乳癌の再発ステージ4と子供の決意
『乳癌の再発ステージ4と子供の決意』
こんばんワンッ(∪。・ω・。∪)
前回も、たくさんの方が読んでくださり、
本当にありがとうございました(*ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
当時の私のように、言いたくないことは言わないというのも
間違ってはいないのですが、もしかしたら
話すことによって、なにかアドバイスが
貰えたり、生活の中での工夫なども教えてもらえる事も
あるかもしれません。話すというのは勇気も必要な事です。
話したことにより傷つく事もあるので
絶対に人に話したほうが良いという事でもありません。
聞いてほしくなければそれも良くて
見返りを求めずに、この人に聞いてほしいと
思ったら話すという事で良いのかもしれません。
前回は、ミィを家族に迎えて、母も仕事に復帰したところまで
お話させて頂きました( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )
母は、定期的に検診を受けながら生活をしていました。
私は、専門学校を卒業してドッグサロンに就職をしました。
今までいろんなバイトはしたけれど、就職は初めて!!
そこは新しくできるサロンだったので
内定を頂いたときから、打ち合わせに足を運んでいました。
私は、実はわんちゃん以外の動物が苦手で
見たり、少し撫でるくらいなら良いのですが
お世話をするのが難しく、わんちゃんだけと
関われたら良いなぁと思っていました。
そこは、わんちゃんだけのトリミングで
他の動物の生体販売がないお店でした。
今の私では考えられないと思うのですが
その当時はおしゃれカットをばりばりしていたのですよ⁽⁽ ( ˊᵕˋ ) ⁾⁾
ブーツカットや、ブレスレット、ちょんまげも
していたっけ。お店の方針で香りの強いシャンプーで洗った
最後には、仕上げのコロンまでかけていました。
うちのミィちゃんも、耳の毛も足の毛も伸ばしていたっけヾ(・ω・`;)ノ
実際に過ごしにくそうだなぁ〜って思ってから
衛生的にスッキリしたカットの方が良いなぁって思ったんです。
お客様は皆さんとても素敵な方ばかりで
わんちゃんたちも、とっても可愛かった。
1匹1匹が大切だと、この時も思っていたのですよ。
みんなの事、8年たった今でも、名前も顔も覚えてる。
初めての就職は、自分自身経験が浅いせいもあるのですが
細かい事は書けないけれど、一言で言うと
とても大変だった。毎日13時間以上の勤務やパワハラも受けたし
色んなことで、心も身体もボロボロだった。
私は物凄く傷つくけれどずっと黙っているタイプでもないので
上司に直接物凄く怒る事もありました。
そして大喧嘩(つд⊂)
帰っても寝るだけの生活をおくっていたせいで
ミィをお迎えしたのに、念願のわんちゃん生活もなかなかうまくいかなかった。
母への毎日のマッサージも、遅い時間からスタート。
家族以外の私の味方は、お客様方とわんちゃんたちでした。
どれだけ励まして頂けた事か。
皆さんと離れるのは嫌だけど、退職届を出そうか
どうしようかとても悩んでいた時。
年末に、母が仕事中に窓拭きをしていたら
肋骨の辺りが痛くなったと言いました。
年が明けてしばらくたっても、ずっと痛い痛いと
言って、レントゲンを撮ってもらいにいくと
疲労骨折と言われました。頑張り屋さんの母なので
疲労骨折してしまうほど働いてしまったんだと
母も私も、みんなが大したことないと思ってしまったんです。
3年前から定期的に受けていた癌検診。
それなのに。
先生からの、とてもとてもとてもショックな一言
『余命1ヶ月です。』
ショックだなんて、そんな簡単な言葉じゃ言い表せない。
乳癌がリンパ、他の臓器に転移して、ステージ4と言われました。
『抗癌剤のお薬が効かなかったら、余命1ヶ月ですよ』
夜、家族の前で母が、『みんなは、みんなの人生を生きて』って言ったときの事も忘れない。
私は、自分の部屋に走って、大泣きした。
仕事に行っても毎日毎日1日中大泣きした。
自分は、母の最期の時まで一緒にいたいと決意した。
貯金は少ししかなかったけれど、私は働かないで
母のそばにいたいと思った。
お客様とわんちゃんたちに会えなくなるのが
物凄く、物凄く辛かったけれど、
私は今の生活をおくっていたら
なにも大切に出来ないと思った。
一生後悔すると思った。
この時、なんのために働くのかについて実感した。
なにがいちばん大切なのかを考えた。
仕事には責任があるし、私を必要として
くださる方たちの事も本当に大切だった。
私じゃないと爪切りできない子もいた。
電話の向こうの私の声に大喜びしてくれる子もいた。
ですが、本当に申し訳ありません。
私は、世界でたったひとりの母を選びました。
母の病気の事を会社に話すのもつらかった。
親身になってくださる方もいれば
