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5月2日 平戸市[松浦史料博物館、平戸オランダ商館]→ 佐賀県伊万里市(65km)②

2019.05.16 19:41


続いて、一行は平戸港前にそびえ立つ「平戸オランダ商館」へ。




ここでは、1640年頃のオランダ商館の建物復元、環境整備が進められており、オランダ商館の交易以外にも、平戸全般の歴史がわかる展示となっている。



今回は、展示内容に補足を加え、平戸の歴史を追ってみたいと思う。



《平戸の歴史①[中世以前]〜遣唐使船の寄港地》


平戸は、日本の西端に位置し、中国大陸や朝鮮につながる古くからの海上交通の要衝であった。


遣唐使の時代には平戸は寄港地となり、弘法大師も立ち寄ったことがあるという。



1225年、松浦党の一族・峯持(平戸松浦氏の祖)が平戸に移り、館山(現在の松浦史料博物館裏山)に館を築く。


松浦党は、中国沿岸との貿易に従事する者、辺海を掠めて海賊化する者も現れるが、元寇[文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)]でも活躍を見せている。



《平戸の歴史② [中世]〜国際的海商集団「倭寇」の拠点》


中世の平戸は、倭寇の拠点でもあった。


倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇(14世紀前後)と、過渡期を経た後期倭寇(16世紀)の二つに分けられる。


前期の倭寇は、中国沿岸部や朝鮮半島などで略奪を行っていた集団で、主に瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人を中心とし、一部が高麗人であった。


後期の倭寇は、中国人を中心とするグローバルな海商集団であり、主に、東シナ海、南洋方面を舞台に交易を行っていた。


マラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人(浙江省、福建省出身者)が多数派で、一部に日本人(対馬、壱岐、松浦、五島、薩摩など九州沿岸の出身者)をはじめ、ポルトガル人など諸民族を含んでいたと推測されている。



1542年、倭寇の頭目・中国人王直が領主松浦隆信の招きにより、平戸を根拠地として密貿易を開始。




中国沿岸、ルソン、シャム、マラッカ等に進出して大陸物資を調達し、平戸は活気を帯びて行く。


彼こそが、この時期、日本の命運を操るキーマンなのであった。



それは、少し大袈裟なのでは? と思うかもしれないが、


1543年に種子島へと漂着し、鉄砲を伝えたとされるポルトガル人を乗せた船。


てっきりポルトガル船かと思っていたら、そうではなかった‼︎


この船こそ、倭寇の頭目・王直所有の中国船なのであった。



そう。彼こそが、平戸とポルトガル人との間の橋渡しをし、平戸の歴史を変えた人物なのである。



余談だが、種子島漂着前年にポルトガル船が琉球王国に到着していた。その時、ポルトガル側から貿易交渉があったようだが、琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、貿易を拒否したという。



《平戸の歴史③[近世]〜ポルトガル船の入港》


1550年、ポルトガルの貿易船が、初めて平戸に入港。


                日本にとって、初めての西洋船の来航であった。


               その後、10数年の間、毎年1、2艘のポルトガル船が来航している。




ポルトガル船来航と時を同じくして、鹿児島にいたフランシスコ・ザビエルも平戸に移り、布教活動を開始した。


ポルトガルと平戸の良好な関係がその後も永く続くかに見えたが……。



1561年、平戸商人とポルトガル商人の間で起きた揉め事、ポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)勃発。


1562年、ポルトガル船の貿易港が、大村藩領の横瀬浦(現・西海市西海町横瀬)に替わる。

                ポルトガルとの貿易の莫大な利益に着目した大村純忠が、自領の港をポルトガル船に開放。

                ポルトガル商人が、平戸から撤退してしまう。



1584年、スペインが平戸に商館を開設。

                 スペインはマニラとの間で、ポルトガルはマカオとの間で、活発な交易を行っていた。


 


《平戸の歴史④[近世]〜オランダ商館の設立》


1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後国(現・大分県)臼杵に漂着。 


                 ちょうど、この年、松浦鎮信を藩主とする平戸藩が確立している。



徳川家康は、乗船していたイギリス人、ウイリアム・アダムス(三浦按針)を重用。



漂着から5年が経過した1605年になって、ようやく松浦氏の手配により他の乗組員が「オランダ船来航を求める親書」を携え、バタニ(現・タイ南部の郡)にあるオランダ商館へと送還された。



