中納言良房 3.仁明天皇の時代
しかし、このときの水害救援を淳和天皇は評価するのである。
一一月二日、藤原緒嗣が念願だった左大臣に就任した。
ただし、後任の右大臣には清原夏野が就任する。
緒嗣にとっては満面の喜びに水を差された形となる。
「右大臣就任おめでとうございます。」
良房は夏野を素直に祝福した。
自身は今回の救援に対する評価がなく、出世もない。空席ができたはずなのに空席を埋める人材として自分が選ばれなかったことは悔しいはずであったが、良房の表情にはそうした点が皆無だった。
夏野もそれはわかっていた。
ここ数年の良房の活躍は並の貴族と同水準ではない。その活躍に応えるためには少なくとも参議には昇っていないとおかしい。
ところが、今回の淳和天皇の判断は良房を全く見ていない。
まるで良房が存在していないかのような扱われ方である。
「今回ばかりは主上のお気持ちが理解できぬ。なぜ良房が何もないのか。」
夏野は自身の右大臣就任の嬉しさより良房の扱われ方のほうが気になった。
「いたしかたございませぬ。水害の救援において先に動いたのは私でも、より多くの援助をしたのは緒嗣です。それに、これは右大臣殿を信頼するがゆえにお話する事にございますが……」
良房はこう前置きした。
これから話すことは下手をすれば不敬罪で逮捕されてしまうことだから。
「主上は退位を考えておられる。」
「なに!」
夏野は予想だにしなかった言葉に驚き、絶句した。
「殿下(=皇太子正良親王)よりお聞きしたのですが、どうやら主上は退位を考え、退位後の政(まつりごと)について殿下に話をされているとのこと。私がいくら春宮亮であってもその内容までは存じませぬが。」
「し、しかし、何ゆえ退位をお考えに……」
「主上が日々こなしておられる激務は我々には測り知れぬもの。主上の御歳(おんとし=年齢)を考えればやむを得ぬ事とも言えましょう。」
「そうか……。時が来たと考えるべきなのだろうが……」
「懸命に政務に尽くされた方なのですから、退位いただいてもそれは拍手で送り出すべきこと。それに、殿下のご即位ののち、大幅な人事刷新があることは充分考えられます。私はそれに期待しているのです。」
翌天長一〇(八三三)年は何事もなかったかのように始まった。
元日から雨にたたられたため新年恒例の朝賀が翌日に順延になったが、これも何らおかしなことではない。
しかし、順延された朝賀の場において淳和天皇の側に侍る二人の大臣がもたらす緊張は普通のこととは言えないものだった。
去年までは右大臣である緒嗣一人がいた。
今年からは左大臣の緒嗣と右大臣の夏野の二人がいる。
それが協力する関係であれば何の問題もないのだが、今やこの二人の敵対関係は周知の事実。
そしてこの二人のどちらの派閥に入るかといった問題が切実に考えられるようになった。
大学を出た貴族の多くは夏野の派閥に入った。こちらには良房がいることももはや暗黙の了解であり、彼らにとってはかつての恩師との再会ともなる。また、夏野の学識の高さは大学でも評判となっており、特に古典に関する知識の深さは多くの者を感心させていた。
一方、有力者の子弟であるがために貴族となった者の多くは緒嗣を選んだ。何と言っても最高官職である左大臣であり、藤原冬嗣亡き後の朝廷権力を一手に握っていると考えられたのも緒嗣である。また、一部例外はあるが、上流貴族の大部分が緒嗣派である。この状況下では、緒嗣派が主流で、夏は緒嗣を裏切った例外的存在と見られてもおかしくない。
実際、会議の場において左右の大臣が論争することなど珍しくなかったが、人数比で夏野は常に苦戦を強いられていた。
時には夏野の意見が優勢となることもあるが、そうなったとき、緒嗣は決まってこう言った。
「それは律令にはない。」
こう言われると夏野はどうにもできなかった。
しかし、緒嗣がこの時代のナンバー1の律令に対する知識の持ち主であったわけではない。それどころか、律令を声高に叫んだとしても細かいところまで知り尽くしているわけではないため、時には夏野の主張のほうが律令どおりであることもあった。
要は自分にとって都合の悪い内容が全て律令違反となっていたのである。
「緒嗣はとかく律令を口にするが、その実、律令を熟知しているわけではない。そこで、だ。良房。大学の力を借りたいのだが、できるか。」
「何をなさるおつもりで?」
「律令、特に令についての解(げ・解説書のこと)を作る。」
「おお、本朝にもついにできますか。」
解のことは良房も知識として知っている。
ただし、それは、唐に存在する法律の解説書のことで、日本には存在しないものという認識だった。
律令の不備を補うために出される格や、施行細則をまとめた式はすでに存在したが、律令そのものの解説書である解が作られてこなかったのは、唐と違って格式の効力が大きかったことがあげられる。
だがもう一つ、律令をよく知らないがために、律令を神聖不可侵なものとして扱っていたという事もあるのではないだろうか。実際、権力を握った者は、自身と都合の悪い事項の一切を「反律令」の一言にまとめ上げ、律令の神聖不可侵さと自身とを重ね合わせることに成功していた。
だからこそ良房の反律令宣言が有効だった。
一方、夏野は反律令を宣言したことなどない。律令を守るべきという信念は残っており、だからこそ、反律令扱いされると何も言えなくなる。だが、緒嗣と律令が同一などと思ったことはない。思ったことはないが反緒嗣が反律令と同一になるという現状を受け入れているわけではない。
良房と夏野は律令に対する考えなら正反対と言える。しかし、反緒嗣という一点なら完全に一致していた。
良房は解の作成にあたり、大学で教鞭をとっていた文章博士菅原清公と一〇人の教え子を推薦した。
これに夏野を加えた一二人で編集が始まり、二月一五日、「令義解(りょうのぎげ)」全一〇巻が撰進された。
これは緒嗣にとって大打撃だった。律令の詳細を解説した書物が刊行されただけではなく、それが国の法的根拠を持つ資料となったのである。
つまり、緒嗣がいかに「それは律令にはない」と言おうと、「しかし令義解にはある」と夏野が反論すれば、夏野の反論のほうが勝つのである。
ただ、この時点ではまだ公表されたのみであり、権限を持つのはこれからもう少し先になる。
なお、この書物の原本は現存しないが、複製版は現在も残っており、大宝令や養老令が現在でも把握できるのはこの書物のおかげである。
良房がそのことを話したのは夏野と、兄の長良だけ。
その他の者は淳和天皇が退位を考えていることなど全く想像していなかったし、良房も長良も夏野も、このことについては完全に沈黙していた。
ゆえに、二月二八日、淳和天皇が突然の退位宣言をすると朝廷内外は大混乱を見せることとなった。
「主上! なぜです!」
左大臣藤原緒嗣は涙を流して抗議した。ただ単に退位するというだけでなく、自分に何の相談もなしに退位宣言したことに対する抗議である。
これに輪をかけたのが、右大臣清原夏野が淳和天皇の退位を知っていたこと。
淳和天皇も夏野も何も言わず、ただ粛々と皇太子正良親王の受禅(正式な即位はまだだが天皇の職務を遂行する)がすすめられた。
正式な即位はまだだが、この日、淳和天皇の時代が終わり、正良親王の、いや、仁明天皇の時代が始まった。
仁明天皇はただちに人事の断行を開始。
まず、二月三〇日(この当時のカレンダーには二月でも三〇日が存在した)に、淳和上皇の子、恒貞親王を皇太子に任命。もっとも、これは嵯峨上皇の意志が強く働いている。この時代は長子相続の規則などなく、その時々において最良の人物を次期後継者とするのが普通であった。そして、この時点において仁明天皇の後継者として最良と考えられたのが恒貞親王である。とは言え、淳和上皇は最後まで反対した上で、最後は渋々といった形での承諾であった。何しろこのとき恒貞親王八歳。異例の若い皇太子だが、順当に考えれば皇位継承権筆頭が恒貞親王であることに異存はなく、恒貞親王の皇太子就任にクレームをあげる者はなかった。
いや、そのほかの人事に注目が集まったから、若すぎる皇太子にも問題が出なかっただけかも知れない。
その注目される人事とは二つ。藤原長良が左兵衛佐兼左衛門佐に就いたことと、藤原良房が春宮亮を辞して左近衛少将に転任したこと。
抜群の出世だから目を引いたのではない。
これまでの活躍からすれば不当なまでに低い地位だから目を引いたのである。
左近衛府自体は名誉ある職と見なされており、そのトップである大将となると参議や中納言に匹敵する。実際この時の左近衛大将は右大臣清原夏野の兼任である。右大臣と兼任するのがおかしくないほどの高位の官職とみなされており、大納言時代から継続している左近衛大将の職務に右大臣となった夏野が就いていることを誰も不可解なこととは考えていなかった。しかし、その二つ下の官職である少将となると、左近衛府の中ではナンバー3の地位でも五位の貴族の職の一つに過ぎない。国司まで勤めたほどの貴族である良房には格下げの待遇というしかない。
また、長良も左兵衛と左衛門を兼ねているとは言え、「佐(すけ)」である。確かに「佐(すけ)」は良房と違って左兵衛府と左衛門府のナンバー2の地位であるが、長良の実績を考えれば、いかに二つの兼任とは言え低すぎる。
この人事に緒嗣は狂喜乱舞した。
いかに良房が新帝の教育係であったとはいえ、それも即位までの栄光。これからの時代からは追放されたも同然ではないか、と。
