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中納言良房 1.若き反逆者

2010.04.30 11:00

 藤原氏の確立した摂関政治と、徳川氏の確立した江戸幕府。この二つはともに最高権力を継続するシステムとして二〇〇年以上の寿命を持ったが、この二つの政体を比べた場合決定的な違いが存在する。

 それは後者が完全な世襲で、後継者が前歴や年齢に関係なく自動的に前任者の地位を継承するのに対し、摂関政治の場合、後継者に指名されても前任者が就いていた地位を自動的に継承できるわけではなかったということ。

 藤原氏の場合、親が有力者であるという要素は、あくまでも優位なスタート位置、言うなればポールポジションなだけというだけで、ゴールにたどり着くには自分でレースに勝ち上がらなければならないという特色があった。

 勝ち上がらなければならないのは当然で、徳川氏は他に並び立つもののない絶対権力であったのに対し、藤原氏は数多くの家系の一つであって、権力者を多数輩出している名門家系ではあっても、自動的に権力が手にし続けられる絶対的な家柄というわけではなかったから。つまり、現実はともかく、理論上の藤原氏は、橘氏、伴氏、清原氏、菅原氏、源氏といった家と同列の朝廷に仕える数多くの家系の一つにすぎず、その権勢も藤原氏であるために手にしたのではなく、個々人の実力で手にし続けていたということになっている。

 その意味で、藤原氏の摂関政治はシステムとして不完全である。有力者の子であろうと他の者との競争に勝たなければ権力者となれないのだから、世代を越えた政治の継承という点で問題がある。それでもシステムが強固なものとなった一〇世紀後半ならば継承に不具合は出なかったが、摂関政治の概念がまだ登場していない冬嗣の死のタイミングにおいては、権力の継承そのものが困難であった。

 それまで権力を握っていた冬嗣の死は、朝廷内における権力がリセットされたことを意味した。

 冬嗣が亡くなったとき、長良と良房の兄弟はたしかに貴族としてデビューし、二人の妹の順子は皇太子正良親王に嫁いでいた。しかし、兄弟はあくまでも数多くの貴族の中の二人であり、冬嗣の子、皇太子の嫁の兄、また、良房の場合は嵯峨上皇の婿という要素はあっても、それが冬嗣の政治の継承や、彼ら二人の将来の安寧を保証するものではなかった。

 この物語は、二二歳で父を亡くし何ら権勢を持たない一貴族となった藤原良房が、三八歳で権勢を掴むまでの一六年間を記すこととなる。


 天長三(八二六)年七月二六日、亡き冬嗣に正一位が与えられ、遺体は山城国愛宕郡深草山に葬られた。

 父の死の喪に服すため、長良と良房の兄弟は宮中より姿を消す。

 冬嗣が父内麻呂の死に伴い喪に服したときは国政に影響を与えたが、兄弟が喪に服した今回は、末端の貴族一人(=長良)と、蔵人の一人(=良房)が喪中なだけという扱いとなっている。つまり、理論上、国政への影響はとりたてて存在しないこととなっていた。

 ただし、理論上はどうあれ、事実上は淳和天皇にとって痛手であった。

 蔵人としての良房は、蔵人頭である藤原吉野よりも頼りになる存在であった。

 また、ともすると起こりうる貴族間の反目を抑える役目を担うのに長良以上の人材はいなかった。

 「今は緒嗣どもの時代か。」

 葬儀を終えてひと段落ついた後、良房は父亡きあとの朝廷がどうなったかを省みた。

 「緒嗣だからどうだというわけではないだろう。経験を積んだ者たちだ。誤りがあればそれを正し、そうでなければ父上と変わらぬ政(まつり)をするさ。」

 長良は弟を諭すように言った。

 この兄弟の性格ははっきりとしている。

 温厚な性格で誰とでも打ち解けるため、最初から敵を作らない兄の長良。

 父冬嗣を丸写ししたかのような性格で、次から次へと敵を作るだけでなく、敵は永遠に敵であり、敵はただ打倒するための存在で決して融和するものではないと考える弟の良房。

 この兄弟のうち、冬嗣は弟の良房のほうを自身の後継者に指名していた。

 自分に似た性格だからということもあるだろうが、もう一つ、トップに立つ者が持たねばならない冷徹さを良房は持ち合わせていると考えたからではないだろうか。

 政治は時に非情にならなければならないときがある。

 国民の支持が低く反発を受ける政策であっても遂行しなければならないとき、支持を優先にして政策を後回しにしたり廃棄したりするのはかえって事態を悪化させるもの。こういうとき、政治家は支持を無視する冷酷さを持っていなければならない。

 長良は敵を作らぬ温厚な性格であるだけでなく、人情味あふれる若者として他の貴族や庶民の支持を集めていた。だが、長良には、そうした自分への支持を裏切ってでも自分の考えを貫き通す冷徹さがなかった。

 良房にはそれがあった。

 自らの地位を継承する者として兄ではなく弟を選んだのも、父としてではなく統治者としての判断によるものだろう。

 ただし、それまで自分が就いていた地位、すなわち、常設の最高官職である左大臣の椅子を用意したわけではない。

 用意できないのは当然で、朝廷の官職というものは後継者に自分の子を指名できるような仕組みにはなっていないから。死や辞任による空席ができたときにそれを埋めるのは一個下の官位の者であって、有力者の子がその地位を埋めることがあるとすれば、ごく一部の皇族出身者を除いて、空席になったときにそこまで出世していたケースでしかありえなかった。

 冬嗣にできたのは、スタートの段階で貴族の末端である五位に就けさせたことと、兄弟にとっては妹にあたる順子を皇太子に嫁がせたところまで。それより上に進むには、父や妹の威光というプラス要素を加味してもやはり自分の実力に頼るしかなかった。

 冬嗣亡きあとの朝廷で勢力を持つようになったのは、緒嗣や吉野といった冬嗣と対立していた貴族や、良房が敵と睨んだ学者たちであったが、彼らの素養と兄弟との素養に大した違いはない。

 受けた教育のレベルについてもそうだし、文章を書かせても、文章を読ませても、長良や良房は学者たちと同レベルのものを記すことができる。

 この時代にも大学はあり、大学を出ることは貴族になる第一歩でもあった。法に従えば、家柄に関係なく、大学を出ることが貴族になる必要条件であったが、時とともに有力者の子弟は例外とされ、大学を出ることなく貴族となり出世街道を歩むことができた。

 こうした世襲に対する反発は学者側から強く向けられていた。

 自分たちは苦労して勉学に励む青春を過ごし、やっとの思いで大学を出てから朝廷に入り、そのあとも競争に勝ち抜かなければ貴族になれないのに、有力者の子に生まれた者はそんな苦労もすることなく遊びほうけた青春を過ごしつつ、ほぼ無条件で貴族になれる。

 この反発に対する冬嗣の態度は二つ。

 一つは、大学が形骸化して人材育成の役を果たしていないという彼らを見下した態度。

 もう一つは、大学に通わなくても貴族として通用する人材育成は可能とする大学そのものを見下した態度。

 そして、この二つの態度の合わさった結果が子供たちへの教育となった。

 大学では古典を学び、見事な文章を書く方法を学ぶ。

 しかし、これは素養であって実践ではない。素養とは、あって困るようなものではないが、政治家としてなければならないものでもない。

 つまり最優先すべきものではない。

 大学で古典や文章術を学んだからといって、卒業してすぐに政治家としての職務を果たせるわけではない。帳簿を見て財務状況を把握することも、誓願を聞き入れて決断することもできず、ただ古典として学んだ素養だけを頼りに貴族の仲間入りをされても役立たずでしかない。

 冬嗣は明らかに大学という組織を、そしてその出身者を見下していた。時間を掛けて知識を身につけても何の役にも立たず、ただ理想を述べて議論するだけの貴族たちを目の当たりにしてきた結果であろう。

 そのため、冬嗣は長良と良房の二人の子を大学に入れていない。

 しかし、何の教育もしていないわけではない。

 冬嗣が子供たちに課したのは家庭内の教育であった。

 法を学び、帳簿を学び、財政を学び、歴史を学ばせた。

 古典や詩歌も学ばせた。それも、大学で学んだ者と対等に渡り合えるだけのレベルで学ばせた。

 二人が朝廷入りしたとき、大学出の貴族たちは大学を出ていない彼らが自分たちと対等に渡り合える素養を持っているのに驚いたが、良房は逆のことで驚いた。

 大学のレベルはこんなものなのかと。

 古典や詩歌などは、自分たち兄弟にとっては学んだことの一部でしかないし、朝廷内で使うとすればせいぜい雑談程度で、実務とは何の関係もないものと考えていた。その何の関係もないことが大学で学んだことの全てだというのである。

 この時代の大学は以下のようになっていた。

 一般に「大学」と称され当時の記録にも「大學」と記されているが、正式な名称は「大学寮」。人事を司る式部省の配下に置かれ、大学生は法律の上では式部省管轄の役人と同じ扱いとなっていた。そのため、仮に犯罪をしでかして逮捕された場合、一般庶民ではなく役人としての判決が下った。

 この時代の「寮」というのは現在の「庁」に該当し、省の下にある官庁という意味であり、「大学寮」を意訳すれば「人事を司る式部省に附随する官僚養成部門」となる。もっとも、現在の「大学」と同じと考えるほうがわかりやすいだろう。

