秒間しかもたなかった凝視の後で、サンはハオの肩を小突いて、肩を怒らせたままに表の方に出て行った。そこにまばらに集まっていた生き残りの人々に、タオと彼女が連れてきたわけのわからない異国人をなじりたおしてやらなければならない必然があったのか。それとも、単に煙草にでも火をつけるつもりなのか。

ハオは、ややあって、うつむいて、肩を揺らして泣く、傷付いたタオの頭をなぜてやる。それが、ここでは軽蔑的なジェスチャーを意味するとは知っている。でも、と。

ハオは独り語散る。…知ってるか?

これはあくまで癒しのジェスチャーだ。…自分の頭の中でだけ。そして、その、あまりにもやさしい軽蔑的なジェスチャーに、タオは反応を示さない。

二階のバスルームで、チャンの体を洗ってやったのはハオだった。その、ふしだらなほどに美しく成熟した身体に、彼の指一本ふれさせようとしなかったタオはいまや、その体を穢した血痕におびえて、チャンには指一本ふれることが出来なかった。

腕に抱いて、彼女の虚脱した身体のあまりにも素直すぎる重量に苦闘しながらなんとか、ベッドから引きずり出して、そこの床の上に立てさせることに成功すると、ハオは自分でも不意に声を立てて笑う。…やばっ

「…成功。」

仏壇に線香を供えるのに忙しい振りをして、一切そっちのほうに目線を投げようとはしないタオは、ただ、その自分が知りもしない語彙に、いちいち反応を曝してやるすべもない。

Tシャツは血に塗れている。サンリオの、色あせたTシャツ。純正なのだろうか。コピーなのだろうか。いずれにしても、サンリオのキャラクターのデッサンには一切の狂いもない。

おびただしい、他人が流した血の血痕を黒く干からびさせながら。

穢い、チャンの体臭以外の匂いをかならずしもさせているわけではなかったものの、どうしようもない臭気に倦んでいた気がしたTシャツを剥ぎ取るようにして脱がせると、そして、猫が鳴いた。

振り向いたそこに、黒猫がいた。紛れ込んだのか、あるいは、ときにここに訪問するのが彼女の日課だったのか。

性別など、ハオは知らない。とは言え、彼女は雌以外では在り獲ない。かならずしも社交的とは言えず、むしろ、ただ単に人間関係にだらしなく甘ったれているだけで、そのくせちょっとのことでおびえる極端な繊細さを持ち、信じやすく、やさしく猫風の鳴き声で話しかければ、なにを言われているのかわからないままにとりあえず接近を試みて仕舞う。わがままで、そのくせ媚びることにだけは容赦がない。そして、一日中でも喉を鳴らしながら手のひらでの、全身へのくまない愛撫を求め、その眼差しは、捉えた巨大な毛のない生き物が、自分を幸福にするためだけに生きていることを確信している。…そんな、雌に固有の気配が、その眼差しにはあった。

猫の雄はもっと孤独で、もっと素直に獣じみている。彼らは留保なく赤裸々に、且つ抽象的に美しい。雌たちは、知性を感じさせないほどに愚鈍で、敢えて愚鈍であり獲るほどのあざやかな知性を常に曝している。猫らしい猫であればあるほどとても猫とは想えない。だから、どこかで魔性の、この世界のどこから来た生き物のように思える。たとえ、彼女がいかに、ふしだらに一日中愛撫をだけもとめて、これ見よがしに周囲のあらゆるものにその身をなでつけるだけだったとしても。そして頻繁に、撫でる愉楽の手のひらに咬みついては拒絶し続ける日課に淫するだけだったとしても。

黒猫は鳴かない。

あきらかに彼女は、ハオを避難していた。…お前、…

誰だ?…と。

むしろ男言葉で。

その毛並みの光沢の美しさに迷いはなかった。

瀟洒なアクセントとして、胸にだけ白い小さなネックレスをぶら下げた、純粋な黒の色彩。日光を浴びたその先端に、反射した図太いまでにあざやかな白光を揺らめかせて、たしかに、美しい。

猫を触ろうとしたわけでもなく、なんとなく彼女に向けて差し出されかけた、ふとしたハオの指先の、その動きが猫の眼差しを威嚇し、彼女は短い疾走を見せてタオの眼差しの範囲を侵した。