しかし、良房も長良も、そして夏野もこの人事に対して何も言っていない。
それは、この人事の意味を理解していたからである。
そして、人事の意味を理解したのがもう一人いた。この人事で中納言に出世した藤原吉野である。
「奴らは軍事権と人事権を握りました!」
吉野はまずこう言って緒嗣を諫めた。
この時代の常設の軍事力は、近衛(このえ・天皇の警備)、衛門(えもん・宮廷の警備)、兵衛(ひょうえ・京都市中の警備)の三種類があり、それぞれに左右が存在するため、「六衛府」と呼ばれる。
これまでは夏野が左近衛大将なだけだったが、これからはこの六衛府の半分に長良と良房の兄弟が参加することとなる。
それも、各担当の左に。
近衛も衛門も、そして兵衛も、左の方が右よりも格上とされており、甚だしい場合には右が単なる名誉職に留まり、実働部隊は左に集中することすらある。
そのうち、天皇の側近を務める左近衛の実務のトップに良房が就き、衛門と兵衛の事務方のトップに長良が就く。
これはいざとなったら長良と良房の兄弟は軍事力を行使できるようになったということであり、と同時に、近衛府、衛門府、兵衛府の三つの官職に対する人事権を手にするということでもあった。
これらの六衛府にいるのは実際に武器を持って警護に就く者だけではなく、従六位上に相当する一〇名ほどの将監(しょうげん)と、従七位下に相当する二〇名ほどの将曹がいる。そして、良房は左近衛府の、長良は左衛門府と左兵衛府に対する任命権を持つ。
これらの役職は大学を出た者が就く官職の第一歩と見られる地位でもあり、貴族に上り詰めるためのルートがこれでできたこととなる。
「これらは何れも式部大輔(しきぶのかみ)の管轄する事項ではありません。」
そして吉野は思い出した。兄弟の父冬嗣が実権を握ったとき、嵯峨天皇に願い出て真っ先に何を求めたか。
人事権である。
自分より上位の貴族に対しては手出ししない。しかし、自分の後ろに続く者は徹底して自派の者で固めた。そして足元を固めた上で自分の権力を強固なものとし、一歩一歩階段を進んで最後には左大臣にまで上り詰めた。
ただし、これには一つだけ欠陥があった。冬嗣の死と同時にそれまで積み上げてきた権力構造が瓦解したのだ。冬嗣の手で引き立てられた貴族はいるが、その貴族は同世代に固まっている。今では緒嗣派の一人として朝廷に居座るまでになっている者もいれば、冬嗣を裏切らなくとも、高齢による引退や死去もあって、宮中にかつての冬嗣派の貴族は見あたらない。その意味で、夏野は極めて限られた例外である。
「若者はこぞって左近衛府、左衛門府、左兵衛府への任官を希望しています。」
緒嗣にこう告げた吉野は、そのあとで自派の者を思い返した。
そして、平均年齢が高いことに改めて気づかされた。新たな人材が加わることが少なく、大学を出た若者が競うように良房のものへ集合していると。
ついこの間まで、長良と良房の兄弟を大学も出ていないと馬鹿にしていたのに、そして、自分たちの学識の高さを誇りとしていたのに、今やその誇りが相手のものとなっている。
このままでいけば否応なく自分たちの派閥は権力争いで負けるだろう。今の時点でいくら権力を握っていようと、新たな人材の発掘に失敗していることで、権力の継承にも失敗をきたしているのだから。
「これは我々はと良房どもとの戦いではありません。老人と若者の戦いです。」
「何だと?」
「我々が高位の官職を占めている限り、若者は出世できず、権力も掴めません。かたや、良房は我々の排除を企んでいます。排除した後の空席を埋めるための人材を集めているのも自らの手で権力を掴もうとするがため。律令の批判もそのための一手段に過ぎません。」
夏野は良房を偽善と見たが、吉野は偽善の裏の野心を見た。
それは、自分が権力を掴むこと。
民衆の賞賛も、若者の支持も、出世の約束も、律令の批判も、全ては自分が権力を掴むために必要とする偽善だとすれば何もかも納得できる。
善悪でいけば悪だと夏野は見抜いたが、良房の人間としてのスケールの大きさに惹かれただけでなく、利用可能とも考えた。
吉野も悪だと見抜いた。そして、これまでの行動から良房という人間のスケールの大きさにも気づいていた。しかし、吉野には悪を受け入れる覚悟がなかった。
その代わりにした覚悟、それは、良房の敵となる覚悟である。悪に対する善を貫こうとしたのだ。
「良房に全てが集中しているのですから、良房を倒せば上手くいきます。」
「そうか!」
吉野の覚悟の言葉に緒嗣は機敏に反応した。
だが、吉野の表情は複雑なものだった。
「(とは言うが、いかにすれば良房を倒せるというのか)」
吉野にはその手段が思い浮かばなかった。
三月六日、正良親王が正式に即位した。仁明天皇である。もっともこれは単なる儀式であって、淳和上皇の退位宣言と同時に仁明天皇の時代は始まっていた。
ただし、正式に即位した後でないと果たせないこともある。
それが、自身の秘書役である蔵人、特に、そのトップである蔵人頭に自身の右腕となる頼れる人物を任命すること。
仁明天皇は直ちに良房を蔵人頭に任命した。それも左近衛少将の権力を手にしたままで。
これにより、良房は武だけでなく文においても仁明天皇の側に仕える身となった。
「やはりきたか。」
吉野は諦めの感情で蔵人頭となった良房を見た。
蔵人頭は確かに五位の役職。だが、天皇の第一の側近となるため、他の五位と違い、かなりの確率でその後は出世が待っている。しかも、良房はただの蔵人頭ではない。春宮亮として皇太子正良親王、すなわち即位前の仁明天皇の教育係をつとめていただけでなく、妻を通じた義理の兄弟という関係を長い間築いている。
ここまでくると仁明天皇に与える良房の影響力は絶対に無視できるものではなくなる。仁明天皇の論理や思考は良房に似たものとなるし、極端なことを言えば、仁明天皇自身の意見ではなく良房の意見が天皇の言葉となる。
良房のことを野心溢れる悪党と見た吉野は仁明天皇と距離を置くことすら考えるようになった。退位した淳和上皇に従うことで宮中から離れようというのである。
緒嗣は当初何も言わなかった。辞表をちらつかせることで自分の意見を貫こうとするのは緒嗣の常套手段であり、吉野がそれを使っただけだと考えた。
ところが、吉野の行動は緒嗣の常套手段のそれとは完全に違っていた。宮中に顔を見せなくなり、淳和上皇に付き従って淳和院に籠もってしまったのだ。
淳和院は退位後の淳和上皇が大皇后(=政子内親王)とともに住居とした天皇家の別荘で、もともとは南池院と呼ばれていた。この建物を「淳和院」と改名したのが退位直後の淳和上皇で、淳和天皇の名である「淳和」はここの名から来ている。
淳和院は現在の京都市西院付近にあった一辺が二町(二一六メートル)ほどの正方形の広大な敷地を有する建物で、嵯峨天皇の頃から天皇家の別荘として利用されていた。これがどれだけの大きさかというと、かなり権勢を持った貴族でも一町(一〇八メートル)四方が限度、のちに良房が前代未聞という広大な家屋を建てるが、それでもタテ二町×横一町の長方形。二町四方は良房の倍、普通の貴族の四倍の面積となる。
ただし、良房をはじめとする貴族の邸宅は内裏の東、左京に集中しているのに対し、淳和院は人通りの少ない右京に存在している。
淳和上皇は余生を妻とともにこの静かな、それでいて都市の快適さを体感できるこの地で暮らすことにしたのであろう。
ところが、この淳和院に藤原吉野が毎日のように足を運ぶようになり、最後には一角を自分の住まいとするようにまでなった。それも、中納言としての地位を手にしたままの吉野が、である。こうなると静かな暮らしを考えていた淳和上皇の思いは夢物語に終わるしかなくなる。
吉野の目的はただ一つ。上皇としての権限を発揮してもらうことにあった。
実際、淳和天皇の時代に嵯峨上皇は渤海使の饗応に対して発言権を行使した。また、仁明天皇の父としてもいつでも影響力を行使できる地位にある。
これと同様の影響力の行使を吉野は淳和上皇に期待した。
淳和院に詰めかけている吉野を、世間は先帝への忠義を欠かさぬ忠臣と見た。
ただ、それならば中納言の位を手放していなければならないが、それまではしていない。中納言としての権力を持ったまま、淳和上皇への忠誠を誓っている。
良房はこうした吉野の動きを知り、不安を抱いた。
しかし、この時点では動いていない。
蔵人頭と中納言とでは何と言っても位が違いすぎるし、淳和上皇を利用しようとしていることは理解したが、実際に利用できているわけではない以上、吉野が動けないでいるから。
「中納言(=藤原吉野)は朕を嫌っておるのか。」
「生涯をかけてお一人の方にお仕えすることもまた潔いこと。この良房も、主上が退位なさることがあるとすれば中納言殿と同じ行動を起こすかも知れませぬ。」
良房はこうは言ったが、そんなつもりは毛頭ない。天皇が変わったからといって、そして、流れが自分から離れたからと言って、吉野のように宮中から離れて引きこもることは、二つの点を除いてメリットがなかった。
その除かれる二つのうちの一つは淳和上皇に忠誠を尽くした忠臣としての評判を得ること。だが、それは引退を決めた者の得るべき評判であって、現役の中納言がとるべき行動ではない。
問題はもう一点。
藤原仲成が退位した平城上皇とともに奈良に向かって何をしたか。
良房はこのことを思いついた。