 今の日本は全国津々浦々に大学が存在するが、この当時は京都にただ一箇所あるのみ。

 大学に入るのは、法の上では一〇歳からであったが、実際は一七歳からになっている。修業年限も法の上では九年間だが、実際は四年間に縮んでいる。この修業年限を終えた後に卒業試験である「試問」が行なわれ、八割以上の得点をとると式部省の実施する採用試験を受験でき、ここに合格して八位から初位という役人になれる。

 時代とともに学科の統廃合と分設が行なわれたが、この時代は文学を学ぶ「文章(もんじょう)道」、法律を学ぶ「明法道」、哲学を学ぶ「明経道」、歴史を学ぶ「紀伝道」、数学を学ぶ「算道」の五つに分かれていた。

 一学科につき一棟の建物からなっていて、同じ建物内に教室や研究所、そして、大学生たちの寝食の場があった。

 大学生は基本的に大学内で生活をする。中には大学の敷地の外から通う者もいるがそれは有力貴族の子に限定される。ただし、当時の市や風俗街に大学生が足を運んでいたという記録があるので、敷地の外に出るのが禁止されていたわけではないようである。

 大学を統括するのが「大学頭(だいがくのかみ)」で現在の大学の学長に相当する。各学科には教鞭を執る「博士」、現在の大学における教授にあたる研究者が配置されていた。また、修業期間を終えても大学に残って研究につとめる、現在の大学院生にあたる「得業生」もいた。

 その大学出の貴族が朝廷内で一定の権力を握っている。それは律令で定められているからでもあるのだが、冬嗣にとってそうした大学出の貴族は障壁にしか感じられなかった。

 彼らの主張するところは自分の考えと大きな隔たりがある。

 要するに理想主義的で現実とかけ離れているのが彼らの主張するところ。

 冬嗣とて当初はそうした理想主義的な貴族の一人であったのだが、奈良の勢力を滅ぼして実権を握ったあとの冬嗣にそうした理想主義は許されなかった。

 いや、最初は理想主義でいこうとしていたが、相次ぐ不作と戦乱が理想主義という贅沢を許さなくなっていた。

 冬嗣の本心は理想主義だったのだろう。この人の現状認識力の低さも現実より理想を優先させる人によく見られることである。それでも現実に目を向けることはしたのだが、対策がその場しのぎで結果が伴うものではなかった。

 ここで悟ったのではないのだろうか。

 自らという人間を作り上げてきた教育は何だったのかと。古典を学ぶも良い。詩歌を学ぶも良い。だが、現実を見る訓練を積んでいない。貴族の学ぶ学問と家柄、そして嵯峨天皇との出会いという幸運が冬嗣を有力者にさせたが、有力者たるに必要な知識を自分は身につけていないではないか。

 それを繰り返してはならなかった。

 子供たちに英才教育を施し、長良と良房の二人が朝廷入りした後は、その教育プログラムをシステム化して、藤原家のみが通うことの許される学校、「勧学院」を設立した。

 勧学院は大学で学ぶ内容に加え、統治者としての現状認識力を身につけることに主眼が置かれていた。今でいうところの「実学」か。

 しかし、皮肉にも冬嗣と最も対立したのが同じ藤原の者である。藤原仲成は死刑にすることで最終解決を成したが、藤原葛野麻呂との関係は葛野麻呂が死ぬまで緊張が走り続け、藤原緒嗣とはことあるごとに対立し、藤原吉野は冬嗣と真っ向から逆らっていた。

 冬嗣の死後、頂点に立つことになったのは右大臣の緒嗣であり、蔵人頭の吉野である。彼らは大学を出たこともあり、大学出の学者たちを従えることに成功していた。

 しかし、国家権力の全てを握っていたも同然の冬嗣の死である。いかに派閥を作り上げていようと、権力を巡る争いが起こらないとすればそのほうがおかしい。

 一二月二七日、淳和天皇の詔(みことのり)が発せられた。

 七月からこれまでの五ヶ月間、貴族たちから奏せられた文書の中に慶雲(めでたいときに現れるとされた雲。この当時、この雲が現れるのは名君の時代とされていた)の喜びが記されていた。

 それも相次いで記されていた。

 これに淳和天皇は当惑した。

 自分はそんな名君ではない。冬嗣亡きあとの半年間、これといった政治を行なっていないではないか。京都の町中に餓死者が続出していることや、地震や大雪といった自然災害が続きながらも何の対策も打てていないではないか。これが、冬嗣の欠けた朝廷であると淳和天皇は認識していた。

 生前はさんざん冬嗣を非難してきた市民たちだが、今となって亡き冬嗣を懐かしみ、冬嗣存命中ならば少なくとも施(せ)があったことを語り合っていた。

 これを淳和天皇はわかっていた。

 九月には充分な量の配布ではないにしても施をした。

 しかし、冬嗣存命中から続いてきた経済危機は、回復の兆しを見せるものの完全なる回復とはなっておらず、平安京の道ばたにホームレスが座り込んで時を過ごす光景が日常になっていた。

 これでどうして自分を名君だなどと言えるのか。

 だが、右大臣にまで上り詰めていた藤原緒嗣は違った。

 天の言葉は瑞祥(めでたいことの印)で現れると主張し、慶雲も聖人登場のサインであるとした上で、数多くの瑞祥を示した。

 七月七日、筑前国那賀郡に慶雲が現れた。

 七月一六日午後四時頃、五色の雲が豊楽殿の西に出現した。

 八月二八日に紀伊国海部郡賀多村の伴島に慶雲が現れた。

 緒嗣はこうした瑞祥こそまさに天が淳和天皇を祝賀している証拠と主張し、豊楽殿に現れたのは国内が喜び楽しんでいることを示し、伴島に現れたのは淳和天皇の名、大伴に基づいているとした。

 七月から八月にかけてこうした瑞祥が次々と報告されてきたのは理解できる。

 それは冬嗣の死が現実味を帯び、冬嗣が亡くなった時期である。ということは、左大臣職が空席になったということであり、大幅な人事異動が起こるであろうことが予感される時期だということでもあった。

 ここで淳和天皇の気分を良くする報告を中央に挙げれば、今回の人事異動で淳和天皇に大抜擢され、これまででは考えられなかった地位が手に入るかも知れないという考えが広まっていた。

 京都で見られた五色の雲などは所詮虹のこと。それ以外の瑞祥は確たる証拠がないから虹かどうかわからないが、なんにせよ年に何度か起こるであろう通常の気象現象だったのだろうし、通例ならば取り立てて大きく取り上げなければならないほどのことでもなかった。


慶雲

 ところが、気象現象としてはよくあることでも、大幅な人事異動となるとそう多くあることではない。下手すれば生涯に一度あるかないかという大チャンスである。

 おそらく、緒嗣が取り上げたほかにも数多くの瑞祥の報告が淳和天皇のもとに届いてきていたであろう。

 だが、瑞祥の記録が届くことと、それに応えることとは関係ない。

 淳和天皇は生真面目な人であった。そして、こうしたゴマスリを嫌う人でもあった。

 彼らにしてみれば自分の一生を左右する絶好のチャンスだから淳和天皇がどう応えるのかずっと待ちわびていたのだが、淳和天皇はそうした思いを無視し続けていた。要はうんざりしていたのである。

 しかし、淳和天皇がうんざりしていようが、報告だけでなく催促が届き続けていた。

 そこで淳和天皇は声明を出すこととなった。

 自分は名君ではないということを題目に掲げているが、実際には瑞祥の知らせをもう送ってくるなという声明である。

 これに当惑したのが緒嗣である。

 順当に行けば右大臣である自分が最高官職である左大臣に昇格すべきところである。

 しかし、そうした動きが全く見られなかった。

 人事異動が起こらなかったわけではない。何人かの貴族がこの五ヶ月間で新しい地位に昇っている。

 このときの緒嗣は明らかに焦っていた。あと一歩でゴールにたどり着くというのにそのゴールがなかなかやってこない。自分の年齢を考えればそう悠長なことを言ってもいられない。

 そのタイミングでチャンスが巡ってきたかのように感じていた。今ならば貴族たちが待ちこがれている瑞祥を利用できると考えたのである。

 一日おいた一二月二九日、緒嗣は再度奏上した。

 そこでは、淳和天皇の謙遜する態度が賞賛され、民衆の暮らしを想いはかる姿勢が天に評価されたので瑞祥が現れたのだと主張。その後も中国の古典からの引用が長々と続き、最後は、この天の意志を反映させることが今まさに求められていることであると結んであった。

 この天の意志を反映させるということは、要するに「出世させろ」ということである。

 これには淳和天皇も心を痛めた。

 今までであればこうした大それた要求など冬嗣が握りつぶしてくれていたし、直接言ってくる者に対しては面を向かって罵倒していた。

 だが、もう冬嗣はいない。

 いくら次男の良房が冬嗣の生き写しであろうと、良房は蔵人の一人に過ぎず、その上、なお喪中として自宅に籠もりきり。蔵人のトップは蔵人頭の吉野、すなわち、今では緒嗣の腹心であることで有名となっていた吉野の手にある。

 本心ならば冬嗣のように握りつぶしたかった。

 しかし、淳和天皇はそれができる性格ではなかった。

 翌一二月三〇日、淳和天皇は奏上を受け入れた。

 瑞祥は自分のおかげではなく祖先の功績の発露であるとしながら、瑞祥に応えると宣言した。

 囚人への恩赦が決定され、死刑宣告を受けながら、死刑が廃止されたため収監されたままとなっていた死刑囚が塀の外へ出た。ただし、殺人、強盗、偽金作り、そして売国罪犯には適用されなかった。