足で床を鳴らして、あっちへ行け、と、無言で命じたタオには猫は従わない。彼女は知っていた。その距離は、差異する。

その距離にあるかぎり、あなたは私を殺すどころか、ふれることさえできはしない。速度を持たない愚鈍なあなたは。

…その距離は、捕獲とも屠殺とも明かに差異している。Tシャツを剝いて、曝されたその色彩。

チャンの肌は、透き通って瑞々しく、ただ、美しかった。それは、血の黒ずみに薄汚れたTシャツとの対比が、より一層際立てたのかもしれなかった。血にも一切穢されてはいない。確かに、美しいと、そう言って遣らなければならないことをハオの眼差しは確認し、不意に見あげて仕舞ったチャンの、両眼のまぶたを不自然に陥没させた顔は、日に焼けて乾いた血に黒ずんでいる。

パンツを脱がそうとした瞬間に前のめりに倒れこんだチャンの、力のない全身をハオは肩に受け止めて、そしてハオはそのまま、チャンの身体をシャワールームに連れて行った。

干からびた血は血のようには見えない。とは言え、ひとたび水にふれて仕舞えば、それがあまりにも、もはや絶望的なまでに血そのもの以外のなにものでもなかったことが改めて、赤裸々に明かされる。

…そう、想った。

ハオは、シャワーのノズルが水流を噴き出して、それをチャンの頭から被せた瞬間、そしてチャンは喉から野太い雄たけびを、…悲鳴を?

チャンは声を上げていた。頭に水の先端がふれた瞬間に。その、獣じみた声。それが自分の声に違いない事など知っている。チャンは。男の声のような、と、チャンは、そして、聴き取られたもの。その声の主は明らかに恐怖していた。恐れ、おののき、おびえ、痛みにのた打ち回って、…逃げなければならない。

なぜ、それを知りながら、そこで彼女が叫んでばかりいるのか、それはチャンにとって解きほぐし難い謎以外のなにものでもなかったが、叫ぶ。いま、と、わたしは、と、チャンは叫んでた。殴った。

シャワーのノズルで、喚き散らすチャンの後頭部を殴ったハオは、前のめりの身をへし曲げて、それでも倒れずに立ったままでいるチャンの、突き出された尻さえ蹴飛ばしてやろうと想いながらも水流をぶちまけた。

その、弛緩した白い尻の投げやりなふくらみに向って。流れる。

血は、ふたたび自分が血だったことを自覚して、床に、ざわめき立つ水流にまじわりながらも交わりきれもせずに、あわただしく流れていた。それら、チャンにとっての他人の血は。

あるいは、ハオにとっても他人の血は。

それはだれにとっても他人の血だった。蘇った、と、ハオは想い、血。

血の海が足元に広がっていた。

どこまでも遠く、地獄の風景?…と。

そう想った瞬間にそんな妄想をみずからあざら笑う。地獄はもっと凄惨であるべきだ。

苦痛にのたうつ、叫び声もなければ泣き声も、喚き声もなにもない。

血の海。遥かなる、…と、それは破壊された風景なのだろうか?追い詰められた命の最後の純粋な風景なのだろうか?

いずれにせよ、その回答など想いつけもしないままに、そこに浮んでいる少女を、ハオはすでに見つけていた。

首だけを水面に曝してた少女の、その首の下に胴体があるのかどうかは、ハオは知らない。

ない、と。

そう想ったほうがたぶん、合理的な気はするものの、おののくような、表情以前の筋肉の停滞を曝して、気付く。

表情も何もないとき、骨格は、それこに表情が、それでもあるに違いないと探りを入れる眼差しには、おののきと了解されるほかない形態を、それは持っているのだろう、と。

光が差す。

あまにも絶望的な風景だったが、その少女のまぶたには光が触れているのだから、一面に白濁した空の、光のわななかないその上空の一点の、そこにだけは雲の切れ目があって、そこには空の、上空の青が無造作に曝されていたのかも知れない。

ハオはそれを見なかった。見上げなかった。ただ、彼女のまぶたにふれていた光の強い、そしてちいさな白濁に、それを確認しただけだった。そして、…と。

彼女は追悼された、と、鳥葬。

内庭に鳥はいまだに訪れない。

野晒しのみっつの、お互いにかさなったうつ伏せの遺体を、そして、弔いの声。

ジャンシタ=悠美の葬儀がキリスト教に様式にのっとって行われたに違いない事は、知っている。

彼らはなにを弔ったのか。なにを、弔い獲たのか。

14歳のジャンシタ=悠美は、床に顔を自分でぶつけながら、自分の顔面を破壊しようとした。食物の摂取を拒否した少女。