権力回復を狙っての反乱を起こしたらどんな結果が待っているか想像もつかない。仲成のときは坂上田村麻呂の尽力もあって大きくなる前に食い止めることができたが、今は田村麻呂がいない。後に良房の弟の良相が田村麻呂のような存在になるが、このときはまだ血気盛んな若者の一人なだけで、武将としての片鱗も見せていない。
この状況下で吉野が権勢を盛り返そうと淳和上皇を先頭に立てて反乱を起こしたら、血で血を洗う争いが繰り広げられ、最悪、国を真っ二つに引き裂く結果が待っている。
淳和天皇が退位して淳和院に移り住むことは全く不安を抱いていなかった。嵯峨上皇と同様、時に口を出すことはあっても基本的には風流を愉しむ文化人となると考えていたし、緒嗣らは仁明天皇のもと宮中に結集するとも考えていた。吉野のような行動をとる者など考えられなかったし、宮中で対立することがあっても武器を取るようなことはないだろうと考えていた。
ところが、予定が外れた。
それはあくまでも一個人が抱いている漠然とした不安であり、堂々と語るようなものではないとわかっている。だが、状況があまりにも似ていることに不安を感じた。
仁明天皇の天皇としての評判は確立されていなかった。
淳和天皇の退位があまりにも突然で、気が付いたら仁明天皇が即位していたことが理由として挙げられる。甚だしい場合は天皇が変わったことすら気づかない者までいたのだから。
元号は天長をそのまま継続使用し、貴族の顔ぶれも変わらない。つまり、新しい時代の到来を感じさせる要素が乏しかった。
ただし、五月に武蔵国から飛び込んできたニュースがその評価を一変させる。
武蔵国は東海道に区分されているが、この時代からみて五〇年前までは東山道に区分されていた。東海道に移管された後も都から上野国や下野国に行くには国の管理する官道ではなく、官道から外された東山道武蔵路を通るのが普通で、武蔵国にはこうした旅行者のための設備が設置されていた。
その設備が機能しなくなった。
武蔵国より貧困と食糧不足から、旅行者と地域住民の窮状を訴える知らせが飛び込んできたのが五月一一日。そして、その日のうちに多摩・入間郡界に悲田所(資料によっては「悲田処」とも)を設置するよう指令が飛んだのである。しかもこれは仁明天皇の独断であり、貴族に諮問することはなかった。
この素早い処置に市民は驚き、貴族たちは狼狽した。
貧しい人を救うのはこれまで良房が何度もやってきた。しかし、今回は良房が全く動いていない。そのため、いつもなら良房への賞賛が起こるタイミングで仁明天皇への賞賛が起こった。
だが、良房の名でやっていないだけであって、実際には良房の即決だった。何をどのようにするかを良房はすぐに判断し、仁明天皇の名で布告した。
貴族の誰もがそれを見破ったのだ。
そして、普段は貴族に諮問しても、いざとなったら良房は独断で仁明天皇を操ることを悟った。
その上、これもいつものことだが、良房は何一つ律令に反することをしていない。蔵人頭として受け取った情報を仁明天皇に伝えたときにプラスアルファの考えを付け加えただけであり、これは違反どころか蔵人頭としての当然の職務だった。
この悲田所だが、武蔵国多摩郡と入間郡の境に設けられたということが判明しているものの、そこがどこなのかは諸説あってよくわからない。今のところ、現在の埼玉県所沢市から東京都東村山市にかけての一帯のどこかではないかと言われている。
良房が行なった悲田所の対応の素早さは市民に仁明天皇を認識させ、感心させるに充分だった。
仁明天皇自身も即位直後は先帝淳和天皇の政務をそのまま継承することを心がけていたが、それで良いのかという思いはずっと抱いていた。
そのタイミングで起こった良房の対応は、日常の政務のときはともかく、いざというときは貴族に問いあわせずに独断専行で行動しても良いという認識、より厳密に言えば、今までずっと感じていながら上手く言葉に表せなかった思いを明瞭化させるに至った。
すなわち、貴族に頼らぬ天皇親政。
意図的ではないにせよ、貴族を軽んじて天皇親政をもくろんだ 平城天皇の即位直後と同じ状況が再現された。
仁明天皇、このとき二三歳。
この世代の者は、一〇代のような無鉄砲さは影を潜めるものの、世の中はこういうものなのだと悟るような人生経験は少なく、理想と現実では理想が勝るところがある。
とは言え、それは個人差がある。
仁明天皇は平城天皇ほど理想主義的な人間ではなかった。何でもかんでも自分でこなせるとは考えていないし、それは物理的にも無理だった。一日のうち、天皇としての職務をこなした後に残された時間は少ない。
自分の時間を作るには、自分の職務を多少なりとも代わって引き受けることのできる人間に任せるしかない。
その人間が良房だった。蔵人頭という職務がそもそもそうした役割なのだから当然といえば当然だが、仁明天皇の良房に対する信頼は普通以上のものがあり、それは人事にも現れた。
八月一四日、良房を正五位下に昇叙させる。蔵人頭と左近衛少将の兼任は続く。
それからわずか三ヶ月後の一一月一八日、良房を従四位下に昇叙させ、同時に左近衛権中将に出世させた。なお、蔵人頭の役割は続けさせている。
今まで五位にずっと留まっていた良房が、飛び級に次ぐ飛び級で四位になっただけでなく、前例のない四位の蔵人頭である。
当時の人にはそれだけで仁明天皇がいかに良房を信頼しているのか理解できた。
天長一一(八三四)年一月一日、新年恒例の人事異動が発表される。数多くの若い貴族や役人に新たな位が用意され、藤原長良もこのとき正五位下に昇進した。しかし、良房に対する人事の発表はない。
そして、一月二日も何事もなく過ぎ去る。
だが、一月三日、事態は何の前触れもなく急転界を見せた。
きっかけは、この日、淳和上皇が冷然院の嵯峨上皇を訪ねたことにある。その場で二人の上皇が何を話したのかはわからない。ただ、終わったあとで一つだけ声明が出された。
天長一一年は甲寅(きのえとら)の年であり、一月三日は今年最初の甲寅の日である。内容はただそれだけ。
しかし、それだけでも当時の人には何が言いたいのか理解できた。甲寅は何かしらの改編が行なわれるタイミングであると認識されており、革命とか大改革とかはこのタイミングで起こるとされていた。この一月三日は年と日付で甲寅が重なっている。これは普通ではない。
ただ理解できないのはなぜ二人の上皇がこれを宣言したかである。良房がこれを利用するとか、仁明天皇が主張するとかならばわかるが、すでに第一線を退いた上皇が、自分たちのやってきた政治を否定することを意味する改革を促すものだろうか。
上皇となってからも国政への口出しをした嵯峨上皇だけならばともかく、淳和上皇も加わっている。しかも、先に行動したのは淳和上皇のほう。
ひょっとしたらこのとき吉野が淳和上皇に何かしらの進言をしたのかも知れない。新年なのだから淳和上皇が嵯峨上皇を訪問するのは当然ではないかとでも言って。
淳和上皇が甲寅のことを知らなかったわけはない。新年の礼節を考えるとこのタイミングしかなかっただろうというのも納得できる。淳和上皇は礼節をとるか甲寅をとるかで、礼節を選んだ。いや、選ばされたのだ。
ではなぜ吉野がこの行動をとったか。
一月一日の人事において注目されるのは、緒嗣派の人事凍結である。すでに最上位に上り詰めている緒嗣は例外となるが、それ以外の人事は以前と変わっていない。一方、良房派の若い貴族や役人たちは出世した。
結果、二派の間が詰まった。
これを解消するにはただ一つ、詰まった差を広げるしかない。
とは言うものの、一度上げた位を下げることはよほどの失態がない限りできない。一日に上がったばかりでいきなり失態を犯したとしたらそれはよほどの間抜けか確信犯である。
ゆえに、方法は一つ。緒嗣派の位を上げること。これならば何ら問題はなかった。一日の人事発表で留め置かれているのだから問題視されるような急な出世というわけではない。しかも、甲寅の年の最初の甲寅というタイミングなら、予定外の大幅な人事発表があってもおかしくない。
二人の上皇の突然の声明を聞いた仁明天皇は、慌てて良房に相談した。
「改元なさいませ。」
良房は即答した。
「お二方の背後にいる者が願っているのは何であれ変わることです。最良は自分にとって良い方向に変わること。次善は自分にとって影響はないがとにかく変わること。そして何も変わらぬ事が続き、最悪は悪い方向に変わること。四者のうち上位二者が変わることなのですから、変えましょう。」
「しかし、改元とな。」
「新たな帝の即位に即し、改元をするのは何ら珍しいことにございません。」
良房はそう言ったが、真意は別にある。
無論、出世させないこと。
甲寅ゆえに変革が求められるのだというのなら、全ての日本人に共通する変革である改元をする。しかも、仁明天皇は即位に際して改元をしておらず、元号は淳和帝の定めた「天長」をそのまま使用している。
その日の夕方、仁明天皇は布告を出した。
『年は甲寅であり変革の年を迎えている。また新年を迎えたことで一新の気運も高まっている。ここに草創(新しいこと)を行ない、旧章(古いこと)を省みるため、改元を行なう。』
一月三日、元号が「承和」に改元された。
吉野は、そして緒嗣派は、完全にしてやられたと感じたに違いない。
世の中の変革を実現させた。それも、一握りの貴族や役人たちだけではなく、この国に住む全ての人に影響を与える変革を成した。何一つ人事に手をつけることなく。
しかし、元号が変わるということは。新しい時代の始まりであるということでもある。
緒嗣派はこれを狙った。
淳和帝に対して成功した瑞祥の報告である。