 そして、慶雲を見た者が貴族や役人なら、それぞれの位に応じて一階級から二階級の出世が用意され、さらに、その子供も二階級の出世が決まった。

 見た者が一般市民なら、次の納税が免除されることとなった。

 また、慶雲に応えるとして、高齢者や身よりのない子供、そして障害者に対する穀物の現物支給が決まった。

 同時に、親孝行の子や祖父母を大切にする孫、良き夫、良き妻と判断された者を表彰するとし、その者は終身免税と決まった。

 これらはただちに施行されたのではなく、対象者の選定が終わった後に適用されるとなった。

 ここに瑞祥を巡る争いが始まった。

 淳和天皇はかなりストレスが溜まっていたはずである。

 藤原吉野をスカウトしたのも、蔵人頭に就けたのも自分である。しかし、冬嗣の死後、吉野は父の従兄弟である緒嗣のもとへと向かい、緒嗣の派閥の一構成員となって淳和天皇の思惑を外れてきている。

 かつての清廉潔白な駿河国司はそこにはなく、代わりにいたのは緒嗣の出世に尽力する腹心にすぎなくなっていた。

 いや、それは緒嗣や吉野だけではない。

 自分に寄り添っては出世を願い、おべっかを使っては特権を手に入れようとする者が宮中にも外にも溢れかえることとなった。

 冬嗣がそうしてきたように、これが人間としての本質なのだと考えて超然とした態度で君臨し、寄り添う者を一刀両断すれば解決するが、淳和天皇はそんな性格にはなれない。

 「主上の体調が思わしくないため、本日の朝賀は中止となりました。」

 翌天長四(八二七)年元旦、一月一日に執り行なわれる朝賀が中止になったという連絡が来たのは、朝賀のために貴族や役人が朝廷に集結したあとのことである。

 年末に発表された出世の予定、これを自分にも適用してもらおうと例年にない数の貴族や役人が宮中に集結していた。

 慶雲をここにいる全員が見たと言った。

 慶雲以外の瑞祥を見たという者も数多くいた。

 写真やビデオのある現在ではない。見たかどうかなどどうとでも捏造できるし、慶雲ではない何でもないことでも瑞祥とすることもできる。

 しかし、彼らの願いは叶わなかった。

 淳和天皇が病気を理由に面会を避けたからである。

 ただし、誰にも会わなかったわけではない。

 病気であったはずなのに、正月二日には親王や侍従と会って酒食の宴を開催し、翌三日には嵯峨上皇の子供たちを招いている。

 つまり、出世を求めない、あるいは出世を求めることの許されない立場の者とは会っている。

 会っていないのは出世欲に満ちた者たち。

 貴族と会ってその者より瑞祥を聞いたら、その者を出世させなければならなくなる。それは際限がなくなり、最後には国家経営を揺るがす事態となる。ゆえに、淳和天皇は貴族たちと会わないまま時を過ごすしかできなかった。

 しかし、天皇と会えない状況を「はいそうですか」と受け入れるようでは貴族ではない。

 今は瑞祥を淳和天皇にいかに進言するかの争いとなり、それを淳和天皇は病気を名目として拒否した。

 だが、貴族たちには、瑞祥がだめでも凶兆という手段ならば残っていた。

 淳和天皇の病気は、桓武天皇をまつるために東寺に建てた塔の資材を稲荷神社から切り落としたことの祟りであるとした。誰がそれを進言したのかは記録に残っていないが、淳和天皇にこれに反応を見せている。

 一月一九日、稲荷神社に対し従五位下の位が与えられた。もっともこれは名誉の称号のようなもの。

 いつまでもこの状態を続けるわけにはいかなかった。

 それは淳和天皇も理解していることだった。

 ただ、解決するためには貴族や役人を出世させなければならない。それがネックだった。

 出世は単に位が上がることを意味するのではない。出世させれば朝廷から支払う給与も増えるし、位に見合った新たな職も提供しなければならない。

 実力に応じた出世なら何の問題もないし、冬嗣の死去以後、実力による昇進は何人か成し遂げている。だが、今は、実力など関係なく、単に珍妙な雲を見たと言うだけの者に、それも一斉に位を与えなければならないという状況。名誉の称号の提供だけならどうとでもなるが、彼らは名誉だけではなく実利も求めている以上、その要望に応えることは国家経営の問題となる。

 淳和天皇は結局、一月二一日に四五人の貴族を出世させ、翌二二日には新たに七名の役人を貴族に加えた。それでも綱渡りに似たギリギリの選択だった。


 なお、このときの出世は外六位上から従四位上までの者については名が残っており、その中の一人に従五位下から従五位上へと出世した長良が含まれている。

 しかし、良房はここに名が乗っていない。

 名が乗っていないのは当然で、良房は瑞祥の宣言など何一つしていなかったから。何しろ、今は父の死に伴う喪中。瑞祥の報告自体許される環境ではなかったのだから。

 もっとも、長良もおそらく瑞祥の報告はしていなかったはずである。喪中なのは兄も同じ。

 「兄上が従五位上になられましたが、よもや兄上もわけのわからぬ瑞祥を叫んだのではありますまいな。」

 良房のその言葉は多分に冗談を含んだものだった。

 「良房は私がそのような人間に見えるか?」

 「いえ。」

 「今の地位になってからの歳月を考えれば、この時期に昇進することはおかしなことではない。それに、今回の件は主上の父上に対する思いがあるではないか。」

 「と言われると?」

 「今の宮中は主上にこびへつらう者ならば掃いて捨てるほどいるが、そうした者を一喝するような者がおらん。誰も彼も主上を利用することのみ考えておる。これが正しいことかどうかわからぬ主上ではない。」

 「たしかに。」

 「そして主上は父上に替わる人材を求めておられる。良房。お前だ。」

 兄は弟の肩に手をかけた。

 「私は裏で支える。良房は父上を継げ。」

 「承知。」

 弟は片頬を上げる程度の軽い笑顔で応えた。

 記録は四位から六位に限られているが、それ以下の役人の出世はあったと考えられる。

 ただし、三位以上の人事については何も手がつけられていない。相変わらず左大臣は空席で緒嗣は右大臣のまま。

 「緒嗣の野心も終わったということか。」

 「あなた、そういうことを言うものではなくてよ。」

 「緒嗣や吉野には恩も義理もない。同じ藤原とて情けをかける相手ではなかろう。」

 「まあ、あなたらしいといえばらしいかしら。」

 「かもな。」

 良房の隣には妻の潔姫(きよひめ)がいた。

 藤原良房、このとき二三歳。

 源潔姫、このとき一七歳。

 潔姫の名字が藤原でないことに注目したかたもいるかも知れないが、これは誤りではない。夜になると男性が女性のところに足を運び、一晩を過ごした後、朝になると帰宅するという婿入り婚が一般形であったこの時代、結婚しても名字が変わることはまずなかった。

 もっとも、この二人の結婚は一般形ではない。

 まず、潔姫が良房の元に、つまり女性が男性の元に嫁いでくるという当時としては珍しい形の結婚であった。

 そして、潔姫の父は嵯峨上皇である。いくら臣籍降下したからと言え、皇族が臣下のもとに嫁ぐなど前例のないことであり、良房の次の例を探すと良房の百年後まで行かないと出てこないという異例中の異例の結婚であった。

 とは言え、それは不幸ではなかった。

 当時としては極めて珍しいことであるが、良房は潔姫以外の女性といっさい関係を持っていない。良房ほどの貴族とあれば四人から五人の妻の名が記録に残るのが当たり前なのに、良房の妻として記録に残っているのは後にも先にも潔姫ただ一人。

 しかも、潔姫は良房よりに先に亡くなるのだが、妻を失って以後の良房が別の女性を後妻として招いたという記録が全く残っていない。

 皇族の女性を妻に招いた以上、浮気など断じて許されないのだろうという考えもある。

 だが、この人は生涯ただ一人の女性を愛し続けた人なのだろうかとも思う。たとえそれが自分の決めたわけではない結婚であったとしても、自分の結婚生活について、躊躇することなく幸せだと語ったのではないだろうか。

 宮中での性格は父に似ていたが、恋愛に関しては血を受け継がなかった。

 一月二五日、終身免税となる者が発表された。

 それまでにも自薦他薦は多かったのだが、その全てに応えると国家財政の破綻を招く。

 淳和天皇は、約束である以上終身免税は実行するが、表彰者はただ一人であり、その対象をたった一家族に絞ることで、国家財政の破綻を回避することにした。

 その対象となった者の記録が残っている。一般庶民の女性の名が国の正史に残ったという珍しい例。

 その者は、豊前国の三八歳の女性で、名を「子刀自売(コトジメ)」という。漢字は適当な当て字であろう。一八歳で結婚、二八歳で夫と死別。その後も再婚話が来るが亡き夫への操を守り続けている貞淑な姿が評判となり、今回の表彰となった。

 この女性に子供がいたかどうかはわからないが、終身免税は子の女性の家族全員が対象になると発表された。

 「立派な奥様ですわね。」

 その女性のうわさを聞いた潔姫は、夫と義兄に聞こえるように感想を言った。

 「私も貞淑を守るいい妻になりたいものです。」

 「もうなっているではないか。」

 「あら、そう。」

 潔姫はにこやかに微笑んだ。

 五歳で嫁いできてからもう一〇年以上起つ。

 良房とは夫婦として何もかも知り尽くした間柄になり、義兄の長良との関係も実の兄妹であるかのようと言われていた。

 一人の人間として見た場合、潔姫の人生はかなり幸福に満ちたものだったと言える。

 しかし、皇族出身であるという一点は終生ついて回ることとなった。

 特に、同じ歳の異母姉妹である正子内親王と、潔姫より一歳上の義理の姉である藤原順子の二人と比べられる宿命からは一生逃れられなかった。潔姫自身は気にしないと言っても、こういうことは周囲が気にする。

