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小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑫ ブログ版

2019.05.14 23:14





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

ご了承に上お読み進め下さい。





血の海が足元に広がっていた。

どこまでも遠く、地獄の風景?…と。

そう想った瞬間にそんな妄想をみずからあざら笑う。地獄はもっと凄惨であるべきだ。

苦痛にのたうつ、叫び声もなければ泣き声も、喚き声もなにもない。

血の海。遥かなる、…と、それは破壊された風景なのだろうか?追い詰められた命の最後の純粋な風景なのだろうか?

いずれにせよ、その回答など想いつけもしないままに、そこに浮んでいる少女を、ハオはすでに見つけていた。

首だけを水面に曝してた少女の、その首の下に胴体があるのかどうかは、ハオは知らない。

ない、と。

そう想ったほうがたぶん、合理的な気はするものの、おののくような、表情以前の筋肉の停滞を曝して、気付く。

表情も何もないとき、骨格は、それこに表情が、それでもあるに違いないと探りを入れる眼差しには、おののきと了解されるほかない形態を、それは持っているのだろう、と。

光が差す。

あまにも絶望的な風景だったが、その少女のまぶたには光が触れているのだから、一面に白濁した空の、光のわななかないその上空の一点の、そこにだけは雲の切れ目があって、そこには空の、上空の青が無造作に曝されていたのかも知れない。

ハオはそれを見なかった。見上げなかった。ただ、彼女のまぶたにふれていた光の強い、そしてちいさな白濁に、それを確認しただけだった。そして、…と。

彼女は追悼された、と、鳥葬。

内庭に鳥はいまだに訪れない。

野晒しのみっつの、お互いにかさなったうつ伏せの遺体を、そして、弔いの声。

ジャンシタ=悠美の葬儀がキリスト教に様式にのっとって行われたに違いない事は、知っている。

彼らはなにを弔ったのか。なにを、弔い獲たのか。

14歳のジャンシタ=悠美は、床に顔を自分でぶつけながら、自分の顔面を破壊しようとした。食物の摂取を拒否した少女。

ハオは想い出す。

彼女は言った。

わたしは、…と。わたしを救わないでくださいって、そう言ったの。

なにを、…

お願いですから、救わないでください、…って。

なにを、…

わたしをこのまま、永劫の罪と絶望の中にだけ苛んでくださいって。…彼等の、…なにも知らない人々の代わりに。悲しい、自分がなにをしているのかさえ知らない人々の代わりに、…と。

なにを、…

見てるの?

ささやかれた、その言葉をハオは自覚した。たしかに、眼の前にジウの、自分を見つめている、あきらかに戸惑った眼差しがあった。なにを、…

どうすぃますぃたか

見てるの?

ハオが、自分の手の甲につきたてたナイフ不の柄を握り締めたまま、自分を見つめ続けているので、痛みに全身をわななかせ、眼差しを潤んだ網膜に淀ませながら、自分の眼球の充血にも気付かずにジウは、ただ、一言、「どうしたんですか?」そう言うしかなかった。

「…痛い?」

正気づいて、その気もなく耳元にハオがささやいたとき、ジウは彼の髪の毛の匂いと体臭を感じて、終に、…と。

俺は痛みさえ克服したのかも知れない。

そう、鮮明にジウは認識していた。あざあやかな、あるいは、あまりにも鮮明すぎる痛みが灼熱の痛みそのものとして、ハオに突き立てられたナイフのその、セラミックの触感そのものをさえあからさまに引き裂かれた神経系に感覚を押し付けながら、…なにも。

て。

俺は、いま、これらのざわめきをむしろ痛みとは感じてはいないと、と。

ジウの眼差しはその、自分の、不意に目覚めた矜持を曝すことなく、ただ、おののいたおびえをだけハオに向けて曝していて。…カス。

ハオは耳打ちした。そっと

…死ね。

痛みにふるえる、そして

…生きる資格ない。

これ以上痛みを感じないですむように、必死に

…死ねばよかった。

その四肢の緊張を、なんとか解きほぐそうと

…お母さんたち、

苦闘するその彼を、ハオは

…救えもしなかったでしょ?