改元が発表になってからほどなく、全国各地から瑞祥の報告があがった。
記録に残っているのは大宰府から届いた筑前国の慶雲出現という情報だけであるが、状況の記録が残っていない瑞祥に関する報告も多々あり、何例が報告されたのかわからない。
わかっているのは、一月一六日に左大臣藤原緒嗣をはじめとする一三人の貴族が、慶雲は天下太平の現れであり、政治がよく治まっていることの証であるという主張をまとめた表(臣下から天皇へ差し出す文書)を提出したということ。
この表は、中国の古典、『孫氏瑞応図』や『礼斗威儀』といった文書からの引用を数多く含んでおり、瑞祥に応えること、すなわち、貴族や役人を出世させることは古来より決まっていると暗に主張する内容だった。
もし、淳和帝だったらこの表に対する何らかの対応をしたであろう。
だが、仁明天皇は、良房の支えもあって、全く違った対応を見せた。
表を受け取らず、中身も読ませず、表を受け取るように声高に主張する緒嗣に対し耳を塞いで何も聞かなかったことにするという態度で臨んだのである。
「主上、ぜひともお聞きいただかねば困ります。瑞祥は天下の命運を指し示す天からの知らせにございます。」
「ならぬ。」
「主上。表をお受け取りなさいませ。」
「国家の安寧は人が成すもの。天が成すものではない。」
仁明天皇はこう言い切った。
この場には確かに良房もいる。しかし、蔵人頭としての職務に忠実に仁明天皇の側で記録をとるだけで一言も発さない。
だから緒嗣らは何も文句が言えなかった。
仁明天皇の今の態度は間違いなく裏に良房がいるから。ただ、その証拠がどこにもない。証拠がない以上、蔵人頭としての職務を遂行しているだけの良房には何の文句も言えない。
緒嗣は必死に怒りを隠したが、良房は緒嗣の怒りを軽蔑の目で眺めるだけだった。
対外折衝を絶つことを主張する緒嗣の思いはある程度叶えられていた。ある程度、という限定がつくのは、国として正式な折衝を行なっていないということであって、民間の折衝まで途切れているわけではないから。
つまり、商人や亡命者が日本にやってくることは珍しくなく、とくに亡命者は日本国内で生活しており、日本人の民間人との接点も多かった。
新羅との通商を認め、通商窓口を大宰府に限定したことは、商人として日本と唐とのつながりで生きることを決めた新羅人にとっては、制約が増える不自由さ以上の安定的な利益をもたらすものであった。
しかし、全ての新羅人が大宰府に入れたわけではない。純然たる商人であれば大宰府に入れたが、商売で上手く行かなかったら海賊業に手を出す、あるいは、ハナから商人をやるつもりなどなく、商人のフリをした海賊をやるといった者は、大宰府に入港することが許されていなかった。
それを海賊自身が「はいそうですか」と受け入れるわけなどなかった。
無理矢理大宰府に押し掛ける者や、九州や山陰に押し寄せる者が現れたのである。大宰府の認めぬ船や、大宰府以外にやってきた新羅の船は拿捕すると宣言し、実行しても、流れが止むことはなかった。
当時の記録には「サイジ(サイは草冠に「最」・ジは「爾」。もともとは背の低い者という意味であったが、転じては人間的に小さい者という侮蔑をこめた新羅人への罵倒語になっていた)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、新羅人の犯罪に対する非難が見られる。
これを受け、朝廷では左右の大臣による激しい論戦がまき起こった。
左大臣藤原緒嗣は新羅との一切の通商の断絶を主張する。
「民衆はもはや新羅を賊としか見ていない。これ以上新羅との折衝を続ければ、混乱が生じ死者が出る結果を招く。」
一方、右大臣清原夏野はこれに反論する。
「新羅抜きにして唐との通商はあり得ず、唐との通商なくして本朝の必要は満たせず。新羅との通商を絶てば、そのほうがはるかに多い死者を生じる結果となる。」
緒嗣派も、こと対新羅情勢に関しては一枚岩であったわけではない。こればかりは夏野に賛成する者もいれば、緒嗣以上に強硬な意見を述べる者もいた。
両者とも決定的な意見とならなかったのは、双方の持つメリットとデメリットが、相互に妥協点を見いだせない、相反する関係にあるからであった。
そのとき、緒嗣が妙案を出した。
その意見はおそらく以前から緒嗣が熟考していたものであろう。何よりも段取りが良すぎる。
「新羅を中継しなければ良かろう。本朝の船を直接唐へ向かわせる。遣唐使を復活させるのだ。」
その一言は場の雰囲気を一変させるのに充分だった。
緒嗣のイメージする遣唐使のルート
夏野が新羅との通商継続を主張したのは、唐の物品と新羅の海運力を今の日本が必要とするからであって、新羅そのものが必要なわけではない。日本と唐の間を定期的に航海できる手段があれば問題ないということである。
緒嗣の本心は唐もいらないとするものだったが、実際問題、唐から輸入する薬がなければ命に関わる人がいることは認めなければならない。
であるならば、新羅対策は別に置いといて、唐との直接交渉を実現できる環境を作れれば、夏野らの意見は封じられることとなる。
「主上、遣唐使を復活させるべきです。」
緒嗣のこの言葉に夏野は何の反論もできなかった。
一月一九日、緒嗣の主導により早くも第一七次遣唐使が宣言され、まずは大使と副使が任命された。大使、藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)、副使、小野篁(おののたかむら)。
当時としては最高の人選と言える。
翌二〇日には仁明天皇が主催する宴が仁寿殿(じんじゅでん・天皇の日常生活の居所として使用された場所)で開催され、内教坊の楽人が踏歌を奏した。音楽に合わせたダンスと歌が披露され、その見事さに参加者たちは息をのんだ。
同日夕方、それまで正六位上であった大戸清上(おおべのきよかみ)に外従五位下が与えられ、貴族入りが決まった。今回の遣唐使での通訳としての抜擢である。
一月二七日、それまで天皇直属の組織であった検非違使を統轄する職務として別当を設置するとの宣言が出され、文屋綿麻呂の弟で武蔵国司であった文屋秋津(あきつ)が初代別当に任命された。
文屋秋津の初代別当就任には緒嗣の推薦があった。
「都の治安回復が急務であることは誰もがわかっておろう。」
それは緒嗣からの嫌みであった。
良房が始めた大農園所有。そこでは、真面目に働く者、そして、真面目に働いた者が守られる一方、社会からのはみ出し者が排除される空間ができあがっていた。
冬嗣の頃であれば少なくとも施という形で彼らが生きていくことができていた。言うなれば高負担高福祉であるが、実際のところは真面目に田畑を耕さなくても国が面倒見てくれる、悪く言えば正直者が馬鹿を見る社会だった。
良房は正直者に馬鹿を見せる者を排除した。排除して、彼らを養うための負担を捨て、真面目に働く者だけを集めた低負担低福祉のコミュニティーを作り上げていた。
ここで注意すべきは無負担無福祉ではなく、低負担低福祉という点である。真面目に働く意志がある者、そして、これまで真面目に働いてきた者は守るが、そうでない者は排除する。これだと、正直者が利益を得て、不真面目な者が馬鹿を見る社会となる。
一見するとこれは正しく思える。実際、良房所有の農園に住む農民は負担が減ったためそれまでには考えられなかった良い暮らしができている。
しかし、世の中は真面目な者ばかりではない。どんな時代でもどんな場所でも社会からドロップアウトする者は現れるし、犯罪に走る者だって現れる。これが一人残らず逮捕され、牢に入れられるのであれば問題ないが、そうではなかった。
犯罪は起こさないが社会に迷惑を掛ける者、そして、取り締まりなど怖くはないと犯罪をしでかしておきながら街中を平然とうろつく者、こうした社会のはみ出し者が京都市中に溢れる状態になった。
結果は治安悪化。
この状態を見た緒嗣が検非違使に目を向け、そのトップとしての職務に別当という役割を創設し、その地位に文屋秋津を推薦した理由は四つ。
一つは、文屋秋津が武蔵国司として武蔵国の治安回復に実績を残したこと。
次に、文屋綿麻呂亡き現在、武将として軍勢を率いる能力でトップを走るのが秋津だということ。ただ、それは他の者と比べると高いというものであって、田村麻呂はおろか、綿麻呂の指揮力に及んでいない。
三番目に、現時点で朝廷内の武力の権限を握っているのは、左衛門府と左兵衛府の権限を握る長良と、左近衛府の権限を握る良房の兄弟だということ。この状況下で緒嗣がどうこうできる武力は検非違使しかないが、検非違使の行動は冬嗣死後スムーズにいかなくなっていた。検非違使はもともと朝廷直結の警察力であり、冬嗣からのトップダウンがあったからこそ機能する権力であったことがマイナスに動いていた。これを回避するには朝廷からある程度権力を切り離して行動できるトップを置く必要があった。
最後に、治安が悪化しているため、治安維持のために新たな行動を起こさねばならないというアピールをすること。
この最後の理由が一番重要であった。実際に武力を握っている長良と良房の兄弟が動いていないだけでなく、その兄弟のはじめた大農園が原因となって社会のドロップアウト者が増え、治安悪化を招いたということを世に知らしめることが重要だった。
そして、そのアピールは成功した。良房への不満が起こったのである。武力を握りながら治安悪化に対して動かないでいることを批判する動きが現れ、それに対処しようという秋津への期待は高まった。