 臣下の生まれでありながら皇族に嫁いだ順子や、皇族間の婚姻で天皇の正式な妃となった正子内親王と比べると、皇族なのに臣下のもとに嫁いだということは、皇族に生まれた女性に対する処遇として例外的に低い。

 これではこの近い年齢の姉妹たちのことを見比べるなというほうが無茶な要求なのかも知れない。

 二月二六日、これまで空位だった皇后が発表された。

 正子内親王。

 この時代は天皇の后だからと自動的に皇后になれるわけではない。数多くの后の中から選ばれた一人が皇后となれるのがこの時代であった。

 これまでの正子内親王は淳和天皇の后の一人であり公的な立場ではなかった。しかし、この日からは違う。国政に名を連ねる正式な立場である皇后に一七歳にしてなったのである。

 もっとも、当時の人はこれを不可解に思わなかった。

 正子内親王は、まるで薬子の生まれ変わりのようとも評された美貌の持ち主としても有名であるだけでなく、その明晰さでも一目置かれていた。皇后位不在の状況で最も皇后に近いと思われており、このときの皇后就任に異論は出ていない。

 それまで皇后になっていなかったのはその若さが原因であったが、一七歳ともなればそれはなくなる。

 これは国中が祝福する中での皇后就任であった。

 二八日には皇后就任の祝賀行事が宮中で催され、音楽の奏せられる中で酒食が振る舞われた。

 これに長良と良房の兄弟も参加した。これまでは喪中として自宅に籠もっていたため、久しぶりの宮中となる。

 酒席は性格が現れる。

 誰とでも打ち解けて酒を飲み交わす長良と違い、良房は隅のほうで音楽を聴きながら酒を飲んでいた。蔵人であるため淳和天皇の側にいることが求められ、淳和天皇とつかず離れずの距離を保とうとしていることも理由にあるが、良房がさほどこの場を動き回らなかったのは、その性格にもよる。

 「そなたのような若者が隅で手酌とは。」

 その良房をあざけ笑うように、蔵人頭の藤原吉野が声を掛けてきた。本来ならば誰よりも天皇の側にいなければならない職務であるはずなのに、吉野は多くの取り巻きとくつろいでいた。

 「これは蔵人たる職を果たしているのみ。蔵人頭ともあろう御方が、主上のもとを離れて酒盛りですか。」

 「それは無粋というもの。この場で求められるは、このめでたい席を皆で祝い楽しむことだ。そのように一人で手酌では楽しく無かろう。」

 「私は琴を聴くことを楽しんでいるのです。」

 このときの酒宴に琴の演奏があったことが記録に残っている。

 演奏していたのは当時の最高の琴の奏者であり、皇太子正良親王の春宮亮(とうぐうのすけ・皇太子の教育担当官)でもあった藤原三成(みつなり。下の名は「ただなり」と読んだとする説もある)。

 藤原三成は藤原氏の一人であるが、南家の出身であり、藤原氏の中では亜流とみなされていた。式家の吉野にとっては同じ藤原姓の貴族の一員であることは認めるものの、自分と対等の立場にあるという意識はなかった。

 「これは珍しい。琴を楽しまれるか。」

 吉野のこの言葉は二重の侮蔑が含まれていた。

 一つは良房には音楽など似合わないとでも言いたげな侮蔑。 

 詩や音楽といった文化的な素養を持ち合わせていることが吉野の誇りとするところであった。それは、冬嗣親子のことを、実務一辺倒で人生の快楽を知らない偏屈者という評判を立てることで貶す材料ともなっていた。

 もう一つは、藤原家の負け組と認識されている三成と一緒にいることで、冬嗣も負け組の一員となったとする侮蔑。

 「生涯を琴にかけた者の奏でる音、それも、生涯最高の舞台での音。蔵人頭自らが持ち場を離れて酒盛りをすることがこの者たちへの礼儀ならば私もこの場を離れますが、私は礼儀を失いたくないのです。」

 「貴族ともあろう者がたかが琴の奏者に礼儀などかけることもあるまい。」

 「その発言は慎みなさい。蔵人頭の代わりは無数にいますが、彼らに代わって琴を奏でることができる者などそうはおりませぬぞ。」

 この良房の嫌味に対する吉野の返事はなかった。

 吉野が去った後、琴の吹奏を終えた三成が良房に語りかけてきた。

 「琴の音色は私の趣味にすぎない。私は春宮亮として皇太子殿下を立派な君主に育て上げることならば生涯を掛けているが、琴の音色は我が人生の癒すひとときの楽しみだな。」

 「何を仰います。見事な音色ではございませんか。」

 「最高の音色ならばここにいる誰もが黙って琴の音色に聞き惚れる。私の琴はそこまで至っていない。」

 「私一人が聞き惚れたのでは駄目なのですか?」

 「ふっ。良房一人のための琴の音か。それも良かろう。」

 三成は再び琴を弾きだした。 

 「三成殿は親王殿下に教育を施されておいでですが、教育とはどのようなものなのでしょうか。」

 「ほう、良房は教育に興味があるか。」

 三成は琴を奏でながら良房の質問に答えた。

 「親王殿下に嫁いだ妹のことが気がかりなのです。何か無礼を働いていないかと。いや、順子のことだから迷惑をかけているに違いないでしょう。しかし、そのような悪評は届かずにおります。これはひとえに三成殿が殿下になされている教育の賜物であり、それはとても素晴らしいものであるはずなのに、その教育を仮に大学で行なったとしたらいかがな形になるかと考えても想像がつかないのです。」

 「私が行なっているのは殿下が立派な君主になっていただくための教育。大学が為すのはその立派な君主に仕える者を育てる教育。同じ教育でも違いがある。良房、お前が受けた教育はどちらかというと私が行なっている教育に近いな。」

 「と申されますと?」

 「良房の受けた教育は冬嗣殿が用意した良房のための教育だ。それは長良も、妃殿下(=順子)もそう。長良は長良のための教育を、妃殿下は妃殿下のための教育を受けた。だが大学は違う。大学は誰かのための教育ではなく、教育のほうに大学生が合わせなければならない。そして、最も良く合わせることに成功した者が国の求める立派な役人になり、その中の一部が貴族になる。」

 「それは、正しいことなのでしょうか? 大学に合わせるために優秀な者が優秀な素質を発揮できずに埋もれてしまうかも知れないのではないか、そう考えます。」

 「では、どうやって?」

 「最良なのは、能力のある者を大学に入れ、大学でその者に合わせた教育を施すことでしょう。十あるうち九が劣っていても、残る一つが極めて素晴らしいならそれを評価し、それを生かした地位に就いて国に貢献して貰う。この仕組みを大学で作ることができれば埋もれた才能を救い出せます。」

 「ほう。良房が教育に一家言あるとは思っていなかったが、聞けばなかなか立派な意見だな。」

 「大部分は兄や亡き父の意見でもあります。私はそれに同調しているだけで、独自の意見ではありません。私が挙げたのは、三成殿が殿下に行なっている教育を応用できれば大学の教育はよりよいものになるのではないかという部分だけです。」

 良房が三成と教育論をぶつけ合っている光景を淳和天皇は眺めてみていた。

 そして、このことが良房の人生を変えるきっかけともなる。

 吉野が芸術方面への造詣が深いと言っても、それは専門家に打ち勝てるほどではない。

 いっぽう、冬嗣親子が芸術方面への造詣を欠いているわけではない。ただ、吉野と違って自慢げにしないだけである。

 それが明白な形で現れたのが、勅撰の漢詩集。

 貴族としての教養を示すもっとも明瞭な指標は、いかに素晴らしい漢詩を作れるかにあった。この時代、和歌を詠むことは身分の差を超えた日本人共通の愉しみであったが、和歌の地位は低く、省みられることが少なかった。文の創作といえば何よりもまず漢詩が第一に挙がっていたのがこの時代である。

 五月二〇日、良峯安世、菅原清公らが勅撰漢詩集『経国集』を撰上。この一四年間で三冊目の勅撰漢詩集である。

 これまでの『凌雲集』や『文華秀麗集』と圧倒的な違いはその分量。

 『凌雲集』は九一首、『文華秀麗集』は一四一首しか載っていないのに対し、『経国集』は全二〇巻という当時としては異例の大作になっている。ただし、散逸が多く、現存するのは六巻しかない。

 さて、この『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』の三つの勅撰漢詩集であるが、この全てに冬嗣は自分の作品を残している。

 『凌雲集』は冬嗣全盛期に編集された漢詩集であり、『文華秀麗集』は冬嗣自らが編集したのだから載っていてもおかしくはない。しかし、『経国集』は冬嗣の死後に編纂が始まった。そのため、冬嗣の漢詩を載せる必要性はない。

 にもかかわらず載っている。

 これに二つの理由が考えられる。

 良峯安世や菅原清公といった漢詩のスペシャリストから見てもかなり高いレベルの作品を残したからであろうという点が一つ。

 もう一つは、冬嗣がこうした文化人のパトロンを勤めていたから。

 大学を出た知識人と、文化をたしなむ文化人とは必ずしもイコールではないことを吉野は知ったのかも知れない。

 なぜなら、自分たちの派閥にいる知識人が求めているのは出世であり、政治家として、さもなくば高い身分になることで名を残すことは望んでも、経国集のような文化作品を残すことで名を残そうとする者はいないのだから。