気付かないながらやさしく、そして唇が

…知ってる?あの

耳たぶにふれた。ハオは

…お母さんたちの絶望。

ジウの、その

…死ねよ。もう

やわらかく、そして、いかにも歯ごたえがありそうな

…お前、カス以外のなにものでもないから

そんな触感を唇に

…もうやめて。

感じさせるそれ。喰い、

…永遠に穢れてるから。

吐き出し、言葉を発し、

…神様だって歎いてるよ。

舐め、

…お前、完璧に

すすり、そして、あるいは

…手遅れだから。

咀嚼しときに口付ける器官。唇に残るその

…死んで。

触感。ハオは、

…いなくなって。

その耳たぶを唇にくわえて

…もう、完全に

歯がかすかに

…お前の存在全部、綺麗に

それにふれて仕舞ったときに、ハオはむしろ

…自分自身で否定してくれない?

自分が何をしようとしていたのか、改めて

…お前にしかできないから。

自覚した。

…それ。

咬む。

…自分の完全否定なんて、

いちどだけやわらかく、やさしく噛み付いた後で、

…お前しか出来ないからね。だって

ふたたび力の限り噛み付けば、…!、と。

…お前にふれると穢れるから。だから

その、言葉にはならない気配だけが

…自分でやって。それ、

空気を痙攣させて、…痛いの?

…自分で、自部分自身の手で、

想う。ハオは、

…お願い、消えて。

お前、いま

…それがたぶん、いま

痛いの?所詮、お前は

…お前がここに存在する唯一の意味だからね。

お前に過ぎないくせに?

…わかった?

痛いの?…お前、

…死んで。

糞、…と、頭の中でささやかれただけのハオの言葉など、聴き取ったものはいない。ジウは背をのけぞらせて、痛い、と。

私はいたい、と、ただそれだけの言葉を連呼させたが、その、二度目にハオがジウの手の甲にナイフを突き立てたとき、そのとき、ブノンペンの、いかにも粗雑なホテル、その一室の薄汚れた窓が、窓越しの日差しをのけぞったジウのまなざしに直射したことには、ハオさえも気づかなかった。

正午のその部屋は明るかった。カンボジアで海外市場向けの覚醒剤を製造させるプランの失敗は眼に見えていた。ハオは、次の巨大市場として、日本を見棄てて、中国に大量に流すつもりだった。高純度の、ハイ・クオリティの日本製の製品は、かの巨大なマーケットを席巻し、ハオに巨大な富をもたらすはずだった。眼窩にふれた。

ハオは、叫び声をやめないチャンを殴打したときに。そして歎く。…これしか知らない。

ついに、人類はこれだけしからない。わめき、叫ぶ、耳障りな異端の、自分とは触れ合えない眼の前のそれに出逢ったときの対処としては、それを殴打するか、銃殺して仕舞うか、それしか結局は知らなかった、と、そして、ハオはチャンの髪の毛を引っつかんで、その顔面を殴った。

投げ落とされたシャワーが周囲に水流を、水滴を、飛沫を好き放題に散らして、たしかに、と、ハオは想う。俺は、こんな女のために濡れて仕舞った。

ハオの体中を、着衣のままに容赦なくシャワーの水流は好き放題に濡らしていた。タオは、その派手な物音にも決して、駆け込んできたりはしなかった。その事実に、ハオは自分たちが彼女に見放されて仕舞ったった事実を感じ、心にあざやかな歎きが息づいた。

水は音を立てた。

流れ出る音は、遠慮も何もなくただ、騒音以外のなにものでもない音響を無様なまでに立て続けるしかない。それは、現実に対する人間の、屈辱的な在りようの一つの用例のように、ハオには想われた。

失心して仕舞ったのかもしれなかった。

足元にうつぶせに倒れ臥したチャンは尻をだけ大きく派手に突き出したままで、そのままに、ハオにはなんの断りもなく、自分勝手に、と、ハオは、うつぶせ、床に押し付けられて変形した唇を、床のタイルと流れ出す水流が好き放題にいたぶっているその触感をまざまざと、皮膚の全身に感じた。