しかし、緒嗣の希望した結果は現れなかった。
治安悪化の原因が良房のはじめた大農園にあるというのは理屈であって感覚ではない。庶民にとって治安悪化は現実だが、治安を悪化させている者は自分たちと無関係の者達であり、逮捕に全力を挙げることには賛成したが、彼らを養うために自分たちの負担を増やすことには反対した。自分たちが手にした安全と豊かな暮らしの放棄は断じて拒否したのである。
検非違使の出動という決断をしたことは緒嗣のプラス評価だが、遣唐使に関してはマイナス評価の行動となっていた。
遣唐大使に任命された常嗣の父は藤原葛野麻呂。前回の遣唐大使をつとめ、帰還後は平城天皇、嵯峨天皇に仕え、参議とまでなった人物である。遣隋使と遣唐使の歴史を振り返ってみたとき、親子で遣唐大使をつとめることとなるのは、この葛野麻呂と常嗣の親子だけであった。常嗣、このとき三九歳。すでに参議までのぼりつめている。
また、緒嗣の娘を妻としており、緒嗣の信任も厚かったことも大使に選ばれた理由に含まれる。
一方、篁は、親は遣唐使ではなかったものの、伯父や従兄は遣唐使を経験している。だが、それよりも何よりも、小野篁の七代前の祖先は小野妹子。外交のスペシャリストの血筋を引くサラブレットと目され、自身も中国語を自由自在に操る能力に長けていた。篁、このとき三三歳。
身長六尺二寸(およそ一八八センチ)と言う当時では例外的な長身で、しかもかなりの美男子。その上、当時の貴族としては珍しく乗馬、弓術、剣術など武芸百般に秀でており、漢詩を作らせれば見事な作品を仕上げる頭脳も持ち合わせていた。当時の唐は日本人を背の低い人々と見ており、そのイメージを覆す長身で頭脳明晰、武芸百般に秀でた美男子が唐に渡ることは日本にとってイメージアップをもたらすと考えられた。
この二人が協力し合えば唐との直接交渉もスムーズに運ぶ。緒嗣はそう考えた。
だが、篁は違った。篁には危惧するものがあったからである。
それは遣唐使船の不安定さだった。良房も述べたが、遣唐使船の遭難確率は他の船と比べても異様に高く、篁の祖先にも何人か遣唐使船と運命を供にしたため海の藻屑と消えてしまった者がいる。こうした悲劇を小野家では篁が生まれる前から語り続けていたし、篁も物心つく前から聴かされてきていた。
その上、対外折衝に長ける家系ということは、その折衝に使う要素についても長けているということ。それはこの時代の国際共通語である中国語を自由自在に操るとか、交渉を有利に進める交渉力といったインテリジェンスだけではなく、高く売れるものを見定めるビジネスセンスや、船の出来具合と操船技術も見定める能力も含まれる。
このラストが問題だった。
船の出来も、船を操る技術も、遣唐使船は他の比べて劣ると言わざるを得ない。無事に渡れる可能性よりも、漂流するか沈没する可能性のほうが高く、無事に帰ってこられればそれだけで奇跡となってしまう遣唐使船はそんな船だった。
その劣った船に乗せられるということは緒嗣に『死ね』と命令されたようなものである。いかに名誉が待っていようと、緒嗣の発案した遣唐使船による遣唐使派遣を喜んで受け入れるわけなどなかった。
遣唐使船 その構造は、船と言うより水に浮かぶ大きな「箱」。
篁は緒嗣に直談判した。遣唐使は引き受けるが遣唐使船は再考願いたいと。
しかしそれは拒否されただけではなく、遣唐使を何だと考えているのかと公式の場で叱責される始末。
篁はそれまで一応は緒嗣派に属していた。ただし、明確な政治信条があってのことではなく、そのほうが優勢だからという程度である。
一方の常嗣も緒嗣派に属しているが、これは明確な意志による。何しろ、緒嗣は義父。そして、父の葛野麻呂は反緒嗣の急先鋒である良房の父冬嗣とことあるごとに対立していたのだから、おかしな話ではない。
完全なる緒嗣派ならばともかく、便宜上緒嗣派にいるだけの人間にとって、この直談判は緒嗣派にいることに疑問を抱かせるに充分な要素だった。
その上、副使が遣唐使に嫌悪感を示したことは、常嗣と篁の間に亀裂を走らせるきっかけとなった。
常嗣と篁はもともと相性が良くなく、宮中において接する機会があるときは礼儀に従って接するが、プライベートでは全く接点がない。
というタイミングで飛び出した篁の発言は、常嗣にとっては篁が危険から逃げ出す卑怯者というイメージを抱かせるに充分なことだった。一方、篁のほうも常嗣のことを、他人を道連れにする自殺願望者と見るようになった。
「今回の唐行き、自信はない。」
このようなとき、篁にとって長良は頼りになる立場だった。良房の兄でありながら緒嗣派とも上手くやっている。同い年ということもあって宮中であれこれと言葉を交わすことも多く、緒嗣派との決別とまでは決断できない篁が相談したのも長良であった。
「命をかけての航海となるが、それに見合うだけの成果が果たしてあるのか。それが疑問だ。唐の物が欲しければすでに商人が行き来しているのだからそれを利用すればよいのだが、左大臣はそれを理解しようともしない。」
「以前良房が言っていたな。遣唐使の船の安全性は疑問なのだと。」
「ああ。」
「だが、国の正式な使節として唐に行くのだろう。商人じゃ唐の皇帝には会えないじゃないか。」
「だから、遣唐使船にこだわることが問題なのだ。使節を唐に派遣するというなら商人の船に乗せれば良い。遣唐使船は立派な船だし威厳もあるが、使節を唐に届けるという肝心な役目を果たさない。」
「篁は唐に行きたくないのか。」
「それはない。小野家に生まれた者として、いついかなる時も海の外に行く覚悟はできている。それに、遣唐使をやったあとで待っている出世も魅力だ。しかし、危険を冒してまでの利益を本朝にもたらすかという一点については主張せねばならない。もし主上がお許しになるなら、遣唐使船を降り、商人の船に乗って唐に行くことを選ぶ。」
「主上が許しても左大臣が許さないだろうな。」
「ああ。だから問題なのだ。」
篁が拒否した遣唐使船だが、篁の思いは結実しなかった。
二月二日、緒嗣主導のもと遣唐使船の造船が始まり、責任者が任命された。
その二月二日、筑前の博多津でとんでもないことが起こった。
入港拒否された新羅の船が強行着岸し、乗員が上陸した。これだけなら頻繁に起こっている事態であったが、今回は違った。付近の農民が弓で上陸した乗員を射ったのである。資料には農民とあるが、もしかしたら以前から新羅人に苦しめ荒れてきた集落が雇った武人である可能性もある。実際、強行着岸した末に周囲を荒らし回る新羅の海賊は珍しくなかった。
しかし、理由はどうあれ、日本人が新羅人を殺傷しようとしたのである。これは日本の落ち度だった。
この知らせを聞きつけた緒嗣はただちに犯人逮捕を命じ、被害者を治療させて新羅本国へ送り届け、事件を事前に食い止められなかったことに対する譴責処分を大宰府に対して下した。
遣唐使を派遣するとなった以上、国外情勢の安定は必須であり、いかに新羅と敵対していようと、新羅との関係で日本の非によって悪化させる事態があってはならないとするのが緒嗣の考えだった。
ところが、これに対する後日談が伝わっていない。逮捕されたならそれは記録されているべきはずであるし、逮捕していないのならば新羅からの抗議文が伝わっていなければならない。
どうやら新羅からの非公式なアクションはあったようである。ただ、日本人から弓矢で攻撃されたことは事実でも、きっかけは強引な上陸を試みたことであること、また、これまで新羅からの海賊が日本の沿岸を襲っていたこともあって、それほど強く出られなかったと思われる。
また、犯人逮捕に関する情報はなくても、被害者への治療が当時の医療水準では最高レベルのものであり、丁重にもてなされて新羅本国に無事に送り届けられた上に、朝廷の名で責任官庁である大宰府に対する公式な叱責があったことで新羅は怒りを持ち出すことができなくなった。
事件の非は日本にあったが、あまり深く追求すると今度は新羅にマイナスになる。日本の場合は今回の一件だけ、しかも誠意を持って対応したのに対し、新羅が起こしている犯罪は年中、しかも一度も謝罪のないまま時を経過させている。
ただ一つ気になることがある。それは犯人が逮捕されていないこと。ついこのあいだ検非違使の権限強化を宣言して治安回復を打ち出した緒嗣が国際問題に発展した犯罪の犯人を逮捕できていないのだから、緒嗣の打ち出した治安維持も疑わざるを得なくなる。
良房も長良も、そして夏野もこのときに何らアクションを起こしていない。
しかし、このときにアクションを起こしている人が一人だけいた。
遣唐副使に任命された小野篁である。
二月二〇日、近江国滋賀郡にある小野氏の神社に対し、小野氏の五位以上の者は自由に参詣できるという許可が与えられた。
この時代、五位以上の貴族が五畿の外に出るには国の許可が必要だった。国司に就任するなどの理由で五畿の外に出るときはその任命されたこと自体が許可になるから問題ないが、信仰のためであろうと、自分の所有する土地に行くのであろうと、それがたとえ京都のすぐそばにある比叡山に行くのであっても、国の許可無しで向かうことは許されていなかったのである。
篁に対する処置であるとは一言も記していないが、小野氏に所属する五位以上の貴族はこのとき篁一人しかいない。そして、このときの処置も近江に向かって良いという許可であって、五畿からの追放ではない。