 文章を書き記すことならば行なった者も多いが、後世に名を残すようなものを知識人は残していない。つまり、書かれた歴史に名を刻む者ならいるだろうが、そこでの知識人はその他大勢の一人にすぎない。

 しかし、文化人は違う。作品が残ることで、その作品を遺した文化人自身が語り継がれる歴史となる。

 その他大勢の一人として歴史に埋没するしかない知識人と、一人の人間として後々まで語り継がれる文化人。どちらのパトロンをつとめるほうが後世の評価につながるか、これは言うまでもない。

 そして気づいた。

 知識人も文化人も、知力という点では大差ない。

 だから、教育係に任命するとすればそのどちらでも問題ない。

 しかし、冬嗣が自分の子供たちに就けた教育者は文化人であって知識人ではなかった。

 つまり、冬嗣が子供たちに遺したのは血縁や皇族出身の嫁だけではなく、こうした文化人とのつながりも冬嗣は遺したのだということに吉野は気づいたのである。

 このつながりが大学以上の教育を生み、二人の知性をつくりあげた。だからこそ彼ら兄弟は大学を出てもいないのに大学出の者と対等にわたりあえる素養を身につけている。

 つまり、宮中で大学出の貴族たちと渡り合える能力を持ち、かつ、大学出の知識人に渡り合える面々を味方にし、さらに、後世の歴史にまで影響を与えるであろう存在となっている。

 吉野はこのとき、自分の選択の間違いを悟ったのかも知れない。

 しかし、吉野は生涯を通じて良房の敵となる宿命を背負っていた。

 まず、政治に対する考え方が違う。

 さらに、いま自分が緒嗣の腰巾着をしているのも、政治的な考えが近いからと言うことに加え、緒嗣の年齢を考えれば派閥のナンバー2からナンバー1にすぐになれると考えたから。

 冬嗣親子に下った場合、政治的考え方が違うし、何と言っても自分はヨソ者。世襲されるであろう後継者争いに割って入ることなどできない。

 吉野に遺された選択肢は、知識人を率いて派閥のトップとなり、長良と良房の兄弟を打倒して、生前の冬嗣のように絶大なる権力を手に入れること。

 それだけが自分を権力のトップに就ける手順だった。

 天長四年という年は、冬嗣存命中の頃に比べればまだマシだが、お世辞にも穏やかな自然環境の年というわけではなかった。

 まずやってきたのは小雨である。

 全く雨が降らなかったわけではない。雷を伴った大雨が降ったという記録も存在している。これはどうやら、京都近郊だけが雨だが、全国的に見れば小雨だったというところだろう。

 全国的な干害となって状況が悪化する前に対処しようということか、五月二一日、全国に使者を派遣し一斉に雨乞いをさせた。資料には一〇〇名の僧侶に一斉に雨乞いを、それも三日間通して大般若経を詠唱させたとある。

 しかし、効果はなかった。

 そこで、五月二六日に、すでに高僧として名を馳せていた空海に、内裏に仏舎利を迎え降雨を祈り礼拝するよう命じた。

 干害に対し、地面を杖で突いて湧水を湧き出させたという伝説を持つ空海である。オカルティックな能力を発動させたというより、地下の水脈を見つける能力を持っていたのだろう。たとえば草露とか、地面の湿り具合とかでその土地が他よりも湿気があることを察知して、掘れば水が出てくることを指し示せるような。

 もっとも、このときは祈りしかしていない。

 それなのに、神通力が働いたかどうかわからないが、空海の祈りを終えたこの日の夜十時頃、大雨が降り出した。

 降ったはいいが、これが都市機能を麻痺させるほどの豪雨。多いところでは数時間で三寸、一〇センチほどの雨が降ったと言うから、誇張を含んでいるにしてもこれはただ事ではない。

 淳和天皇はこれを仏の御心とし、空海は伝説を増やしたが、庶民にとってはたまったものではなかったであろう。


 一言で「五畿」というが、この五つの国が平等であったわけではない。面積も違えば人口も違うが、何より違うのが経済力。

 良房が受けた情報は、この五畿のうち、和泉国からの誓願である。それは、収入不足から国衙の維持管理が困難になっていることの窮状を淳和天皇へ訴えるものであった。

 「和泉国は一国たる基盤なきまま一国たる状況。これは看過できるものではありません。和泉の問題は、ひいては難波津(なにわのつ・現在の大阪港)の問題につながります。」

 現在の大阪は平坦な大都市だが、縄文時代までこの地域には大きな湖があり、徐々にその湖が小さくなって、大和時代には勿入渕という田畑になれない大湿地帯が広がっていた。

 もともとはこの勿入渕の北が摂津国、南が河内国という分かれかたをしていたが、およそ一〇〇年前の霊亀二(七一六)年に勿入渕の南が東西に分かれる形で、河内国の西部、瀬戸内に面する地域が和泉国として分割設置された。経済力や人口、そして、広大になっている河内国の状況を考えれば、分割することで地方自治を円滑に進めることが可能となる。


四畿時代

和泉国分割後


 しかし、これが和泉国に悲劇をもたらす。

 和泉国は後発地域であり、人口も少なく、湿地帯が広がっているため田畑も少なく、交通事情も良くないため、五畿の中では特筆すべき貧困地帯となっていた。つまり、発展している地域だけが河内国に残り、取り残されている地域が和泉国として独立させられたようなものである。そのためか、五畿でありながら和泉国司は不人気の職であり、貧しく税収も少ないこの国では、国司となって一財産築くどころか、逆に国司の財産持ち出しで国衙を維持していたようなものである。

 冬嗣はこれに対処すべく、天長二年、摂津国の難波津を含む四郡を割譲し和泉国に編入した。これは、和泉国の経済基盤を整備するとともに、河川によって飛び地となっている四郡を陸続きとなっている和泉国と一緒にすることで、地方行政の円滑化を目的もしていたものである。ところが、これが地元民の猛反発にあってわずか四ヶ月で頓挫。四郡は摂津所属へと戻ることとなった。

 「何が言いたい、良房。」

 「摂津国の東生、西成、百済、住吉の四郡を和泉国に再び割譲することを提案いたします。」



良房の提案



 「馬鹿なことを言うな! 民が望まぬことをおいそれとできるものか。」

 天長二年に冬嗣が提唱したのと一字一句かわらぬことを良房が提案したことに吉野は反発した。

 表向きの理由は天長二年のときの反発であるが実際はそう簡単ではない。

 まず、この四郡は、地図だけ見れば摂津国の東の隅であり、川で分断された飛び地になっている。一方、その南は和泉国に接し、実際、住人は摂津本国より和泉国との交流のほうが強かった。

 だが、この地域には、この時代最大の交通の要衝である難波津があった。そして、この難波津を抱えていることが摂津国の経済の寄って立つところであった。

 もしこの地域を和泉国に割譲すれば和泉国の経済問題は解決するであろう。

 だが、残される摂津国のそのほかの地域が問題となる。

 この四郡を抱えているからこそ摂津国は運営できているのに、その四郡を手放したら摂津国は維持できない。

 「では、和泉国を救う方法を述べていただきたい。私は提案をしました。蔵人頭とも有ろうお方が、端くれの一蔵人の提案を怒鳴り散らして非難するだけで、何一つ建設的な意見を言わぬなどということはございますまい。」

 これは良房の意地の悪い質問であった。

 摂津国は都に次ぐ地位にある国とされ、他の国では「国衙(こくが)」と呼ばれる行政機関が、この国では「摂津職(せっつしき)」という特別名称で呼ばれていたことがあるほどである。この時代は国衙に戻っていたが、それでも摂津国司は一等クジで、和泉国司は貧乏クジと考えられていた。

 この摂津国司の地位はこれまで常に冬嗣が握り続けていた。自分の息のかかっていた者を送り続けていたが、難波津を抱えていることもあって下手な人材を送ることが許されないという事情もあり、その人選は見事と言わざるを得なかった。冬嗣の送り込んだ国司たちは少なくとも善政を心がける者であったし、地元住民の評判も悪くなかった。

 ところが、冬嗣が居なくなった瞬間に摂津国司は権力争いの材料となった。この地位に就けば一財産築くことも可能とあって、希望者が殺到していたのである。そして、この摂津国司の任命権を手にしたことが緒嗣の権力の一つだった。さすがに右大臣が自ら就くことはないが、自分の息のかかった者を就けるぐらいはできる。 

 しかし、それもこれも難波津のある川の向こうの南部四郡があるから。

 難波津のない摂津国司に魅力はなくなる。

 これが実現すれば緒嗣個人の権力を弱めるだけでなく、派閥そのものの勢力が弱まることとなる。

 吉野とて、和泉の貧困問題を解決するのには南部四郡の割譲が適切だとわかっている。南部四郡の住民は、川の向こうの摂津本国より、陸続きの和泉国を生活圏としている者が多い。摂津国の運営において、難波津が川の向こうにあることが大きな障害ともなり、スムーズな行政ができずにいたこともわかっている。

 だが、和泉国を生活圏としていても、南部四郡の住民の意識は自分たちが摂津の住民だというものであった。そうでない者が居たとしても、自分たちが和泉の住人だとは断じて認めなかった。摂津は豊かで発展した都会。和泉は貧困で遅れている田舎。こういった意識がこの時代には存在していた。

