連休中のこと(その8)
女が部屋から出ていった後で、ラジオをクラシック音楽のチャンネルに設定し、再び湯船に浸ることにした。
身体がだるく、頭の奥が重い。
浴室の床に散乱している鏡を避けながら湯に入る。
蛇口をひねり、ぬるくなった湯に熱湯を足す。
目を瞑り、聴こえてくる音楽に神経を集中する。
脳がメロディに同調しかけるのを拒否するかのように湯船に寝そべり、両耳が湯に浸かるまで潜りこむ。
水面には顔がわずかに浮かんでいる。
目を開けると、水中から浴室の明かりが散乱して見える。
どこかで見た光景だ。
鼻と口はまだ水面より上にあるが、息苦しさを感じはじめる。
そして、一人になるべきではなかったのかと考えてしまう自身の身勝手さに、身震いを覚えた。
しだいに人はみなそれぞれ勝手じゃないかという思いに捕らわれていく。
女も、私も、新しい元号を祝う者も、祝わない者も、みな自分の都合で生きている。
あらゆる関係が意識の中で、よそよそしく私から離れていく。
本当は、私以外の人はすべて分かっていて、私だけが知らないのではないか。
みな、自分がなぜ生きているのか分かり、いつ死ぬのかを知っている。
この世にただ一人でも、信じられる人はいるのだろうか。
身体が湯船に沈みこむ。
水面にはまだ明かりが光っている。
3歳のときに、海中から見た景色を思い出す。
あのときも、海面に浮かぶ光が綺麗に輝いていた。
当時の記憶が甦ってくる。
生きていても仕方ない。
当時、確かに私はそう考え、それを実施した。
生命は海から生まれたのだと、誰かから教わった。
だから、僕も海に帰るんだ。
砂浜を裸足で歩き、海に向かっていった。
波が高くなり、だんだんと僕の身体を包んでいく。
波の力は強く、あっという間に身体が思うように動かなくなった。
足が地面から離れ、僕は海中に引き込まれていく。
苦しくて目を開けると、海中から太陽の光が見えた。
こんな綺麗な景色があったんだ、と思いながら僕の意識はどんどん沈んでいく。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
私は何かをつかもうと、手を伸ばした。
手に痛みが走るが、掴んだものを離さず握る。
光の粒子が海中で散らばっている。
苦しい。
あの光のどれかを掴めたら僕は楽になれるだろうか。
僕は光の一つに向かって手を伸ばす。
掴んだもの。それは鏡の破片であった。
私は闇に落ちながら無意識にそれを湯船の中に入れた。
闇の中でしか掴めないものがあることを、私は知っている。
光を握ったと思った瞬間、僕の右手の人差し指の下に、激痛が走った。
手を開くと、何かが食い込んでいた。
光と思ったもの、それはただの割れた鏡の破片であった。
まったく、何が起きるか分からないやと考えなから、僕はとうとう、最後の瞬間を迎えようとしていた。
力はもはや、どこにも入らなかった。
ああ、最後の最後まで、僕は何も掴めないのか。
僕は傷ついた右手を伸ばした。
海中に赤い血が線を引いている。
苦しいのも、間もなく終わるだろう。
湯船の底にぶつかったのだろうか、強い衝撃を感じ、握った鏡の破片を手から離してしまった。
苦しい。
私はこのまま苦しみの中で沈んでいくのだろうか。
私は何かを握ろうと右手を伸ばした。
失われていく意識の中で、手を伸ばした先に触れるものがあった。
誰のかは分からないが、それは手であった。
人差し指の下に傷痕をつけた右手が、海中に浮いていた。僕は最後の力を振り絞り、その手を掴んでいた。
右手に確かな重みを感じなから、私は水面から浮上しようとしていた。
あのとき握った手の感触が、再び私の手の中にあった。