だが、これは事実上の京都からの追放である。遣唐使の派遣はまだ先の話であるが、遣唐使に任命されたことで篁は位が上がり、朝廷内での発言力が高まっている。
篁は危険極まりない遣唐使船に乗せられることに対して反感を抱いており、その矛先が緒嗣に向かっていた。また、長良に接触するという形で緒嗣派から離脱しつつあった。
そしてもう一つ、篁は個人的に新羅とのコネクションを持っていた。外交のスペシャリストとして国外の商人との私的な関係を築いており、後の話になるが、新羅から日本に出された文書の中に大使である常嗣の名はどこにもないのに篁の名は記されていることから、篁は新羅にある程度名の知れた人物であることがわかる。
国外に名の知られる人物には二種類ある。
その国に甘いか、その国に厳しいかのどちらか。いずれにしても無関心ではない。
篁は後者だった。新羅と通商するし、個人的な接触も持っている。だが、それは新羅にへりくだる態度ではなかった。無茶な要求を突きつけてきたときは向かい合うし、相手が海賊と化したら平然と相手の船を沈めた。人質をとって身代金、厳密には金銭ではなくコメや布であったが、そうした対価を要求してきたときは人質の命より海賊の処分を優先させた。
篁は外交のスペシャリストの家系に育った。だからこそ頻繁に侵略を繰り返す相手との接触方法を知っていたのではないだろうか。緒嗣がやったようにこちらから折れるのではなく、相手に一切妥協せぬ強い態度で出なければ第二・第三の侵略は絶対に起こる。なぜなら、侵略を試みる側が侵略を断念するのは平和に目覚めたときではなく、殴ったらそれ以上に殴り返されるとわかったときなのだから。
その代わり、ビジネス相手としての篁は安心できる相手だった。扱う物品の質も高いし、支払いも安心できる。約束は絶対に守るし、何より安定していた。
その篁が、いかに京都と目と鼻の先とは言え、近江に追放されたのだ。新羅にとって最も手強い相手が日本の手で追放されたのだから新羅は外交の勝利だと考えてもおかしくない。
その上、緒嗣は遣唐使船が漂流し新羅に漂着する可能性があるとして、新羅にも使節を派遣することを決めた。
もともとは新羅を頼らない唐との直接通商を求めての行動だった遣唐使派遣が、いつしか派遣することそのものが目的となってしまった。緒嗣の遣唐使派遣に対する熱意はもはや執念となり、新羅に対する卑屈な外交まで展開するようになってしまった。
ついこの間無条件降伏に追い込まされた相手が今では新羅の属国であるかのように振る舞う。これでは新羅が日本を見下すようになってもおかしくない。
結果は海賊の悪化と商業の衰退。
大宰府での通商が先細りになり、強行着岸しての、良く言えば商行為、正しく言えば略奪が横行するようになった。緒嗣はなおも新羅人に弓を向けた者の逮捕にこだわったが、犯人は最後まで捕まらなかったどころか、第二、第三の事件が発生した。海賊に抵抗するため、日本海や玄界灘、東シナ海沿岸に住む日本人の武装化が進んだのだ。
そして、商行為の衰退は情報伝達の衰退も招くこととなる。
三月一六日には、大宰府に立ち寄っていた唐人の張継明を京都に連れてくるように命令が下った。この役に任命されたのは肥後国司の粟田飽田麻呂(あわたのあきたまろ)。この粟田飽田麻呂は宝亀八(七七七)年に入唐し、延暦二四(八〇五)年に帰国した元留学生であり、二八年という長い期間唐で生活していたこともあって言葉に全く不自由しなかった。高齢にむち打ってもらわなければならないことを除けば、こうした役目を引き受けるには最高の人材であったろう。
しかし、わからないのは唐人の張継明の素性。
どうやらこの人はたまたま商用で日本を訪れていた商人らしいのである。この一商人に最新の唐の情勢を訊こうというのが今回の命令。国として情報を掴むのにこれでは心許ないとしか言いようがないが、それが篁を追放した結果の現実だった。
良房はこのとき何をしていたのか。結論から言うと何の記録も残っていない。何もしなかったわけではないと思われるが、記録に残っていない以上記しようがない。
しかし、記録に残っていないがゆえに記せることが一つだけある。
それは、良房がこの遣唐使派遣に対して当初は無関心であったこと。
良房は遣唐使に熱意をあげる緒嗣を冷ややかな目で見ていた。かと言って、この時点ではまだ遣唐使船に猛反発を示し、新羅に高圧的な態度で終始する篁に味方する気にもなれなかった。
これは、朝廷が遣唐使で沸き立っていた最中にあっても冷静さを失わない者がいるということになる。
時期は前後するが、二月三日、畿内班田を再び一二年に一度とするとの布告が出た。突然の布告ではなく、陣定で議決させた上で左右の大臣の諮問にかけられている。
四位の貴族でもある良房には陣定に出る資格があるし、実際何度も足を運んでいる。ただ、この陣定を良房は有効活用していない。
時間が掛かりすぎることに加え、ここで決議させたところで大臣の一言で頓挫するのでは、陣定の結果も単なる誓願提出元になってしまう。実際、法で定められているからと陣定の決議は読み上げるが、緒嗣はそのほとんどを握りつぶしていた。
今回も通常なら緒嗣が真っ先に反対する内容であったが、このときはスムーズに事が運んだ。
理由は二つ。
緒嗣に限らず朝廷内が遣唐使に専念していて、その他のことに目を向ける余裕を失っていたこと。
二つ目は、班田を一二年に一回にすること自体は律令に定められていることであり、今回の処置は律令の状態に戻したに過ぎないと考えられたこと。畿内に限定しているのも、律令のあるべき姿にするという先行実施と考えられた。
良房発案という点に目を付け、何か裏があるのではと考えた者もいた。無論、良房はそんなことなど言わない。良房は律令に則った内容を律令の手順に従って実施したに過ぎないと言っているだけである。
とは言うものの、班田の廃止を訴え、実行してきた良房である。それがこのタイミングで動くのは普通でない。良房の目的は一つ、班田廃止への布石である。いや、廃止ならまだ廃止するときに着目されてしまう。良房の考えているのを厳密に言えば班田の自然消滅。良房は班田の期間を延ばし、班田という律令制の基礎を人々の記憶から忘れさせることを考えたのだ。
これは巧妙とするしかない。
廃止するなら廃止すると明確に宣言するのは潔い。廃止に対する議論が尽くされ、その結果として廃止が宣告されるのであればさっぱりしているし、廃止に最後まで反対したとしても議論の結果なのだから受け入れざるを得ないものの、再び議論して復活させることも可能である。
しかし、廃止に対する議論もないまま気が付いたら有名無実化したらどうか。どうにもならないではないか。単に機能していないだけで廃止となったわけではないのだから文句を言うこともできない。かといって、忘れ去られたのは機能させてこなかった側の責任。それに、有名無実化したあとで原理原則に立ち返って有名無実化から有名有実化へと変化させても現実がついてくるとは限らない。残された選択肢は、改めて廃止を宣言するか、そのまま有名無実化を続けるしかなくなる。
例によって例の如く、良房は何一つ律令に違反してない。それでいながら律令の精神を否定し、その結果を既成事実化してしまう。
気がついたときには律令が死んでいることになるが、良房は律令の死を一言も宣告しない。ただ見捨てただけ。
これは陰湿だが、同時に利口だと言うしかない。
四月二〇日、大学にちょっとした制度改革があった。紀伝博士が廃止され、文章博士の一人増員が決まった。そして、それまで別々の学科だった文章道と紀伝道が合併することとなった。
それまで大学のトップの地位であった明法道からその地位を文章道が奪ったのはいつなのかわからない桓武天皇の頃までは大学といえばイコール明法道のことで、法律を学ばせて下級官僚を送り出すことが大学の目的と言われていたほどだったのに、この時代には文章道が大学の代名詞となるまでになっていた。
一説によると大学のトップに文章道が君臨するようになったのは嵯峨天皇の時代だという。それは、文章博士が、学問の世界に生きることを決めた者にとっての最高の地位として認識されるようになったことが理由である。
と言うのも、博士は学者としてトップの地位だが、文章道以外の博士は官僚の位で言うと七位でしかないのに対し、文章博士だけは五位、つまり、貴族の一員に列せられる地位となったのであるから。
ただし、文章博士の定員は一名。
一方、紀伝博士も同じ定員一名の博士職でありながら、官位で言うと正七位下。
それでいて、紀伝博士に求められる素養は文章博士と変わらなかった。
もともと紀伝道自体学ぶ内容が文章道と非常に似ていた。紀伝道は現在の歴史学に相当するが、現在の歴史学と違い、主として学ぶのは『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』『文選』といった中国の歴史書。歴史の新たな事実を提示する史書を書き起こすのではなく、すでに記された史書を読むのがこの学問。読む書物の種類こそ違うが、求められる素養、すなわち、中国の古典を読むことを主とすることでは文章道と同じであった。
その上、紀伝道の授業の中で文章道の教材である四書五経が加わり、文章道の授業の教材に中国の歴史書が加わると、いよいよ二つの間に差はなくなる。
同じことを学びながら、そのトップの地位が片や貴族、片や中流役人とあっては、文章博士に人気が集中するのもやむを得ないことであった。
