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キャンピングカーで日本一周

5月2日 平戸市[松浦史料博物館、平戸オランダ商館]→ 佐賀県伊万里市(65km)①

2019.05.14 11:16


久しぶりの快晴である。


今日は、昨日駐車場の関係で見れなかった平戸市街観光に向かう。


駐車場を確保すべく、朝イチで平戸市街地の公営駐車場に行くが、車高オーバーで、ここには入れないことが判明。



一瞬焦ったが、気を取り直してぐるりと周辺を周ってみると、すぐ近くの別な場所に高さ制限のない有料駐車場を見つけ、ほっと胸をなで下ろす。


早速、近くの街並みを散策。



街を歩いていると、街角に、突然「ポルトガル船入港の地」の石碑が現れたり、



「平戸の六角井戸」という変わった形の井戸が、街中にポツンと置かれていたりする。


日本では見られない形なので、中国人や倭寇の影響だろうと考えられている。


ここは、今こそ普通のありふれた漁町のようだが、確かに異国文化が混在していた形跡がある。



改めて、地図で確認してみる。


確かに街全体が異国情緒に溢れていたことが、よくわかる。



歴史の道の脇には、この地ゆかりの著名人の像が並んでいて、ちょっとした撮影スポットとなっている。



平戸イギリス商館長コックスのもとで活躍した通訳、ウイリアム・アダムス(三浦按針)。





この地に滞在し、布教活動を行ったフランシスコ・ザビエル。




平戸の発展に寄与した、倭寇出身の華人貿易商「王直」、などなど。




その先の小高い丘の上にあるのが、「松浦史料博物館」。


ここは、平戸の松浦藩がオランダ・イギリスと貿易を行なっていた時代に、藩主が暮らしていた邸宅跡を博物館にしている。


どうりで、一見お城のようにも見える立派な石垣を持つ建物なわけである。



入り口では、御当主自ら片手を上げて出迎えてくれていた。





今日は、この「松浦史料博物館」から見学を開始することに。



まず初めに、松浦氏についての説明から。



もとは源氏の系統をくみ、肥前北部に勢力を持った一族を「松浦党」と呼んだ。


彼らは平安時代から戦国時代にかけて、壱岐や平戸など多くの島々を抱えるこの地方を根城にする「松浦水軍」として有名であった。





元寇の襲来にも参戦し、その様子が「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。



松浦党の水軍としての活躍は、秀吉の朝鮮出兵が最後となった。


その後、松浦党の子孫は平戸松浦氏として平戸藩を治めることとなり、その統治は明治の廃藩置県まで続いている。


歴代の当主として有名なのは、肥前と壱岐を治めた戦国大名・松浦隆信。


秀吉に仕え、その後初代平戸藩主となった隆信の息子・松浦鎮信。


平戸藩の全盛期、政治と財務の組織改革を行った9代藩主・松浦静山であろう。



静山は全278巻に及ぶ随筆集『甲子夜話』を著したことで知られており、娘の愛子は明治天皇の祖母にあたる。



静山の姿は、絵画の中に残されている。


水戸藩主・徳川斉昭が1840年に描かせた人物画「三勇像」である。



ここに描かれた三勇とは、下野黒羽藩主・大関増業(左)、信州松代藩主・真田幸貫(中央)、そして平戸藩主・松浦静山(右)だ。 


幕末期の開明的な藩主とされる徳川斉昭は、この三人を「天下の三畏友」として高く評価していたという。



他にも、さまざまな絵画が展示されていた。



目に付いたところでは、「山鹿素行肖像」。 



素行は江戸時代前期の有名な儒学者・軍学者である。


当時の体制側の支配的な思想だった朱子学を批判したことで知られており、赤穂浪士の大石内蔵助も門人の一人であり、幕末の吉田松陰にも強い影響を与えている。


彼は松浦鎮信と親交を深めており、自分の息子が平戸藩の家老に取り立てられている縁もあって、彼の肖像画が平戸に残されている。


そのほか、「朝鮮婦人像」や、



南蛮人や華人が描かれた屏風や襖、



洋風な模様をあしらった碁盤や将棋盤など、平戸らしい展示品が多数あった。



この博物館は、広い武家屋敷を使って松浦氏所蔵の品々を展示するもので、通常よくある甲冑や刀、陶磁器などに加えて、西洋との貿易の歴史を持ち、蘭学に強い興味を示した藩主(静山など)を有する松浦氏らしく、当時としては珍しい地球儀や世界地図、「外国人図」などの絵画など、ハイカラな品々も多く並んでおり、まるで、「お宝発見」のテレビ番組を観ているような博物館であった。




博物館を出ると、石段から遠方に平戸城が望まれる。




平戸港に下りると、海の水は沖縄の海のように澄んでいる。



ここは「オランダ埠頭」と呼ばれ、東インド会社の帆船が荷物の積み降ろしを行ったところなのであった。



この場所に元寇が攻め入って来たり、外国船がやって来て商品の荷降ろししたりしていたことなど、とてもとても想像できない、ただ只、穏やかな港であった。