 吉野は何も言えずに黙り込んでいた。

 「主上、割譲が認められないのであれば、せめて和泉国衙を維持できるだけの財源を分け与える必要がございましょう。」

 「それは何か。」

 「易田を渡します。」

 易田とは収穫量が低いと見られた田畑のことで、通常の班田収受で分け与えられる田畑の倍の大きさが分け与えられる決まりとなっていた。

 良房がこのとき主張したのは、和泉国に多数存在する易田五〇〇町を和泉国衙に渡すというものである。この五〇〇町の田畑を耕すことで得られる収入を和泉国衙の収入に当てることをもくろんだ。

 「良い考えではないか。」

 良房の提案は意外なほどすんなりと通った。

 にしても、良房の交渉は見事であるというしかない。

 まず始めに無茶でありながら、かつ、原理原則に則った要求を、反対すること間違いない者に向けて放つ。それも、口に出しては言えない利益を持っているだけでなくそれが実現すると損害を受ける内容を口にする。

 それは反感を買うだろうが、反論は出せない内容だった。とりあえずは摂津国や地元住民の反発という反対理由は挙がるだろうが、南部四郡の割譲はそれを踏まえてもなお押し通せるだけの理論だった。

 無関係の周囲の者は、かつてその父が失敗したのと同じ提案を息子がしたのかぐらいにしか思わないであろう。無論、それは良房も考えている。

 だが、それは良房の本意ではない。良房の本意は田畑を和泉国衙に渡すことにあった。

 国衙には付随する田畑が併設されており、その田畑からの収穫を国衙経営の基盤とすることが律令により定められている。

 この律令に定められていることと言う一点だけが問題だった。

 いくら和泉国衙が財政不良化していても、また、口分田が有名無実と化していても、さらには収穫の乏しい易田であっても、口分田として配されるべき田畑を和泉国衙だけ特別視して増配することは律令が許さなかった。

 ゆえに、単純に田畑の配布を主張したのでは反発を受けるに決まっている。特に、冬嗣親子を快く思わない吉野にとっては絶好の反発材料である。それは何も律令を金科玉条として護る意志があるからではない。重要なのは良房を批判することであって、その中身など気にしていない。

 そこで良房は考えた。

 本来の提案の前にダミーの提案をする。

 それから、ダミーを打ち消せるだけの対案を相手に要求することで相手の反論を封じる。

 そのあとで本人が本心からやりたいと思っていた政策を提言する。

 本来なら反対すること明らかな相手が黙り込んでいるので、律令を破る大胆な提案であっても、より大胆な提案の前には影を潜め、賛成が得られやすくなる。

 吉野はこのとき間違いなく、『やられた』と感じたはずである。

 だが、口には出さなかった。

 それはよりいっそう良房の評判を上げるのに役立てるだけだから。

 六月二日、和泉国に易田五〇〇町を置くことが定められた。


 この十日後、良房は敵のさらなる怒りを呼び起こす政策を主張する。

 「大学が一部貴族の子弟に独占されているのはいかがなものでしょうか。」

 それまでは、数は少ないものの無名の一般庶民がその才能を認められて大学に入り、卒業して任官し、出世して貴族の仲間入りをするということがあった。

 例えば、春澄善縄は地方官の最下級官吏の子であったが、大学においてその才能が認められて中央入りし、文章博士を経て参議まで出世している。

 また、嵯峨天皇時代の大学運営のナンバー2であった勇山文継は、その地位になってはじめて「連」の姓を受けていることから、かなり低い身分。おそらく、地方官ですらない一般庶民の出身であると推測されている。

 ところが、それが次第に有名無実化したのが冬嗣の時代であり、その晩年には、一般庶民の締め出しを行なうまでになった。貴族の子弟には大学に通わせることを義務化し、役人の子は希望すれば可能、親や兄が役人でないとどんなに優秀な才能の持ち主でも入学不可というのがこの時代の大学であった。

 これを本来の形に改めようというのが良房の主張である。

 ついこの間、律令に逆らうことを主張したばかりなのに、今は律令に合わせよと主張する。

 これでは一貫性がないと思われてもおかしくない。

 だが、別の側面、すなわち、敵の打倒という側面からすると良房の主張は一貫していた。

 ここで重要なのは、この時代に大学の劣化が起こっていたことである。

 とはいえ、これは藤原家にも原因の一端がある。

 現在の似たような事例として捉えるなら、教育格差。

 現在は、親に資産があれば塾に通えるので受験で良い点を取れるから良い進学ができる。そして、学歴が物を言って高給が期待できる職になれる。逆に、資産の少ないと満足な教育が受けられず、それが受験の点数にも比例して進学先も良いものではなくなり、苦労して大学を出ても就職がないという状況になっている。大学を出た者の数が多い上に、大卒生の雇用先が減っているから。 

 当時も似ていた。

 当時は大企業という概念が無く、ホワイトカラーの職業は官庁しかなかった。

 その官庁の上級職に位置するのが貴族だが、大学を出ても誰もが貴族になれるわけではなく、その数は限られている。

 その少ないパイを奪い合おうとしても、それは平等な競争とはならない。手にしたパイを簡単に手放して他人に渡す人はそう多くはないため、自分の兄弟や子に相続させることを考えるのは今に始まった話ではない。あの手この手で特権を作り出して自分が手にした貴族というパイを子孫に相続させるのと、パイを手にすることによって手にした経済力を教育に注いで自分と同じ地位を就けさせるのとでは、親が恵まれていなければ子どもも恵まれないという点で違いはない。

 現在、大卒なのに大卒に見合った就職が出来ず不安定な暮らしを強いられる者が多いが、この当時も似ていた。

 大学は国で一つしかなく、そこを卒業することが貴族になる必要条件であったのに、次第に有名無実化し、ついには大学を出ても、親の身分が高くなければ大学を出ていない一役人と同じ身分に終わってしまって貴族は夢の世界でしかなくなるという事態になった。

 これで誰が好きこのんで苦労の多い大学に通うというのか。

 大学側は自分たちの生き残りをかけて、教育期間を短くし、その内容も軽くし、入学しやすくし、かつ、貴族の子弟と一部の役人の子弟のみを入学させることで、血筋による出世ではなく学歴による出世があるのだという体裁を整えることに窮した。

 結果、教育水準において、公的機関である大学より、民間機関でしかない勧学院のほうがはるかに優れているという逆転現象を生んだ。

 それは、勧学院の教育内容が優れていたからだけではない。それに加え、大学の教育内容が稚拙なものへと減ったのである。

 とは言え、大学出身という学歴は残っていた。

 実際は身分による出世であっても、自分は大学を出た知識人であるという自負だけは残っていたのだ。 

 良房はこれに穴を開けた。

 「ごく一部しか門戸を開かぬために、どれだけ才能のある者が失われたか。卑しい身分とひとくくりにされた者の中に、今の本朝を救う才能があったかも知れぬのです。」

 これは正論だった。

 あまりにも正しい正論すぎて誰も文句が言えなかった。

 だが、内心は違った。

 大学を出ているがために知識人を自認する者にとって、自分より格上か、さもなくば同格の仲間が増えることは何ら問題ない。

 だが、格下と考えている者が自分たちの仲間に加わることは断じて許せるものではなかった。

 自分より劣っていると考えている者が自分と関係ないところで頑張るのならば素直に感動できる。だが、卑しい身分と考え自分たちよりもはるかに格下と考えている庶民が、大学に入り、大学を出て、自分たちの仲間に加わることは虫酸が走ることだった。

 いや、仲間に加わるならまだ良い。

 庶民と考え見下していた者が自分たちを追い抜くことだってある。それまで風景としか認識していなかった庶民が貴族の格好をして宮中をうろつくだけでなく、自分たちの上に立って自分たちをこき使うケースだって考えられる。

 これは断じて許せるものではなく、理屈ではどうにもならない感情だった。

 とは言え、理は良房にある。

 誰も反対意見を述べることが出来ず、六月一三日、文章生(もんじょうせい)の制度を旧来に戻し、下級役人や一般庶民の中から聡明な者を選抜すると定められた。

 雨乞いの効果があったか、空海の祈りの後で天候に関する記述は姿を消す。

 しかし、七月一二日、日照りや集中豪雨など軽く吹き飛ばす大災害が起こる。

 地震発生。

 何時頃かは記録に残っていないが、数多くの建物を倒壊させる地震が起こった後、七回から八回の余震があった。

 しかし、地震は一日で収束しなかった。日本後記のこのあたりは何月何日に地震が起こったという記録しか残していないのではないかと言いたくなるほど地震の記録が連発しており、記録に残っているだけでも、七月一二日のほかに、七月一四日、七月一六日(二度)、七月一九日(二度)、七月二一日、七月二二日、七月二四日(三度)、七月二五日、七月二九日、七月三〇日(三度)、八月三日、八月五日、八月六日(三度)、八月八日、八月一二日、八月一五日、八月一六日、八月一九日、八月二〇日、八月二二日、八月二四日(二度)、九月一日、九月二日、九月七日、九月八日、九月九日、九月一〇日、九月一三日、九月一五日、九月二〇日、九月二二日、一〇月二日(二度)、一〇月四日、一〇月一一日(二度)、一一月一五日、一一月二二日、一一月二四日、一一月二九日、一二月一日、一二月二日、一二月一六日、一二月一九日が記録されている。