ただ、このあたりが良房のセンスによるものだが、誰がどう観ても文章道による紀伝道の合併なのに、名目上は対等合併とするだけでなく、学科名を紀伝道にした。文章博士を一名から二名に増員させたが、紀伝博士の名も残り、文章博士の通称として普及させた。
これにより、今まで紀伝道の大学生であった者の不満を和らげることに成功した。こういった合併に起こりがちな、紀伝道出身者からの学科廃止に対する反発が生じなかったのである。
これ以後、学科名は紀伝道でそのトップは文章博士という、学科名と博士名が一致しない変速的な学科となった。
五月一三日、遣唐大使藤原常嗣が備中国司に任命された。参議である常嗣にとって国司になるということは格下げを意味するが、これに対する不満は一切出ておらず、誰もが当然のことと考えていた。
なぜか。
実際に赴任するのではなく、備中国司としての給与を国から支払うという意味であったからである。これは遣唐使に任命された者に与えられるごく一般的な待遇であり、この制度が適用されている間は名目上の国司と、実際上の国司の二人が併存することとなる。
遣唐使に選ばれることの負担は軽いものではない。いくら国がその費用を出すと言っても何もかも負担してくれるわけではなかったから。それは私物の持ち込みもあるだが、いちばんの負担は何と言っても私費留学生である。
遣唐使船に乗って唐に渡ることを希望する若者は多かった。学問をさらに学ぼうとする意欲だけでなく、唐に行って帰ってきた後に待っている出世、これが大きかった。
国が認める留学生であれば渡航費用は国が出す。とてもではないが留学生として認められない者については乗船拒否も可能。問題は、ボーダーラインの若者。留学生として国外に出しても国の恥にはならないだろうが、かといって、国が認めるほどの出来ではないという若者を留学生として連れていくかどうかを決める権限が遣唐大使にはあった。
ただし、その費用の負担も遣唐大使に任されていた。
自費で渡航費用を工面できる若者なら自力でとっくに唐に渡っている。唐に渡ってある程度の年月を過ごして帰ってくれば出世が待っているのだから、遣唐使である必要はどこにもない。
遣唐使とともに唐に渡ることを希望するのは、貧しいが意欲と野心に満ちた大学生や僧侶と相場が決まっていた。当然ながら渡航費用など工面できないから大使の世話にならなければならない。
常嗣のもとには大勢の若者が押し寄せていたと見え、備中国司の給与だけでは賄いきれないとの進言が緒嗣に出された。
緒嗣はこれにすぐに応え、七月一日には常嗣が近江国司を兼任するとなった。これも備中国司と同じで、実際に勤務するのではなく、国司としての給与を与えることが目的である。
七月九日、新たな人事の発表があった。
藤原良房、左近衛府の権限を持ったまま参議に補任。
参議になったということは現在の感覚で言うと内閣の一員となったようなものであるが、政党という概念のないこの時代、主義主張の異なる者が混在する連立内閣のほうが常態で、現在のように一政党だけで内閣が構成できるほうが異常事態であった。
父である冬嗣のときもそうであったが、参議というものはそれ以下の貴族と明確に分断できる線であり、たいていの時代は若者と敵対する高齢者の最後の牙城。そこに足を踏み入れることは実質上の問題もさることながら、感覚的な問題として大きなものがある。
このときの良房は参議の中では一番の格下であるが、これで良房が緒嗣の牙城に足を踏み入れたこととなったことの意味は大きかった。
ただ、それに対する感情は、反発よりも諦めだった。
良房のこれまでの実績を考えれば、今まで参議ですらなかったことのほうがおかしい。良房が参議になるのは時間の問題であり、その時間が訪れたのだという感情があった。
参議としての良房を迎え入れたのは、仁明天皇と夏野、そして、仁明天皇の弟ということで特例により出世した源常ら源氏の若者だけだった。極論すれば圧倒的多数が自分の敵という環境に足を踏み入れたこととなる。
もっとも、仲間がいるだけまだマシとも言える。夏野はこれまでずっと、自分の周囲が全部敵という環境だったことを考えれば、夏野がいるだけでも恵まれていると言えよう。
良房は夏野との挨拶を済ませると、左大臣緒嗣の前に歩み寄り、ひざまずいて緒嗣に対し頭を下げた。
「このたびは叙任いただきありがたき幸せ。つきましては、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。」
かつては目上を目上とも思わぬ罵声を平然と浴びせていたが、最近は丁寧な言葉遣いをしている。だから、一見すれば、昔はともかく今は礼節を守っているように見える。良房との接点の少ない者の中には、噂と違って良房が礼儀正しい若者ではないかと感心する者が多かった。
また、謙虚で気前が良く、庶民への心配りも忘れることなく、何があってもすぐに行動する若者というのが世間一般におけるこのときの良房の評判だった。最高の家系に生まれたトップエリート中のトップエリートであるのにそれを鼻に掛けないことも、評判を高めるのに役立っていた。その話を聞いている貴族の中には、良房のことをまれに見ぬ好青年ではないかと考えた者もいた。
しかし、良房は緒嗣らを排除すると公の場で宣言し、そして、それまで延々と続いてきて、今後も永遠に続くとも考えられてきた律令制そのものの批判もしていることは誰もが知っていた。そのため、良房の参議就任を快く思わない者も多かった。
良房が参議になったと同日、兄の長良が加賀国司に就任することが決まった。
それまで加賀国司は良房であったが、良房はその任を解かれたこととなる。遣唐使に選ばれたのでもない限り、参議になった以上国司となるのは不可能なことだから、解任というより卒業と言うべきか。
しかし、卒業させた後の後任がいないのではどうにもならない。かと言って、良房が私財を投じてやっと軌道に乗ってきた加賀国の運営を引き継ぐのは困難なこと。
長良の国司就任は他に選択肢のないことだった。そして、その勤務形態も、加賀国司の権限を持った中央勤めの貴族という変速的な役割である。遣唐使に選ばれた者が就く名目上の国司と似ているが、実状は異なっていた。長良自身は加賀へ赴任せず、代理の者を加賀に派遣している。おそらく、良房が選んだ人材の派遣であったろう。もしかしたら、良房が派遣していた代理の者をそのまま継続させたのかもしれない。
そして、遣唐使が就く名目上の国司と最も異なることが一点。名目上の国司は何もせずに給与が貰えるが、長良の場合は、確かに給与を受け取るものの、それ以上の財産の持ち出しが待っていた。
加賀国に良房が私財を投じていると言ってもかなりの部分が長良の財産の投入である。兄弟共通の財産と言えばそれまでだが、もともとは、冬嗣の地位を良房が、財産を長良が継承したのであり、長良は財産を良房が使うのを拒否しようと思えばできる立場だった。
しかし、長良は全く拒否していない。そればかりか弟のために借金までしている。大土地所有によって収入は増えたが、支出はもっと増えていた。
普通ならここで支出を減らすように弟に勧告するところだが、長良は違った。
「何か必要なものはないか?」
それは一生を弟の影として生きることを誓った男のプライドでもあった。そして、ここで支出を減らすことが、良房のやろうとしていることにブレーキを掛けてしまうこととも知っていた。
長良は弟に口癖のように問いかけ続け、弟はその好意に甘え続けた。
参議になった良房は確かに礼儀正しかった。しかし、自分の意見を主張することは貫き通した。
「治安回復を訴えながら治安は悪化しています。左近衛府に動けと命ぜられれば直ちに動きますが、現状では一人として動かすことができません。」
「近衛府は宮中の警備が役目、治安維持と回復は検非違使のつとめ。それは律令にもあるとおり。」
「令義解にはそのような記載はない。」
良房が提案し、緒嗣が律令を理由にそれを拒否し、夏野がそれは律令にないことと主張する。これがいつもの光景だった。
令義解を公表した当初は令義解に折れる態度を示したが、緒嗣は次第にそれを無視するようになってきていた。そして、相変わらず自分の意見こそ律令であり、それに反することは、たとえ令義解に書いてあろうと反律令だと宣言するようになった。
良房はこれに目を付けた。
「主上、律令を明確化する必要はございませぬでしょうか。右大臣殿の奏上した解(げ)を活かすことを御考慮願います。」
「何を言う。律令はすでに明確化されているではないか。これ以上何かをするのでは屋根の上に屋根を重ねることになる。」
「未来永劫左大臣殿がご健在であればそれでもよろしいでしょう。ですが、人の命には限りがございます。文章によって記された律令ではなく左大臣殿の記憶を頼りとする律令の運用は、万が一のことがあった場合、律令が運用できないこととなります。」
理論上は良房の言い分が正しい。
しかし、これは痛烈な緒嗣への皮肉であった。
律令は文章で記されており公開もされている。ところが、そちらではなく緒嗣の記憶を優先するというのは、緒嗣が律令を守っていないと言っているも同じ。
さらに、左大臣に万が一のことがあった場合というのも、後継者不在でもある緒嗣は、自身の権力を誰かに引き継がせることができないと言っているのと同じ。
つまり律令を無視して専横を振る舞っている独裁者が君臨しているのが現状であるとし、その独裁者は自分の権力の継承に失敗しているから、独裁者の死後に備え今から準備しておくべきだと言っているのである。