心無いことも言われた。お客様方は
『お母さんとの時間を大切にして』と言ってくださいました。
退職届を出してから4ヶ月くらいで退職が出来ました。
上司からは会社を裏切ったと言われ
辞めてからも何度も嫌がらせのような
メールが来てとても怖くなった。
私はそれでも、今は母に少しでも明るい生活を
おくってほしかったから、母には知られないようにした。
絶対に、なにも、心配はかけたくなかったから。
私は毎日家にいるようになり、母も仕事を退職しました。
延命治療のため、毎週の通院もいっしょに行った。
母は歩く事も大変になり、車から家やお店に入るときは
必ず手を繋いで、病院では私が車椅子を押して
検査、診察や抗がん剤の治療に行っていた。
帰りの車では、用意しておいたチョコレートや
美味しい飲み物を渡すととても喜んでくれた。
少しでもホッとする時間を多くとってもらいたかったから。
『なるちゃんはよく気がついてくれる』と
言ってくれた。頑張ってためた貯金を使って
食材やお菓子をたくさん買って、喜んでもらえるように
料理も作った。上手じゃないけどね。
だんだん腰の骨も弱くなってきて
ずっと座っている事も困難になってきた。
もし、尻もちをついたら、もう歩けなくなるよって先生に言われた。
いっしょに映画を見に行ったり、食事に行くことも
大変になり、母は前よりも少食になっていった。
母の誕生日には、母の名前の入った大きなホールのケーキを
私たち姉妹三人でプレゼントした。
『こんな事してもらえたのは、産まれて初めて!』って
大喜びしてくれた。私は、お花と素敵な時計もプレゼントした。
母は、働かないでずっとそばにいる私を心配しました。
働きにいってくれると安心すると言ったので
私はハローワークに、通院に付き添いながら
働ける場所を探しました。そこで見つけたのが
国立病院機構の看護助手、非常勤でした。
面接で全てを話しました。母との最期の時間を
大切にするために、非常勤として働きたい。
病院でお勤めする事ができたら、
少しでも患者さんたちのお役に立ちたい。
面接官の看護部長さんたちは
私の話を真剣に聞いてくださいました。
その後、電話で採用が決まり、私は看護助手になりました。
早く仕事を覚えたくって、先輩に教えてもらったことは
全部メモを書いていた。1日中メモ。
それは誰かに褒めてほしいとかではなく、
1日でも早くお役に立ちたいと思ったからです。
家に帰って、夜になると看護師だった母と
メモをおさらいして、他のノートに新しく
書き直して、勉強を教えてもらいました。
嬉しい時間だった。
きっと母も同じ気持ちだったと思う。
私は、病院の患者さんとご家族の皆さんの
気持ちがとてもよく分かった。私も同じだから。
全員がうちの母だと思って接していました。
入院ベッドやポータブルトイレも、自分の
親兄弟が次に使う気持ちでとても念入りに綺麗に掃除した。
私は、職場では家の状況の事を看護部長さんと
看護師長さんだけに話して、他の人には詳しい事は何も話さなかったのですが
ある日、患者さんたちが食事指導の本をもらっているところを見ました。
私は、母に食事を何を作ってあげたら良いのか分からない、、
そこで、食事指導の栄養課に行ったんです。
最初私は、『あの、、患者さんが、、
食事指導の本が欲しいって、、、』
知られたくなかった、でも、お願いするんだから
本当の事を言うべきだ。
勇気を出した。
『すみません。実はうちの母がステージ4の
乳癌で。肺や肝臓にも転移しているんです。
何を作ってあげたら良いのか分からなくて、
教えてください。』すると、栄養課の方、
真剣な顔で、『これ、持っていって』すごく
親身になってくださったんです。嬉しかった。
そこには、気持ち悪いときにはとか、
色んなことが書いてあって、母の体調にあわせて
作っていたら、これなら食べられる!って、
喜んでたくさん食べてくれたんだ。
本当に困ったとき、正直に助けてほしいって話せば
手を差し伸べてくれる人がいるんだ。
あまり人には頼りたくない、自力でなんとか
するべきって思っていた私だったけれど
助けてもらえて、本当に本当に有り難かったです。
人に話すことによって、ヒントがもらえることもあり、
生活も気持ちも、少し楽になりました。
そして秋になり、だんだん寒くなってきました。
私とお揃いで、ポカポカのパジャマをプレゼントした。
だんだん外へも行かれなくなっていった。
『紅葉が見たいけど、見に行かれないから、テレビで見たの。
来年の桜が咲く頃には、お母さん生きているかどうか、、』
そんな事ないよ!ってすぐに言った。
まだ早いよ、まだ
22年しかいっしょに居てない。
これからもずっといっしょにいたいよ。
教えて欲しいこともたくさんあるよ。
いっしょに行きたいところも、、
抗がん剤で髪の毛は全部抜けて
どんどん痩せていった。
最期の時が近づいていった。