 結局このときの群発地震は頻度こそ減るものの年をまたいでからも記録され、収束するのは実に三年後の一月という有様であった。

 一回目の地震のときのマグニチュードは最大で六・八。京都では最大で震度六弱規模の揺れがあり、被害が果たして建物の倒壊だけであったのかどうかは実に怪しい。ただ、人命が失われたという記録が残っていない以上、被害者がどれだけいたのかを記すことができない。

 また、この揺れに加え、七月二五日には豪雨、八月二一日には突風が京都を襲っている。

 これでは、仮に人命に影響がなかったとしても平然としてはいられなかったはずである。

 その自然の荒れ狂う最中たった一つだけ慶事があった。詳細な日付は不明だが、八月に順子が長男を出産する。道康親王、後の文徳天皇である。しかし、群発地震への対策に追われたせいか、このことに対する淳和天皇のアクションはない。

 淳和天皇は荒れ狂う自然に対し、まずは建物の補修を命じた。

 八月一五日に東大寺の大仏の耐震補強を完了させたという報告が挙がったという記録があるが、それ以外の建造物についてもこの時期に補修が行なわれた痕跡が残っており、こうした報告は史料に残っていなくても逐次挙がってきたことだろう。 

 また、九月二六日には、平安京内の空閑地を希望者に下賜すると定められた。被災者の収容のためとは記されていないが、この地震で被害を受けた者の多くが空閑地の下賜に手を挙げたはずである。

 被災者に対す救済処置らしき政策はこれだけしか記されていない。救済する余力がなかったのか、それとも、救済しなければならないほどの被害が生じていなかったのかはわからない。

 ただし、この救済処置をしなかったことに対する不満が起こったという記録は残っていない。

 おそらく、この時代の人たちは、群発地震という自然の驚異の前に人間ができることなど限られていると考えていたのではないか。そして、淳和天皇は人間の手でできることを可能な限りしていると理解したのではないだろうか。

 地震のメカニズムも解明されていないこの時代、これほどまでに地震が繰り返すのは、良くないことに関する天からのサインだと考える人が多かった。しかし、天からの良くないサインが淳和天皇に向いていると考えた者はいなかった。

 淳和天皇の病弱は有名で、いざというときに寝込むことが多いことから、これまでの淳和天皇がリーダーとして頼りになるとは考えられておらず、支持率も高いものではなかった。

 しかし、今は違う。宮廷の明かりは夜も消えることなく、淳和天皇は地震対策のためにほとんど一睡もしない日々を過ごしている。普通の人なら倒れてしまうような激務であっても、病弱な身体に無茶をさせて懸命に働いている。これまでに起こった地震の後始末だけではなく、これから起こるであろう地震にも立ち向かう淳和天皇の姿は都中で話題となり、淳和天皇の支持率は急上昇した。

 ただ、淳和天皇自身は、耐震補強のような群発地震への攻撃的対策だけでは人心を安定させることができないと考えていた。いかに支持が上がろうと、連続する地震は人々を疲れさせてしまう。家を建て直しても次の地震で崩れさってしまっては生活を取り戻すどころではない。

 淳和天皇は気分を一新させるために一〇月二〇日に大宴飲を開催した。こうした催しは通常貴族のみが参加可能なのだが、このときは下級役人や一般庶民まで参加する大がかりなものとなった。

 酒や食事が振る舞われ、音楽が鳴り響いた。その中には、淳和天皇自身が琴を弾きながら歌う姿もあった。

 所詮は一日限りの祭り。明日からはまた地震に追われる日々が繰り返す。誰もがそのことをわかっていたが、一日であってもそれを忘れさせようと懸命になる淳和天皇の姿は感動を呼んだ。

 地震はなおも続き、一二月一四日には全国の僧侶に対し、地震鎮静化のための読経を命じる。これは地震の鎮静化はもたらさなかったが、神仏の加護を期待するという効果ならあった。

 こうして、文字通り揺れ続けた天長四(八二七)年は幕を閉じた。

 天長五(八二八)年は渤海使の来朝ではじまった。

 一月一七日、渤海人一〇〇名あまりが但馬国に来着したとの情報が飛び込んできた。

 実際に着岸したのは前年の一二月二九日だから、京都にその情報が来るまでに二〇日ほどかかったこととなる。通常に比べれば遅かったが、表向きの理由としては、年末年始を挟んでいたことからの遅れとされたことと、この渤海使が正式な使節であるのかの見極めに時間がかかったためとされた。

 しかも、第一報は渤海人の来着というだけであり、それが正式な使節なのか、それとも新羅人のような生活苦から来る亡命者なのか、あるいは漂流して日本に流れ着いた者たちなのか、京都に伝わった情報では判明しなかった。つまり、時間を掛けて見極めたのだが最後までわからなかったので、途中の情報として送ってきたということになる。

 「緒嗣の奴が何やら口出ししたのではあるまいか。」

 良房はこう直感したが、さすがに宮中で話せる内容ではないため、自宅に帰って兄に話すまでそのことを黙り込んでいた。

 このことを直感したのは良房だけではなかった。宮中にいる誰もが、この件について裏で糸を引いているのは緒嗣だと悟っていた。ただ、誰もそれを口に出来ずにいた。

 良房も、それが自宅で、それも味方であること間違いなしの兄相手だからこそ話せる内容だと考えていた。

 「右大臣か。それは考えられるな。」

 良房の意見を聞いた長良はすぐに同意した。長良もまた、裏には緒嗣がいることを悟っていたが、口に出せずにいた。

 緒嗣は二年前に、渤海使の来朝は一二年に一度とすべしと主張した。理屈はわかる。渤海との交渉に要する費用、すなわち、渤海使の歓待や往復の費用は全額日本が負担することとなっており、頻繁に来られると財政負担が重くなる。

 しかし、その表向きの理由だけでなく、裏の理由、つまり、緒嗣個人の渤海に対する敵意を、兄弟、そして宮中の誰もが感じとっていた。

 どういった事情があるのかはわからないが、緒嗣は明らかに渤海を敵視している。期限破りの来航に反発するだけならまだしも、両国の協定に基づいた渤海との正式な交渉でさえ不機嫌な態度をとる。

 それでいて、市場に流れる渤海産の毛皮は、それが渤海からの輸入品だということがわかっていても嬉々として受け入れ、その売買で莫大な利益を稼いでいるのだから、その行動は矛盾している。

 「今回は毛皮の売買に来た商人ではないのか?」

 「それならば右大臣が先陣切って歓迎しているさ。それをしないってことは、正式な使節だろうな。」

 長良は断言した。

 冬嗣の死去により左大臣職が空席となったため、人臣の最高位は右大臣の緒嗣となっている現状では、渤海との正式な交渉などおぼつかない。

 「しかしな、このままでは渤海との関係に亀裂が入ってしまうぞ。最悪の場合、新羅と渤海が手を組んで日本と向かい合うようなことになりかねない。」

 長良は困惑の表情を見せた。

 「せめて、今回来朝した者は受け入れるよう、兄上に緒嗣を説得してもらいたい。奴は私を嫌っているが、兄上ならば聞き入れるのではないか。」

 「それはできない。右大臣は、渤海のこととなると主上の言葉も受け入れなくなる性格だ。」

 「しかし、このままでは彼らを帰国させてしまうこととなる。そうなってしまったら、兄上の危惧が現実のものとなってしまう。」

 「右大臣を無視して都に招くことはできぬか。」

 「そうなれば緒嗣はどんな手を使ってでも妨害するはず。使者の命を奪うこともありえてしまう。」

 「なら、当家で歓待するのはいかがかしら。」

 それは話を聞いていた潔姫の何気ない一言だった。

 「一私人が歓迎するなら緒嗣さんも何も言えないのではないかしら。それに、私は上皇の娘。叔父上(=淳和天皇)の歓待ではなくても、皇族の歓待にはなるのではなくて。」

 「……、ありだな。」

 長良は少し考えたあとで同意した。

 「良房、但馬に使者を出せ。藤原良房が歓待すると。」

 「私が? 兄上ではなく?」

 「潔姫の夫であることが重要なのだ。それに、良房が右大臣一派に逆らうのは今に始まったことではない。」

 「兄上もお人の悪い。ですが……、面白い! その話乗った! 潔姫、これからたいへんなこととなるぞ。」

 「心得ております。」

 「緒嗣を黙らせる絶好の機会だな。良房。」

 従五位下藤原良房が、妻の源潔姫とともに渤海使を私的に歓待するという宣言を聞いた緒嗣は激怒した。

 「たかが一蔵人の身で何をするか!」

 蔵人として淳和天皇の側に侍ることが定められている良房は、どんな重要な会議のときでも天皇の側にいる。ただし、質問に答えることが許されているのみで、自分から意見を言うことは許されていない。

 「渤海使を歓待します。」

 「そんな国家の一大事を、たかが一蔵人が勝手にしていいと思っているのか!」

 「はい。」

 良房の言葉に迷いはなかった。

 「渤海との通商は一二年に一度のみと定められている! それを破るつもりか!」

 「はい。」

 「貴様の勝手な行動が本朝にどれだけの被害をもたらすかわかっているのか。」

 「全くわかりません。ただし、被害をもたらさないことならばわかります。」

 良房の貴族としての地位は貴族か役人かのボーダーラインのギリギリであり、蔵人でなければ右大臣である緒嗣とまともに会話することすら許されない地位である。

 普通、こうした蔵人が右大臣に質問を受けたとしたら、ひれ伏してまともに顔を見ることなく、ただただ右大臣の言うことに従うはずである。

 ところが、良房はひれ伏すどころか緒嗣を侮蔑のこもった目で見下し、逆らうだけでなく馬鹿にしている。

 緒嗣はこのとき、ここにいる蔵人が間違いなく冬嗣の子であると確信した。

 「とにかく、渤海から来た者は直ちに帰ってもらう。よいな!」

 「いいえ。」

 「貴様、何だその口のききかたは!」

 「あなたへの相応の礼儀です。」

 渤海からの使者がやってきたことに対する国内世論は、歓迎という声が大きかった。ただ、緒嗣が右大臣としての権力を使って渤海使を拒否しているため誰も逆らえずにいたと言える。