緒嗣は激怒したが、理は良房にある。
緒嗣は何ら反論できず、仁明天皇は夏野の撰進した「令義解」に公的な地位を与えた。
一二月五日、「令義解」施行。
この日を最後に、緒嗣は律令を武器とすることができなくなった。
承和二(八三五)年の一月は、遣唐使派遣に向けた人事の整備で始まった。
一月七日、遣唐使として派遣される者が正式に任命された。大使や副使をはじめとする主立った者はすでに任命されていたので、この日に任命されたのはそれより下の役目の者達である。
遣唐使に選ばれなければ天皇に接見することも許されない地位の者にとって、左右の大臣を側に従え、大納言、中納言、参議を周囲に配置させる中、一人一人天皇に拝謁するのはこれ以上ない栄誉。中には感動のあまり涙を流す者も現れた。
しかし、遣唐使に選ばれていながら、この場の雰囲気に流されることなく、感動とは無縁の者がいた。
篁である。
近江に追放された篁がいつ京都に戻ってきたのかはわからない。元々近江に行っても良いという指令であって、近江に行かなければいけないとも、京都に戻ってはいけないとも言われていない。だからこの場に篁がいることは、驚かれることではあったが、何らかの禁を破っているというわけではなかった。
篁はこの日、従五位下から従五位上へ進み、備前国司に任命された。実際に赴任するのではなく名目上の国司である。
そして、篁が復帰したことで新羅との関係修復が動き出した。新羅への強硬路線が再開し、強行上陸をたくらんだ船には容赦ない弓矢の雨が降り、大宰府に向かわなかった船にも攻撃が仕掛けられた。新羅からの船は大宰府へと向かわなければならなくなり、沿岸地域の不安要素は減った。
その結果、海賊から受ける被害が劇的に減った。ただし、海賊行為の総数が減ったのであって、海賊の構成人員の総数が減ったのではない。
その現実は、海賊をしなければ生きていけない者にとって喜々として受け入れられることではない。
それは新羅の海賊の中で篁の命を狙う動きが起こるきっかけとなった。存在するのが当たり前の障壁がなくなったときの自由、そして、その障壁が復活したときに感じる不自由さ。これは元に戻ったという感覚ではなく、苦痛を感じさせる要素になった。
その篁が、豪華ではあっても襲いやすく沈みやすい遣唐使船に乗り込むというのである。これはまたとない機会だった。
遣唐使は四艘の船で航海するのが決まり。これでは船団というのもおこがましい。世の中には四艘前後で航海する船団もあるから数が少ないところに目をつぶることはできても、よたよたとした頼りない船が四艘固まって移動するのである。遣唐使船はスピードが遅い上に、外見は豪華と来ている。これは威厳を示す効果があると同時に、海賊にとって絶好の獲物ともなるということでもある。
さらに、その船に乗るのは憎き小野篁。
海賊には襲う動機も襲うメリットもできたことになる。
新羅を不要とする航海の構築がきっかけだったのに、安全のために新羅に頭を下げなければならなくなり、それでも安全が保障できなくなった結果、三月一二日、大宰府に対して武器と防具を遣唐使船に積み込むよう命令が下った。遣唐使船そのものの安全すら脅かされるようになってしまったのだ。
時は前後するが、遣唐使の任命のあった一月七日、良房は従四位上に昇叙した。
情報は必要とする人の元に届くとは限らないが、情報を知っていなければいけない人の元へは必ず届く。良房にとって従四位上になったということは、自分から求めなければ情報が手に入らなかった立場から、自動的に情報が手に入る立場になったということである。
良房はこのときはじめて国家財政の現状を知った。三年前の財政も、二年前の財政も良房は知っていた。ともに黒字である。支出が減って税収が増えたのだから当然だが、これを強調する向きはなかった。何しろ支出が減って税収が増えた理由が良房のすすめた大農園なのだから、律令制の根幹を否定する良房の行動を肯定する数字は積極的に公表できるようなものではなかったろう。
それでも公開はされていたのだ。だから、良房も財政状況を知ることができた。ところが、前年の財政は知らなかった。徹底的に秘密にされていたからである。
こうなると良房には見過ごしできない話となる。良房の情報収集能力は決して低くはない。秘密工作員を駆使するとまでは行かないにせよ、情報がどうしても必要とあればそれに近いことはしている。それでも前年度の財政状況はわからなかった。これは何かしらの大問題が隠れているに違いない。
それが判明したのは従四位上になったとき。探しだそうとしても探し出せなかった情報の正体を知った良房は、秘密にされた理由を瞬時に理解した。
全ては遣唐使だった。
遣唐使の派遣は財政に大きな負担をもたらすことは知っていたが、実際に数字で示されたときには知識で知っていた以上の惨状だった。
「税収より支出のほうが一割五分(一五パーセント)も多いではないですか!」
「そなたの父が左大臣であった頃も毎年そうであったぞ。」
緒嗣はそう言い逃れをしたが完全に動揺していた。
緒嗣だってこの事情はわかっていたのだ。だが、それを認めることはこれまで自分がすすめてきた遣唐使派遣を無に帰すことになる。だから緒嗣は徹底的に情報を隠していた。
「先の左大臣(=冬嗣)は遣唐使を派遣しておりません。」
冬嗣が財政赤字を連続させていたのは弘仁の大飢饉という大問題があったからにすぎない。この問題に直面した冬嗣は綱渡りを繰り返して何とかやりくりしていたことを良房は知っている。
「それはそなたの父に天槌が下ったがために起こった飢饉によるもの。遣唐使は国を豊かにするために行なうもの。性質が全く違う。」
「天槌ですと!」
良房はこの一言に激怒した。自分の父親のことを天罰が下るべき大悪人と言い放ったのである。
これまで良房は公の場で自分が冬嗣の子であることを可能な限り避けてきた。触れなければならないときも「先の左大臣」という言い方をしているが、これは良房なりの配慮であり、また、亡き父の意志でもあった。
しかし、公の場で自分の父親をこれ以上ない言葉で罵倒されるのは我慢のいくことではない。
「やめないか、良房。」
「いえ、やめません!」
立ち上がって緒嗣の元に向かおうともし、兄長良が制さなければ殴り掛かるところであった。
「何十万人の命が失われたのを天槌の一言で片づけるとは正気ですか! あなたはそんな人だから遣唐使に危険な航海をさせることにも無頓着なのです! 主上、今回の遣唐使、即刻中止を提案します。今のままでは害ばかりで益がなく、遣唐使たちの命を失う可能性が高すぎます!」
良房はこう言うのが精一杯だった。
「ならん。」
緒嗣は即答した。緒嗣にとって遣唐使は執念だった。もはや不利な形勢からの一発逆転にもならないし、財政を悪化させるのみで何ら利益をもたらさないことは誰の目にも明らかだった。にも関わらず、緒嗣は遣唐使に執念を燃やした。
この時点での国庫負担は、遣唐使に選ばれた者に払った給与や遣唐使船の建造費用だけではない。唐への贈答品もあるし、航路安全のために新羅に支払う物品もある。これらは全て、遣唐使を中止したところで戻ってくるような代物ではない。
それに、遣唐使が成功しても緒嗣の形勢を有利に働かせないが、失敗したら間違いなく緒嗣のキャリアに傷が付き、下手したら失脚の原因となってしまう。
緒嗣はもはや引き返すことができなくなっていたのだ。
「では、この財政はどうするのですか。税は急には増えません。もはや支出を減らさなければならないのではないですか。」
良房は基本的に支出を減らすことより収入を増やすことを考えるタイプであった。支出がさらなる収入が生むとも考えており、良房の性格の中にケチという要素はない。
一方、緒嗣は基本的にケチである。収入を増やすことに心を配るのではなく支出を減らすことに心を配っており、これは公私とも変わらない。
ところが、こと遣唐使になると二人は逆転する。遣唐使の出費を減らそうとするのが良房であり、いくらでも出費するのが緒嗣であった。
理由は簡単で、良房の出費が激しいと言っても収入を考えない出費ではないから。時として収入以上の出費をする局面もあるが、それは出費に見合うだけのリターンがあると考えたときに限られる。就労の意志のない者への福祉を切り捨てたように、出費に対する見返りがないと判断した要素について良房は情け容赦なく切り捨てている。出費に見合うだけのリターンがない遣唐使の負担に文句を言ったのも同じ発想による。
「そなたの父が行なったことを繰り返せば良いではないか。」
その文句に対する緒嗣の解答はこうだった。
「先の左大臣の方策とは何ですか。」
「新貨を鋳造すればよい。」
「な!」
緒嗣は、コメや布の税は有限であると考えていたが、貨幣なら無限だと考えたのかも知れない。
冬嗣が弘仁九(八一八)年に発行を開始させた「富寿神宝」はそれまでの貨幣である「隆平永宝」一〇枚分の価値があるとされ、一瞬ではあるが国庫を潤した。
緒嗣はこれを企んだ。
「銭を鋳造すれば財源など無限に現れる。」
これには呆れて何も言えなかった。
富寿神宝は確かに国庫を一瞬だけ潤した。しかし、その後に待っていたのは絶望的な大インフレだった。国庫を潤すどころか国庫に大打撃を与えたのである。
緒嗣がこれを知らなかったのかどうかはわからない。
ただし、一つだけ判明していることがある。
緒嗣のこの提案が受け入れられたのである。
一月一二日、新銭「承和昌宝」の発行が決まり、早速鋳造が始まった。