1609年、オランダ船来航。

               オランダ使節に対し、徳川家康が朱印状(渡航許可証)を発行する。


ここには、「日本のどこのみなとに停泊してもよい」と記されている。



1609年、オランダが商館を開設。

                 オランダ商館は、「オランダ東インド会社」によって設けられた貿易の拠点であった。



オランダ東インド会社(正式には連合東インド会社、オランダ語 : Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC)は、1602年にオランダが「アジアにおける植民地経営」「アジアでの貿易の独占」を目指し設立した世界初の株式会社


ポルトガルとの覇権争いで優位に立つために、商業活動の他、《条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられたオランダの勅許会社》であり、帝国主義の先駆けともいわれている。


アジアにおける交易や植民に従事し、アジア各地に商館を開設。一大海上帝国を築き上げた。


日本とオランダの貿易において、日本が輸入した商品は、中国産の生糸、絹織物や反物がほとんどを占めた。 そのほか、東南アジアの皮革類や香木があり、ほかに贈答品としての若干のヨーロッパ産の商品があった。


一方、オランダが輸入した商品は、大半が日本産の銀である。当時、世界で取引された銀の三分の一が日本産だったとされている。



1613年、ウイリアム・アダムスの仲介によりイギリスの商船が入港。イギリス商館を開設。

1615年、イギリス商館長リチャード・コックス、日本本土初サツマイモ栽培。 


1616年、中国船を除く外国船の入港を平戸と長崎に限定



 《平戸の歴史⑤[近世]〜オランダ商館の出島移転》    


1623年、イギリスが日本との貿易から撤退し、イギリス商館閉鎖。


1624年、スペイン船の来航禁止。


1637年、島原・天草の乱。
               西洋人や西洋文化との関わりについて、徳川幕府は極度に警戒する。


島原の乱はキリスト教信仰と百姓一揆が連携した深刻な反体制暴動と捉え、キリスト教の徹底的な取り締まりを最終的に決意させた。


キリスト教を根絶するためには、宣教師を密かに乗船させ続けるポルトガル船の来航を、全面的に禁止するしかないと考えるに至ったという。 


幕府は、「ポルトガル船の来航を禁止した場合、それと同じ量の生糸をオランダ船が持ってくることができるか、「ポルトガルがマカオから反撃した場合、オランダはそれを抑えられるか」などをオランダ商館に問い合わせた上で、いよいよポルトガルとの国交断絶に踏み切る。

1639年、ポルトガル船の来航禁止。


この時期は、オランダ船が台湾に拠点を設け、日本向け商品を順調に調達できるようになったこともあり、取引は飛躍的に増大していた。


1639年、オランダは商品を保管するため、いくつかの倉庫を平戸に建設。

                石造倉庫が最大規模であり、この「平戸オランダ商館」も、その倉庫を復元したもの。


1640年、幕府は、新しい倉庫の取り壊しを命じる。

               (この石造倉庫の破風に「1639」とキリスト教暦の西暦を用いていた為としているが、    

                 「石造の立派な倉庫が、西洋の要塞のように威圧的に見えた」こともあったらしい)


(問題となった年号「1639」入りのプレート。真ん中は、東インド会社のロゴマーク)


幕府としては、やはり「オランダも同じキリスト教国であることに変わりはない」と考え、様々な疑念を払拭することはできなかったようだ。



1641年、平戸のオランダ商館が、長崎の出島に移される。


出島は、もともとポルトガル人と日本人とを隔絶するための収容所として建設したもの。


幕府は長崎商人の要望に応えるという口実で、ポルトガル商人がいなくなった長崎の出島に、オランダ商館を移すことを決め、平戸での南蛮貿易は終焉を迎えたのであった。


幕府は出島でのオランダ商人の活動を許可したものの、その監視体制は厳しいものであったという。



とはいいながらも、オランダは結果として、カトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に上手く取り入り、ポルトガルとスペインの追い落としに成功。


鎖国下の日本において、ヨーロッパ諸国で唯一、長崎出島での交易を認められたわけである。



「オランダ、お主も相当のワルじゃのう〜。」


という声が、どこからか聞こえてきそうである。






さて、オランダ商館の展示では、おもしろいところで、当時の部屋が再現されていて、中に入って写真が撮れたり、




商館内で遊ばれていたゲームなどがいくつか置かれていて、自由にプレー出来るようになっている。



何でもやってみたくなるYが、さっそく挑戦してみる。



ビリヤードとバスケットボールが一つになったお遊びで、これが結構難しい。




会館を後にして、再び平戸港へ。



もし、平戸でポルトガル商人との間のトラブルが起こらず、ポルトガル人が平戸から撤退することがなかったならば、平戸がその後の長崎・出島のようになっていたのだろうか……。


そんなことを考えながら、遠くに小さく見える平戸城をぼんやりと眺めるKY夫婦であった。