 それが、いくら上皇の娘を妻にし、妹を皇太子妃とし、父が生前は権力者であった者とはいえ、蔵人頭ですらない一蔵人が逆らったのである。

 世間はこの若者に注目した。

 この京都の雰囲気は、未だ留めおかれている但馬にも伝わった。

 彼らとて日本の中に一二年に一度の通商としてほしいという意見が出ていることも、そして、その意見を述べた者が右大臣という要職にある者だということも知っている。

 ただ、それは日本側の事情であって、渤海には渤海の事情がある。

 何よりも重要なのが唐と新羅の政情不安だった。

 政情不安が難民を生んだというのならまだいい。

 問題は、政情不安が山賊と海賊を生んだということ。

 国境を侵略する山賊、沿岸部を荒らし回る海賊、こうした唐や新羅のあぶれ者に手を焼く渤海にとって、北方の蝦夷を国土から追いやり、侵略しに来た新羅を撃退させただけでなく無条件降伏に追い込んだ日本は心強いパートナーに思えた。

 そして、日本との関係を強化することが渤海の最大の外交戦略となっていた。

 この状況で一二年に一度と言われても、「はい、そうですか」と受け入れられるわけがない。事は至急を要している。

 緒嗣はどうやらこうした国際的センスを欠いていたのではないかと思われる。これは生来のものだろう。緒嗣には確かに中国の古典を読む能力や漢詩を作る能力ならばあったが、それが外交力を引き上げる要素には全くつながっていなかった。

 では、良房にはあったのか。

 答えはYES。

 良房の人生を見た場合、国外情勢を読む能力も、それを踏まえた最適な指針を示すことも、良房は充分合格点をつけていると言ってもよい。

 ただし、一つだけ欠けているものがある。

 実際の交渉力。

 良房も教育を受けており、筆談でなら渤海使とのやりとりも可能というレベルであったが、それでは不充分であり、交渉だけを言えば緒嗣のほうが優れていると言える。

 しかし、良房には生涯を支える味方がいた。

 兄の長良。

 この敵を作らぬ温厚な性格は外交に、特に歓待を目的とする外交に抜群の成果を見せることとなる。

 二月二日、但馬国司より至急の手紙が京都に送られた。

 手紙には渤海使が渤海国王の国書を携えているとあり、その写しも同封されていた。

 ここではじめて、昨年末に来朝した渤海人が渤海からの正式な使節であることが判明した。

 淳和天皇は国として正式に歓待するべきではないかと意見を述べるも、右大臣藤原緒嗣の頑迷な抵抗にあい、正式な受け入れ表明ができずにいた。

 一方、藤原家では渤海使受け入れに関する準備が進められていた。

 ところが、そのとき思わぬ横槍が入った。

 嵯峨上皇である。

 嵯峨上皇は妙案を出した。

 まず、今回の供応は自分がすると宣言した上で、歓待場所として正式な外交使節の滞在先である鴻臚館(こうろかん)を使用すると表明。これまで準備してくれたことも評価し、長良と良房の兄弟には自分のサポートに入ってもらうとした。

 名目上、嵯峨上皇は国家元首ではない。ゆえに、渤海との一二年に一度という通商のタイミングとは無関係になる。だが、一臣下でしかない藤原兄弟や、いかに上皇の娘とはいえ正式な地位に就いたことのない女性の歓待とはわけが違う。ついこの間まで国家元首であっただけでなく、嵯峨上皇は文人としての評価も高い。空海、橘逸勢とともに、後に「三筆」と評されるほどの書家であり、また「経国集」に漢詩を残す詩人でもある。

 その時代の最高の文化人が対応すると定められている渤海使との折衝を嵯峨上皇が自ら行なうことは、渤海使の面子が立つなどというレベルではない。これまでどんな使節も体験したことのない最高級の国賓が受ける待遇である。

 だが、緒嗣はそれにも頑迷に抵抗した。

 一二年に一度と決めたからには一二年に一度を守らなければならないというのが緒嗣の意見であり、それが実権力を持った人間の意見であった。

 しかし、なぜ緒嗣はここまで渤海の訪問に反対を示したのか。

 その理由として、渤海の来訪そのものではなく、頻繁な来訪の全てを歓待した嵯峨天皇への反発にあると挙げる研究者もいる。つまり、頻繁な来訪の全てを歓迎したため国家財政を悪化させたことに対する政治家としての怒りが、表面だった上皇批判ではなく、訪問しにきた渤海に向けられたという説である。

 私もこの意見に賛成するが、緒嗣個人の嵯峨天皇に対する反発の理由に、財政悪化を招いたことに対する政治家としての反発だけでなく、嵯峨帝時代の自身の不遇を加えたい。

 平城天皇の命に従って都を離れている間に政局が激変し、任務を終えて戻ってみたら嵯峨天皇が即位し冬嗣の天下となっていた。

 それまでの若くしての出世街道猛進はなりを潜め、辞任をかけてまで冬嗣と対抗しようとするも失敗。それから淳和天皇の時代となり、冬嗣が死んで、やっと掴んだ自分の天下である。

 嵯峨天皇に対する反発と言えば聞こえは良いが、要は恨み。渤海との交渉を冷たく当たっているのも、国際関係よりも先に自分の恨みを晴らすことを優先させているからにすぎない。

 しかも、自分を冷遇した嵯峨天皇や自分を見下していた冬嗣のことを渤海国は友好関係の構築に力を注いだ恩人として見ている。それは、裏を返せば、渤海国にとっての緒嗣は快く思わない相手ということ。

 そんな相手に時間と礼節を尽くす気になれないというのが本心ではなかったか。

 渤海使は但馬から動くことができなかった。

 本心は一刻も早く京都に向かって国の代表使節としての任務を遂行したかったのだが、緒嗣の頑迷な抵抗がそれを許さず、但馬国衙内の宿舎で年を越し、現在に至っていた。

 そして、彼らは決断した。

 写しではあるが国書を日本に渡せた。

 日本が一方的に定めたとは言え、渤海も認めた一二年に一度の来航の決まりを破ったのは渤海のほうである。

 これまでの交流に尽力してくれた相手であるだけでなく、文人として名を馳せ、その名が渤海にまで届いている嵯峨上皇の誠意も見られた。

 日本との主要な交易品である毛皮を売ることも、渤海では貴重な布地を手に入れることもできた。

 それが彼らに帰国を決断させる要素となった。

 歓待を準備していた嵯峨上皇のもとに飛び込んできたのは渤海使の突然の帰国の知らせ。

 この情報を聞いた嵯峨上皇は深く悲しみ、渤海使の別れを悲しむ詩を残した。

 ただ、悲しむ者がいる一方で喜びを爆発させる者がいた。

 緒嗣は渤海使の帰国に狂喜乱舞し、仲間を集めての祝宴を開いたほどである。もっとも、狂喜乱舞は緒嗣一人で、他の者は緒嗣につきあわされているという感覚だった。

 「大臣(おとど)、慢心なさいますな。」

 その中の一人の吉野が直言した。

 「何を訝しげておる。吉野の敵を黙らすことまでできたのだ。最高の喜びではないか。」

 「相手は冬嗣の子、しかも今回の件で上皇ともさらなる絆を作り上げました。このままでは済むとは思えませぬ。」

 「それを済ませるようにするのがおぬしの役目であろう。何のための蔵人頭か。」

 これまでにも吉野は不安を抱いていた。

 冬嗣の死によって時代は緒嗣のものとなったと考えた。緒嗣の元に身を寄せることにしたのも、父の従兄弟だからということに加え、時代に乗るためである。

 だが、この人にはトップたる何かが欠けているように思えて仕方なかった。ついこの間まで冬嗣という時代を操ったリーダーを敵として見ていただけに、この違いは重く感じた。

 そこで見せた渤海使帰国の狂喜乱舞ぶり。完全に浮かれまくっていて冷徹さなどかけらもない。

 そしてわかった。

 この人はそもそもトップたるに必要な資質がない。冷静さもなければ冷徹さもない。文章を書く能力とか古典を読む能力なら有るのだろうが、人を操り、国を指揮する能力がない。感情を隠さず表に出し、頑固で、現実を見渡すこともせず、自分の思いを口にするだけ。

 吉野は自分の選択が誤りではないかと考えた。だが、それでも吉野は緒嗣の元を離れなかった。

 緒嗣は年齢から言っていつ死んでもおかしくなく、そうなったら派閥のトップになるのは自分のはず。そして、朝廷内最大勢力の派閥のボスとなれば天下をこの手に掴める。

 自分のついていった人間を見限ったら、派閥の人脈を失うだけでなく、その人脈の全てを敵に回す。

 派閥を離脱することのメリットとデメリットを考えれば吉野のこの判断は理論上間違いではない。

 だが、それが吉野の人生を狂わせることなる。