それは轟音だった。水流の、わななく騒音。連なりあい、かさなり合い、そして溶けあいは決してしないそれら、無造作を極めた音響の群れ。チャンを、髪の毛を引っつかんで、シャワールームの轟音の外に投げ出して、救ってやったそのハオの挙動を、気付いたタオは振り返った眼差しにだけ諌め、ふれる。

体ごと、床に頭部を打ちつけて、もはや叫び声さえ上げえもしないで沈黙し、荒々しく息づかっているチャンの、そのふくらんではしぼむあお向けた首にそっと指先でふれた後で、気になったそこ。

まぶたの、陥没に、いとおしむような接触をハオの指先が果たしたときに、タオが首を振ってそれを非難したのは知っていた。

ハオの指先は、薄い皮膚一枚が隠したその空洞の、やわらかすぎるまぶたの触感に指先で戯れて、…光。

その

ハオは戸惑う。こんなにも、と。こんなにも、まぶたは

そのときに、光がマイを包んでいた、と。

やわらかく、やさしく、そして繊細であってはならないと、その

チャンが想い出していたのはその時ばかりだったとは、かならずしも

息付くまぶたの、皮膚。微動だにせずに、そこに

限らない。マイの、その眼差し。自分の

覆い被さってあるその皮膚という名の皮膜。ふれて、そして

そのナイフに突き刺された腹部を指先で

ハオが振り向き見たそこに

赤裸々な恐れを感じさせながらふれてみようとしてその

タオは、ひとりで

至近距離の寸前で停滞していた、それ

たたずんでいた。眼差しに

指先。眼差しは

おののいて、そのくせ

すでに発光していた。たぶん、…と。

あからさまにハオの行為を非難し、なぜ、と

内側から沸き立った閃光にマイの眼差しは

なぜ、

もはや

あなたはこの期に及んで

ひるみ、そして、ただ白濁した眼くらましの

彼女を辱めるのか、と、その

暗やみの中に失落して、そして

眼差しが赤裸々に語った、それら

まぶたには瞬く暇さえ与えられなかった。チャンは

非難の言葉に打ちのめされる。ハオは

自覚した、いま、自分が

そして想い出す。彼は自分が

マイを殺して仕舞ったことを。不意に

射殺したみっつの死体をなかば

夜の明け方に忍び込んだ、ただ、その

忘れかけて仕舞いながら三階に上がって、その

気配が彼女を驚かせただけだった。…なにもかも

微笑を見た。彼の

処罰され獲ないほどに、なにもかもが

姿を見た瞬間にタオが、不意に

無罪だ、と、チャンはそして

顔中に漏らしたそれ

見る。白濁したその

微笑。…見て。

閃光に完全に、みずから

…ね?

つつまれて仕舞ったひとりの少女

ご馳走でしょ?

その女、その

わたしが、…

身体、…

…ね?

マイ、…と、

作ったの、その、言葉にはならない眼差しのあからさまな言語の明示。タオが微笑んで、皿の上の、煮込んだ鶏肉を指差して、…あなたはわたしを愛していますね?

タオの眼差しはささやきかける。

ハオはその音声を、はっきり耳に聴いていた。

食後に、ハオはタオを連れて、階下に下りた。一階の居間は、居心地がよかった。日当たりはよく、そして、タオたちベトナムの熱帯の女性たちが、すがすがしい日当たりをなどかならずしも求めていないことも知っていた。

死体が、そこにあることを、ハオに告げられていたわけでもないのにタオは、中庭を見せ付けた壁一面に広く開かれた窓から眼をそらした。恥らうように。

ソファのうえで、座った自分の膝の上にハオを抱きかかえて、やがて、…あなたは、と。タオのその眼差しはハオに探りを入れていた。あきらかに、あなたは、…「何を、して欲しいですか?」

と、それ。

逡巡が、無造作に曝されていた。